(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログに関して。創価学会に対して辛辣な批判記事を繰り返し書いている人である。創価を退会するまでの経緯を詳しく読んでみた。確かに組織の対応が酷いと思うところもあった。だが、結果的に、尊敬の対象が『池田先生』から『猊下』に変わっただけに見えてしまう。

宗門を擁護

宗門側の僧侶を擁護しているのが残念である。檀家制度の権化である宗門の僧侶を擁護してどうするのだ。

それほどまでに日蓮正宗が素晴らしいと思うのならば、その素晴らしさをもっと詳細に記事で書けば良いだけだろう。宗門が躍起になっている総登山の御利益だの、御供養の御利益だの、讃嘆する記事でも書けば良いのだが、そのような記事は殆ど見当たらない。ただ単に、創価の『ダメ出し』をしたいだけのようだ。

登山に躍起になる宗門。もはやエルサレムやメッカ詣でと同じ聖地巡礼である。大聖人は「法華経を持ち奉処を. 当詣道場と云うなり此を去って. 彼に行くには非ざるなり」「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」と仰せである。どこか特定の場所に行かなければ成仏できない、というものではない。自分がいるその場所が仏道修行の場であり寂光土なのである。

また宗門は日顕法主の時代に正本堂を破壊した『破和合僧』の実績がある。池田名誉会長がどうのこうの関係なく、正本堂は信徒の赤貧の御供養の結晶である。それを信徒に何の説明も無く破壊するとは信じられない裏切り行為である。

純粋な信仰心には共感

ただし、信仰者として純粋な教義を貫きたい、という気持ちは理解できるし、同意できる部分も多い。創価が教義の核心部分を改変してるのに対して、宗門は教義の骨子は変更がない。純粋な信仰者として、創価の教義変更を容認できない点、その後の創価の説明に納得が出来ない点も理解できる。その為に宗門に移った点も理解できる。

純粋ゆえの攻撃性

しかし、純粋であるがゆえに、攻撃的になるのである。

創価を悪と決めつけ、故に創価を徹底的に攻撃することは正しい事だと信じ込む。御書の一節を勝手に切分解釈して、創価攻撃の根拠にしている。これでは創価側のやり口と同じである。

彼は今後も創価系ブログを読み漁り、それらの記事から揚げ足をとって攻撃し続けることだろう。さほど有名でもないような創価系ブログの数々を丹念に調査し見つけてくるのは凄まじい執念である。それが彼のライフワークになっているのであろう。その情熱を他のことに捧げればもっと有意義になるのだが。

思い込みの激しい気性

以前に私は、自らのブログ記事にて、御書に大御本尊の事が記述されていない事実を指摘した事がある。彼はその記事を読んでいたらしい。すると、私のことを『創価莫迦ツドウカ』『半端な創価狂学莫迦』とレッテルを貼り攻撃してきた。私は既に創価の活動家でも何でもないのにだ。相手のブログの信仰・活動に対するスタンスすら認識していないのに勝手に決めつけているのである。この程度の認識力しか持ち合わせていないのだ。

要するに、大御本尊へ少しでも疑問を言う人物がいれば『仏敵』として扱い、徹底的に罵詈雑言を浴びせて攻撃するのである。異常なまでの攻撃性である。これは『大御本尊・原理主義者』と呼ぶべき性質だろう。

アンチ創価の集会所として

当該ブログは、アンチ創価の拠り所として人気らしい。アンチ創価の人達が集って、日々、創価を叩いている。そこに創価の活動家らしき人の投稿も加わって、お互いがエキサイトし罵り合うことも多々ある。何とも不毛な争いに見える。このような有様を見ていて悲しくなってくる。彼らのやっている行為は、大聖人の仰せ「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と全く逆の行為なのである。


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