創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 相承

そもそも大聖人が日興上人を二箇相承に於いて『本門弘通の大導師』『身延山久遠寺の別当』に本当に任命されたとするならば、その旨を門下の僧侶・檀徒達全員に披露し、大聖人が日興上人を後継者に選定して任命した旨を宣言されてないと、おかしいではないか。

現代の日蓮正宗に於いても、法主の代替わりの時には、現法主・新法主が前法主から相承を受けて法主に登座したことを、内外に宣言し、座替式を行った上で、さらに代替奉告法要を行っている。

それと同じ道理で、二箇相承を門外不出の秘密文書にしてしまっては、門下達の見解の不一致による混乱を招いてしまい、かえって教団全体の統制がとれなくなってしまう。

このような相承書というものは、秘密にするのではなく、むしろ積極的に公開されていくべき筋合いの文書である。

更に『身延山付嘱書』にいたっては、身延山久遠寺の別当職を譲るという、財産譲渡をも含む内容であり、かつそれに背く在家出家を『非法の衆』とまでいわれているのであり、これが公表されなければ全く意味をなさぬばかりか、却って混乱を招くだけである。

従って二箇相承は本来ならば、大聖人が書いたとされる時点で、全面的に公開されていないとおかしい。そして公開した上で、日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が行われていなければ、おかしいのだ。

しかし大聖人・日興上人在世の時代に、この二箇相承が存在していたことを証明する記録はまったく残っていない。また、日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が身延山久遠寺でも、池上でも行われた形跡はないし、そのような記録は全く残っていない

これらの矛盾を整理していけば、二箇相承がいかに信憑性が低い文書なのかは明白である。



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大聖人の真筆という疑義

身延を出立され常陸の湯へ向かわれた目的は、病気の療養の為とされている。大聖人のお体は相当衰弱されておられた。その道中「波木井殿御報」にて「所らうのあひだはんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」と仰せになっている「病身のために判形(花押)を加えません」と仰せなのだ。病気が重く手紙はおろか花押(サイン)すら書けない状態だったのだ。このような状態で二箇相承の二つの文書を御自分で全文書けるはずがないだろう。

ところが、この原文を書写した(と主張している)日教師の漢文体を見てみると、整美整足された完璧な文体なのである。大聖人は臨終直前の状態であったのだ。仮に筆を取ることが出来たとしても、かなり乱れた文体になるのが自然だろう。しかし少しの乱れも無く完璧な文体なのである。


北山本門寺に伝わっている疑義

二箇相承の真筆とされる文書が北山本門寺に伝わったとされている。戦国時代の武田勝頼の軍によって奪い取られたとされている。その後、真筆は紛失してしまったとされている。

何故に大石寺ではなく北山本門寺に伝わっていたとされているのか。もしもこれが『唯授一人血脈相承』の相伝の文書であるならば、日興上人が日目上人へ法を付属した時に、当然ながら譲り渡すべきだっただろう。そうせずに重須のある北山本門寺に残し伝えられたわけである。普通に考えて不自然であろう。大石寺の秘密文書であったなどと到底言えまい。


秘密にする疑義

池上相承書には「大聖人の法門の唯一相承」と「身延の別当就任」という極めて重要な事項が書かれている。これほど重要な事柄を秘すのはおかしい。これこそ臨終の前には、主要な弟子一同に伝えておかなければならない内容だろう。『宗祖御遷化記録』の中に入っていなければならない程の内容である。



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結論からいうと、二箇相承は偽書という他ない。

二箇相承は、日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)と身延山付嘱書(池上相承書)の二つの文書からなる。日興門流は、これが大聖人から日興上人への唯授一人血脈相承の根拠だと主張している。


日蓮正宗の御書に載っている文書

早速、内容を見ていきたい。以下は日蓮正宗の資料としての二箇相承である。

日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

弘安五年(壬午)九月 日            日蓮花押
                       血脈の次第 日蓮日興
ここには「九月 日」と書かれており日付が記載されていない。

