創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

タグ:生かされるまま生きる

『生かされるまま生きる』のイプシロン氏は、こう言い放った。
まあ、未だに『宿業』だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、『業』なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
仏法で説かれる業を『似非仏教』だと吐き棄てているのである。これほど愚かな思い上がりは無い。

死=無に帰するのならば

以下は、彼の主張に沿って考察してみる。

死ねば全てが無に帰するならば、この世の努力など何の意味があるのだろうか。それは『社会的に成功する為』ただその一点が回答になる。それ以外は全て無駄になる。

イプシロン氏は、作家志望ではあるが、(社会的に成功した作品を)何一つ世に出せてはいない。世間的には何の評価も得られていない、何の成功も為していない。ならば、彼の今までの努力は死によって全て無に帰するのである。誰にも彼の功績など語り継がれる事もない。何も残らない(この世に於いて何の成功の実績も無いのだから、当然である)

ならば彼は、何の為に努力するのだろうか。彼のライフワークである読書など、今更、社会的な地位向上に何の役にも立たない。読書や哲学など何の価値があるのだろうか。積み上げてきた知識など何の役に立つというのだ。

それよりも、残りの人生、享楽と欲望のままに生きた方がよっぽどマシというものだ。その方がよっぽど充実した余生を過ごせるだろう。旨い物をたらふく食い、旨い酒を浴びるように呑み、娯楽に興じた方が遥かに楽しく豊かな人生と言える。

三世の業を否定すれば、勝者のみが正義となる

仏法で説く『善業・悪業』を否定すれば、この世に於いて、どんなに悪い事をしても成功した者だけが世間的に評価されるようになる。バレなければ、成功者として尊敬されるのだ。

逆に、(イプシロン氏など)どれだけ影で地道に努力しようと、社会的に成功してない人物は何の価値もないと見なされる。どれだけ人の為に尽くそうと努力しようが、それが表に出ない限り、社会的には何の評価も得られない。ただの要領の悪い哀れな人だ。そして死ねば無に帰するのだ。要するに価値のない人生だったということになる。

イプシロン氏は、社会的には無価値と見なされ一生を終え、死後も無価値として存在すらスルーされるような人生なのだ。彼はそれで満足なのだろうか。要するに、彼は『三世の善業・悪業』を否定することによって、『人生の敗北者』たる彼自身を痛烈に否定しているのである。何と悲しい事か。

世の中の大半の人々は

(死後の世界を信じない)無神論者で、世の中の殆どの人は、このような状況に置かれた時に、果たして奮起しようとするだろうか。虚無感に覆われて残りの日々をただ絶望するだけではないだろうか。中には投げやりになって、ギャンブルや犯罪や麻薬に手を染める人もいるだろう。『死後の裁き』が無い『死ねば、どうせ無になるのだ』と思い込んでいるのだから、そのような発想になるのも仕方が無い。悲しい事ではあるが。

死によって消滅しないものを信じるからこそ、人は前向きに生きる事ができるのだ。だからこそ確固たる信仰を持ち『死後も消滅しない』と確信を持つ人は強い。


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以前に取り上げた『生かされるまま生きる』のイプシロン氏だが

日蓮仏法への純真な信を失い、どんどん狂った方向へ堕ちていってしまっている。最近は以下のような日蓮批判を執拗に繰り返している。
法華経こそ最第一の経典である。仏教は「平等」こそ真理と説いてはいるが、法華経が最も優れていると説いてよいなどといった「法華の慢」だけは許されるとかなんとかいって、他を見下す「見解」をしてる時点で、日蓮の見解など信用が置けないということだ。

日蓮仏法は三世永遠の因果の法則を完全に説き明かしたとか、昔は愚かにも信じていたが、今では迷妄であったと恥ずかしいかぎりだ。

日蓮の行動と彼のしたためた本尊の相貌云々を調べれば調べるほど、日蓮の支離滅裂さ、攻撃的であり、武力を肯定し、民衆仏法などと決して呼べず、平和主義でも何でもないことが見えてくるのだ。もはや、わたしなど、勤行・唱題もしてませんけどね。曼陀羅も必要ないと月々日々に思うようになっているくらいだ。

ゆえに、今更、支離滅裂な日蓮の曼陀羅本尊など、わたしには必要ないと結論したわけだ。
彼は、仏法による三世の法則を信じていない。或いはキリスト神による死後の世界を信じていない。初期仏教の『空の概念』を、単なる観察に利用しているだけである。もはや、これは立派な無神論者であろう。
やれ御本仏だの、前世だの来世だの宇宙生命論だの、宇宙意識だの。馬鹿なんじゃないかと。 生命なんか存在しません。あるのは生命現象だけ。ただの事象。だから魂もないんですよ。あるのは情報とエネルギーと物質が併存する「場」だけなの。その場のことを魂と呼ぶのは人の勝手ですがね。でも本当のところは、場に一時的に生命現象が現れてるだけのこと。

