創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

タグ:渡辺氏

「気楽に語ろう~」渡辺氏は非常に不思議なタイプである。「私は日蓮が正しいなんて全然思ってないんですよ(笑)」と平然と言い放つ。

破仏法の輩

「仏法に正しい法などない」「そんな経典群に上下とか優劣があるはずがない」と言い放つ。あまつさえ「私は別に仏の命なんて涌現したいなんて思いませんから」と仏法が説く得道・成仏さえも否定しているのである。要するに仏法の説く根幹の目的すら全否定してるのである。彼にとっては、法華経の不軽菩薩が一切衆生に仏性があるのを信じて迫害されても敬い続けた説話などは鼻で笑うようなモノなのだろう。

ここまで仏法を否定しながらも、その割には竜樹や天台に執着しているのである。特に竜樹の中論がお気に入りのようだ。天台も竜樹も、こんな『法盗人』に都合よく部分的に利用されて嘆いておられるだろう。

「渡辺教」が目的か

そもそも「正しい法は無い」のならば、なぜ未だに仏法関連に固執するのか理解できない。さっさと自分の教義を組み立てて『渡辺教』でも作ればよかろうに。その上でツイッターやブログで信者を募集すれば良いのだ。

法華経最勝を否定したい輩

彼の目的がサッパリ理解できない。法華経最勝をどうしても否定したいのだろうが、薬王品に阿弥陀仏の記述がある事を強調したり、そこまでして法華経を落として他経と一緒にしたいのだろうか。

ちなみに薬王品に阿弥陀仏の記述があるのは絶待妙の開会からである。これにより爾前経である観無量寿経等に説かれる安楽世界への往生を開会しているのである。

退会に導くのが目的か

創価の会員の人達を退会に働きかける目的なのだろうか。そういえば、以前に創価会員とメール等でやりとりして退会させることが出来たことを誇らしげに記事にしていた。

創価や日蓮に粘着する輩

とっくに見限ったはずの創価関連の記事を頻繁に書く理由も不明である。昔バリ活だった頃の思い出が強く残っているのだろうか。非活になって創価組織を客観的に整理・把握したいという意識からくるものとして解釈しておこう。

だが、それ以上に不思議なのが、とっくに信仰を捨てた日蓮仏法の関連記事を未だに書き続けていることである。願わくば今までの仏教破壊の言動を懺悔して反省の日々を送って欲しいものだが、それが出来ないのならばせめて日蓮や他の人師の言葉を都合よく利用することを止めるべきだろう。


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「気楽に語ろう~」の渡辺氏。最近になって自己思想のカミングアウト記事を続けているが、余りにも過激な主張が顕著になってきたので、彼の本質に迫ってみる。

著しい増上慢

「私の考え方は龍樹の本質から日蓮を考え直そうとするものです。結果として日蓮の否定になる」

「私が日蓮を批判するのは日蓮を真の意味で現代において救済するためです。」

「日蓮自身の経典を読む姿勢にも大いに問題がある」
などと日蓮も否定し、天台も否定し、挙句の果てには翻訳者の鳩摩羅什をも否定し、その増上慢の主張は留まるところを知らない。いよいよ彼の正体を顕してきたようだ。

仏法破壊者

渡辺氏は「正しい法などそもそも存在しない」「釈迦の教えとはそういうことである」「一切の本質は存在しないのだということです。」と言い切る。どうやら彼は小乗教の『無我の教義』に執着してるようであるが。「悟りなど存在しない」「南無妙法蓮華経と名指されるような何かが存在しているのか。そんなものは存在しません。」という珍説まで披露している。ここまで増上慢の発言は、もはや『仏法破壊者』と断言する他ないだろう。

法盗人

その割に彼の主張は摩訶止観から流用しているのである。著者の天台大師が『法華経最勝』を明確に宣言したのは改めて言うまでもない事実である。しかし渡辺氏は「大乗非仏説だから」「五時八教説は現代においては無効の教理だ」など適当な理由をつけて完全にスルーしているのである。

彼は、自分の我見解釈に都合の良い部分だけを抜き出して、自己の主張に裏付けを持たせる狙いで天台の引用をしているのである。この行為を『法盗人』と言わずして何と表現すれば良いのだろうか。

「独自の本尊」の再構築を狙う

「龍樹と智顗の説に依拠して独自の曼荼羅の世界観を考えている」などと言っているが、要するに、彼は自分の『独自の本尊』、『独自の教義』を作っているのである。彼は自分自身が教祖になるつもりなのである。やってることはその辺の新興宗教と何ら変わらない。

もう一度、論点整理するが、彼は日蓮仏法を純粋に信じようという気は一切ないのである。彼の目的は竜樹や天台等々の各著作から、自分に都合の良い法義を盗み取り再構築して本尊を創り出そうとしているのである。その独自の教義と本尊こそが彼の信仰の対象になるのである。彼の読者の方々は、この事実をよくよく考慮して欲しい。

彼の読者の中にも、ここ最近の思想カミングアウトで「この人は、ちょっと変な方向に行ってしまって、最早ついていけないな」と感じている人も多いと思うが、その懸念は紛れも無く正しい。

羅針盤なき思想

彼の創価の組織批判に関しての記事は、元バリ活の頃の経験も含まれていて参考になる部分はある。しかし、彼の仏法に関する記事を参考にするのは非常に危険極まりない。確固たる羅針盤なき思想は迷いに迷い、狂いに狂い、このような結果をもたらす。かつては純粋に日蓮仏法を信仰していたのに、何がここまで彼を増上慢にさせ狂わせたのか。悲しい限りである。


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大聖人は「南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき」と御自身の仏法を薬に譬えられた。間違った薬を飲んで不幸に陥り苦しんでいる衆生を救う為に人生をかけて闘争されたのだ。

現代でも、製薬の過程で、変な材料を混入すると大変な劇薬が出来てしまう。そんな毒薬を患者に用いれば被害は甚大である。また用法を間違えば患者にとって害が及ぶのも言うまでもない。大聖人も「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と用いられる教義に極めて厳格であられた。

真言を用いるべからず

大聖人の幼少の頃よりの大いなる疑問。なぜ承久の乱で主君の朝廷方が臣下の幕府方に敗れたのか。国家の興亡に関しての極めて重要な疑問である。仏門に入り、御遊学の中で諸寺院を回られて徹底的に研鑽され、ついに答えを見つけられた。それは真言の調伏祈祷が原因であると仰せである。

幕府から調伏の祈祷の依頼があった時に大聖人が何故応じられなかったのか。「殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべし」「誤った真言を用いれば国が滅んでしまう、日蓮を用いよ」との御心。五老僧はこの師匠の心が理解しきれなかったのである。彼らは、残念なことに大聖人の滅後に為政者の求めに応じて調伏祈祷に参加しているのである。

根本的にこの認識が違うのである。

自分でデタラメに調合した『毒薬』

「気楽に語ろう~」の渡辺氏など「日蓮仏法の一部をつまんで、他の宗派の良い所もつまんで、他の宗教の概念も混ぜ合わせて再構築をしよう」「龍樹と智顗の説に依拠して独自の曼荼羅の世界観を考えている」などと主張してる連中がいるが、要するに、この手の輩は取るに足らぬ知識でデタラメな薬を調合してるのである。自分でデタラメに調合した『毒薬』を飲んで頭破作七分の状態になっているのだ。仏法東漸の流れに完全に逆行して、中国の天台だインドの竜樹だのを本尊に鞍替えした輩の哀れな末路がこれである。まさに法華経寿量品で説かれる「飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地」そのものではないだろうか。

取るに足らぬ知識の断片をこねくり回して『毒薬』(我見の教義)を作って喜んでる様は子供じみていて、見ていられない程である。一刻も早く日蓮仏法に純粋に立ち戻ることを切に願うばかりである。



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「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏や、想学談林「運ちゃん氏」など、元学会員のバリ活だった人が、日蓮を信仰の対象から外し、我見に陥っている様を見ると哀れでならない。

創価の歴史、宗門の歴史を検証

その原因を考察してみた。今まで創価の教えを絶対的なものとして信じ込んできた。非活になって客観的に考察するようになり、今まで思考停止状態であったことに気付き、反省して全ての固定観念を取り払おうとした。その結果、今まで教え込まされてきた創価の歴史、宗門の歴史の裏が見えてきた。ここまでは必要な事だと思う。

日蓮滅後の弟子達の分裂を調査

そして彼らの調査の矛先は日蓮や弟子達にまで及ぶ。日蓮滅後の弟子達の分裂、日興門流の分裂、唯授一人血脈相承を作り出し法主絶対信仰に誘導したり、真筆がどんどん失われていく一方で偽書説が至る所で出てきた事、そういう歴史を見たからだろう。

日蓮を矮小化してしまう

彼らの現代人的な思考では、雨乞いの祈祷の件や、大地震や自界叛逆難、他国侵逼難といった経文による実証(現証)が、信じられないのだろう。

『人間・日蓮』を探求したのは良いが、その結果、日蓮を哲学者・思想家としての範疇で捉えてしまい、却って矮小化してしまったのである。

弟子達の方が優れているという錯覚

彼らは大乗非仏説を信じている。つまり、釈尊は大乗を説いておらず、後世の弟子達が造ったというスタンスである。つまり「釈尊よりも弟子達の方が偉い」という考えなのである。この思考がそのまま日蓮と六老僧の関係にも適用されている。だから五老僧を平気で擁護するのである。