自分自身を信仰の対象に

挙句の果てに、とうとうこんな事まで言い出した。
「信じることもまた執着。自分の信仰すら棄て去れ」(スッタニパータ)
自分の信仰を持つのではなく、自分を信仰の対象にする。
つまり、自分を信じることが仏教の極意なわけだ。
スッタニパータの一文を、自分勝手に切分解釈して、とうとう、自分の信仰を持つのではなく『自分自身を信仰の対象』にするとまで言い出したのだ。揺れ動き移ろい易い己心を本尊とするとは。『我見解釈』もここまでくると恐ろしくなる。

日蓮大聖人は「『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とは、六波羅蜜経の文なり」と
厳しく戒めておられる。

もはや彼の主張は、ドストエフスキー著『悪霊』に登場するキリーロフと酷似しているではないか。キリーロフは無神論の究極の行きつく先、いわゆる『人神論』を展開した。「苦痛と恐怖に打ち克つ者が、自ら神になる 。そして、あの神はいなくなる」と。そう宣言したキリーロフの、その悲惨な結末は誰もが知る所だが。

彼はニーチェ哲学に心酔してるらしいが、晩年のニーチェのように発狂するような事にならねば良いが。

イプシロン氏を狂わせたもの

日蓮仏法を信仰の根本にしていた頃のイプシロン氏は純粋であり魅力があった。数年前に、創価活動家の『ちよ氏』や『ラン氏』らと同盟題目を上げて仲良く交流していた頃の『純粋な彼』は何処に行ったのだろうか。池田名誉会長の『青春対話』を目をキラキラさせながら愛読していた彼は何処に行ったのだろうか。

一体、何がイプシロン氏をここまで狂った思考に陥らせたのだろうか。蓮華は泥の中でも美しい花を咲かせるが、彼は現実のドロドロとした事に耐えられずに花を咲かせる前に萎れてしまったのだろうか。傷つきやすい心がポキっと折れてしまったのだろうか。




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以前に紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏の見解はこうである。
死んだ後というのは、われわれは無情になるのですから、基本なにも感じないというのが正しい推測でしょうね。 意識が無い、無情になった=「無」です

宿命というのも同じです。結局のところ、この世に生まれてきてから自分でつけた心の習慣によってとってしまう行為のことです。それをさも前世からあったように説く宗派はインチキ仏教なわけだ。しかも来世に持ち越すとかいうならもっとインチキなわけだ
このように彼は死後の生命を『無』と言い切り、何も感じないと言い、三世の生命も否定している。それを説く宗派を『インチキ』と断定している。

人間というのはどこまで都合の良い『我見解釈』をするのだろうか。偉大な仏法という絶対の法があっても、人間の勝手な解釈で捻じ曲げて用いると不幸な結果になってしまう。このイプシロン氏を見ているとつくづく思う。

幼少の頃の虐待体験

そんな彼自身、幼少の頃の父親に虐待された体験が今でもフラッシュバックし蘇る。思い出したくない過去なのに自らの意思でコントロールできずに随時湧き上がってしまう。彼を苦しめている幼少の頃の虐待経験、これぞ生命に刻み込まれた消えない一念である。仏法では『蔵識』ともいう。

父親に虐待された場所・部屋、その時の風景や父親の鬼のような形相、その時に感じた恐怖、苦痛、逃れたい渇望、次から次へと湧き上がってくる。仏法上から見れば、その場所は国土世間である。地獄の地獄の生命であろう。五陰世間の識で認識をして、色・受・想・行、次から次へと感じる。

現代人が陥りがちな思考

この現世においてすら、感情・一念のコントロールすら全く出来ないのに、死後の生命を否定し、無だと主張し、都合の良い解釈をする。現代人にありがちな軽薄な思考である。夢で父親からの虐待を見ることもあるだろう、そのもっと強い状態が死後の生命の姿である。夢の中で悪夢を自らの意思でコントロールできないように死後の世界も主体的に制御できない。

普段は意識をしていない、だが生命の奥底に刻み込まれて永遠に消えない。自らの意識で消し去る事ができない。仏法ではこの生命を説いている。人間の人生はこのような一念の積み重ねである。これは死後の生命も続くと説かれている。死後も『我』は存在し、苦しみ、楽しみ、感じる生命は厳として存在するのだ。すなわち、死後の生命は『空の状態』の存在である。


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以前から「生かされるまま生きる」というブログに注目していた。管理人はイプシロン氏。作家志望の人で自身の内面世界を余すことなく披露しているブログである。本人は学会員で今は非活動になっている。作家志望というだけあって、非常に読書量が多く様々な書から学ばれている。また、ギャラリーには綺麗なイラスト画像集も置かれている。