教えの浅深・正邪に無関心

五老僧の擁護どころか、道元も法華経を用いたからという理由で賛美したり、日蓮すら『法華経至上主義』だと批判したり、ここまで狂ってしまったのである。

もはや彼らに教えの浅深・正邪はどうでも良く、「仏法は弟子達それぞれが各々の解釈で紡いでいくもの」という主張をしているのである。我見もここまで来ると恐ろしくなってくる。

釈尊が遺した言葉『自灯明・法灯明』を都合良く解釈して利用してるが、これは自分勝手な我説を以て信仰の対象とせよ、ということでは決してない。正しい法を根本として、自己を確立し、自分で何が正しいかを見定める事を説いてるのである。

また大聖人も「心の師となるとも心を師とせざれ 」と我見を厳しく戒められておられる。

信心を失う哀れな姿

こんな姿になるならバリ活の頃の方がマシだった。組織の打ち出しのまま妄信していたが『大聖人への信』は純粋だったのだ。取るに足らない中途半端な知識を仕入れたばかりに、一番大事な大聖人への信を失ったのである。これほど悲しいことは無い。


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「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏について、元創価のバリ活の人である。昔バリ活だった頃の想い出が懐かしいのか、しきりに創価の話題を挙げている。創価や仏教の資料系の記事もそれなりにあるので参考にさせて貰ってる面もある。

だが、総じて思うことは、非常に我見が甚だしい。竜樹の中論に随分と御執心らしいが、彼が求めてるのは日蓮仏法なのか、竜樹なのか、天台なのか、真言なのか、それらを良い所取りして自分に都合よくミックスさせたいのか、ほとんどの読者はサッパリ理解できないだろう。

狂った信仰

少なくとも日蓮を信仰の対象としては見ていないようだ。日蓮を否定する記事が数多くある。「日蓮の限界の一つは、極端な法華経至上主義にある」と言ったり「日蓮は、天台の五時八教説から『非合理的な法華経の文』も原理主義的に『真実であると主張した』ことは批判されて然るべきだ」とまで言ったり、もはや法華経が最第一であることすら否定してるのである。かつて日蓮仏法を信仰していた者とは思えないほどの顛倒ぶりである。ここまで堕ちるものであろうか。

「釈尊にも日蓮にも真実は無い、その説かれた内容の再構築が重要である」と我説を主張しているが。要するに斬新な発想で教義の再構築をすれば『何でもあり』なのである。法の正邪、教えの浅深の考慮も一切行わずに、竜樹や世親や天台の教義の端々を切り取り、自分勝手な解釈を入れて混ぜ合わせて、仏法の大海に溺れ迷ってる様を見ると哀れでならない。

真の退転者

私は創価から宗門へ移った人を『退転した』とは思ってない。創価の教義変更に異議を唱え、純粋な教義を求め宗門に移った人達であるからだ。一方、渡辺氏のような人こそ真の『退転者』と言わざるを得ない。

食法餓鬼

彼は一生彷徨い果てるのであろう。学者気取りで様々な文献の端々を拾っては捨てる作業を永遠に繰り返すのであろう。こんな輩は大聖人御在世にも、いつの世にもいる。人を救済せずに文献だけを貪り知識欲だけを満たす。まさに食法餓鬼そのものである。

生命の次元で見れば

大聖人の仏法への確信が無ければ何の意味があろうか。以信代慧である。仏法はまず信から入らねばならない。こんな姿になるぐらいなら、昔のバリ活だった頃の方が生命は純粋だった分、遥かにマシであったろうに。組織に妄信になってる状態は悲しいが、そこから目覚めたのは良いが、彼のように堕ちるところまで堕ちるのはもっと悪い。もっと悲しい。哀れ過ぎて見ていられないのである。

生命の次元で捉えるならば、創価の活動家や、法華講で頑張ってる人達の方が純粋な信心であるが故に遥かに貴いのだ。十界でいうと菩薩の生命である。創価の婦人部や法華講の婦人部はパワフルで生き生きとしてるではないか。(教学力は全然無くても)

今の堕ちに堕ちた彼の言葉など、創価や宗門やその他の日蓮仏法を信奉する人達から見れば、単なる戯論以外何物でもないのである。そんな言葉など誰も受け入れないだろう。くだらない戯論を捨てて日蓮仏法に純粋に立ち戻ることを切に願うばかりである。


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