また、幼少の頃の虐待やいじめの辛い体験や、精神的に厳しい時期があったようで、自らの命を絶とうとするほど生と死に苦しんだようで、その辺りも包み隠さずに書いている。

驚くべき思想の変遷過程

数年前の記事から段階的に追っていくと、思想の変遷がバラエティに富んでいるのに驚く。最初はブログ村の創価カテゴリによくいる純粋な活動家そのものであった。ところが現在は初期仏教に傾倒しているではないか。彼の内面に何があったのか、これこそが当該ブログの最大の特徴だと感じる。

確認できた事をざっと整理してみると

創価バリ活そのもの

・純粋で疑うことを知らない活動家の心の時期
  この頃は、創価村ブロガーの「ちよ氏」や「ラン氏」達と交流をしていたようである。
  同志の為に同盟題目を送る、というやりとりもしていた。
・池田名誉会長を『先生』『師匠』と心から慕っていた時期
  歴代会長の指導内容を日々噛みしめて糧にしていた。
  『今日より明日へ』や『青春対話』を研鑽していた。

池田絶対主義へ

・公明党に疑問を抱き始め、その疑問を強くしていた時期
  現執行部への批判を強めていた時期
  しかし池田名誉会長や歴代会長への絶対の心服は依然として保ったままであった。
  この時点では某三人組などの池田絶対主義者の方々と同じ見解だろう

アンチ創価へ

・創価の歴史を検証しはじめ、牧口会長・戸田会長・池田名誉会長の実像を追い求めた時期
・「創価ほどおかしな団体はない」と主張するようになる時期
  「創価の信心は仏教ではないし、いわんや日蓮仏法でもない」と批判している
  「ようするに、池田思想とは、仏法を恥しめる外道思想だということだ」
   と、かつて敬慕していた対象を徹底的に否定している

日蓮仏法を我見解釈

・日蓮仏法への理解・解釈を、我見により独自のものへと変形させていった時期
  日蓮本仏論はおかしいと主張している(釈迦本仏論)
  御義口伝も偽書との見解を示している
  瞑想だの、止観がどうのこうの言い出し始める

仏法に懐疑的になる

・大乗経と小乗経という分類に懐疑的になる。
・仏教は、願いや、祈りや、誓いを立てるものではないと主張するようになる。
・「仏教は心を哲学(正しく認識)するための学びであり、
  そしてそうして見出した無の心を仏法と呼んでいるわけだ」と主張するようになる
  まるで唯識派の論調になる。

宗教そのものを否定

現在は「宗教」そのものに懐疑的な見解を示している。「宗教は他者を排除するもの」と斬り捨てている。彼の言い分によると、(特に大乗)仏教で説かれる「諸天善神」は他宗教の神々を勝手に再定義しているので、それは「結局のところ他人の思想を認めない排除性になってしまう」らしい。更に、教義の中で、国家や国王のことを説かれている宗教もダメという。そして、そのような事が説かれていない初期仏教こそ彼の理想であるらしい。

わずか数年で、ここまでバラエティに富んだ思想の変遷を辿るとは驚きである。しかし、行きついた先が初期仏教であるとは何とも残念だ。

現実に通用するのだろうか


左派に特徴的な原理主義傾向

本人は平和主義者で、護憲派であり、純粋に平和を願う心が強い。北朝鮮とは圧力ではなく対話重視で行くべきとの見解を何度も繰り返し主張している。ある意味『潔癖』というほど原理を求める傾向にある。このような人は現実に於いて妥協を許さない。現実と折り合いが付かなく苦しむ。左派に特徴的な性質である。彼が、何度も理念を説きながら、現実に於いて何の行動も出来ていないのが何よりの証明である。

「三世の生命」を否定し虚無思想に

初期仏教に固執する余り、死後にも生命があることを信じられず否定する様を見ていると痛々しい。見たところ、イプシロン氏は虚無思想に陥りつつある。現実の生も虚無、死後も虚無と認識してるようだ。このまま破滅的な思考にまで到達しなければ良いのだが。日蓮仏法を学ぶ機会がありながら、このような『我見解釈』によって無だの虚無だのに捉われる様を見ているのは痛々しい限りである。

生死の極限状態になった時に

自殺を否定する理由を『人間も自然の摂理の一部だから、そこから逃れるのは不合理だ』と無理矢理に自分自身を納得させているようだが、そんな付け焼き刃の考えで現実に太刀打ちできるとは到底思えない。例えば末期癌で苦しんでいる状態、常に間断なく激痛に苦しむ状態、その苦しみから『尊厳死』という考え方が確立したのだが、彼のような現実離れした夢想家では到底現実の生死に抵抗できるとは思えない。大病を患うか・生活が根幹から破壊されるような状態になったときに初めて気付くのだろう。


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