身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。

弘安五年(壬午)十月十三日          武州池上
                       日蓮花押


左京日教師の写本

ここから、左京阿闍梨日教師の写本について検討していきたい。京都・住本寺系(後の要法寺系)の高僧で、後に大石寺第九世日有師に帰伏した。元々の僧名は本是院日叶であったが、後に左京阿闍梨日教と改名した。

二箇相承の全文を載せた最古の文献は、日教師による著作の『類聚翰集私』である。この中で日教師が書写した二つの文書が入っている

身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十余年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出出家共の輩は非法の衆たるべきなり

弘安五年九月十三日            日蓮在御判
                     血脈次第 日蓮日興
甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す

この文書の日付は9月13日と記載されている。ところが『元祖化導記』によれば大聖人が身延沢を出立されたのは9月8日とある。(この旅の目的は常陸の湯で病気の療養の為だとされている)。9月13日の時点では既に旅の途中にあり、甲斐の国波木井郷にはおられなかったのだ。



日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日興一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ事の戒法とは是れなり、中んづく我が門弟等此の状を守るべきなり、

弘安五年十月十三日            日蓮在御判


日辰師の写本

僧名は広蔵院日辰。天文法華の乱で焼失した住本寺と上行院を合併して要法寺を再興し、13代貫首になった。要法寺は言うまでも無く大石寺系とは違う他山である。この日辰師は釈迦仏像の造立を許容し、法華経一部読誦を助行の一環として扱った。大石寺の教義からみれば謗法に該当する。

現在の日蓮正宗が所持している二箇相承書は、日辰師が重須(北山)本門寺に出向いて書写したものである(正確には弟子の日燿に臨写させたもの)。他山の僧籍で更に謗法を唱えている僧侶が書写したものを採用しているのである。

堀日亨師が編纂した『富士宗学要集』の中に「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず書写して、今本寺(大石寺)に在り」と記載されている。また、堀日亨師は『富士日興上人詳伝』の中で、この臨写本によって「原本の雰囲気を、いささかなりとも偲ぶに足りる」(趣意)と評している。同じく興詳伝の中で「(二箇相承書の正筆の)紛失より二十二年前、日辰上人原寸の通り自ら臨写せるが版行せられたるもの」と述べている。日辰本は、それほど信憑性が高いという評価がなされているのだ。

以下がその日辰師の書写文書である


日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日        日蓮在御判
                    血脈の次第 日蓮日興


身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日           武州池上
                    日蓮在御判

この日辰師の書写文書だが、日教師書写の文書と比べて大きな違いが一点みられる。それは日付以下の文章が完全に正反対に書かれているのである。入れ替わっているのだ。これは一体どういうことだろうか。どちらの書写文書も大元の原本は大聖人真筆の二箇相承書のはずだ。それがなぜ互いの文書の日付と場所が入れ替わるような内容になってしまったのだろうか。

他にも若干の文章の表現の違いが見られる。「『付属す』と『相承す』の違い」等々


身遠山

上記の日辰写本は、元は純漢文で書かれた文書である。それを読み下し文として記載されている。その漢文体の写本に一点おかしな記述がある。

(漢文)
可為身遠山
久遠寺別当也

(読み下し分)
身延山久遠寺の別当たるべきなり

なんと身延山久遠寺を『身遠山』久遠寺と書いているのだ。「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず書写し」たはずの書写文書におかしな記述があるではないか。

この身延山久遠寺は、日蓮大聖人が直接命名された山号寺号である。地引御書にも十間四面の立派な大坊のことが書かれている。また 富木常忍などの門下達もこの為に御供養に尽力したようだ。まさに師弟一丸となっての建設事業であった。「一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」と大称賛されておられる。それほど思い入れの強い寺院の名前を、(仮に真蹟があるとすれば)大聖人が真筆を認められた時に『身遠山』などと間違えることなど有り得ないではないか。必ず身延山久遠寺と書かれているはずである。

つまり日辰師が書写したのは大聖人の真筆とは到底認められない。となれば、日辰師は本当は何を元に書写したのだろうか。




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日興上人への唯授一人血脈相承など無かった。ただし日興上人が日蓮大聖人の法門を、六老僧の中で最も厳格に守り抜いたことは間違いがない。

五老僧達が、邪宗の坊主達と連携して異国調伏の祈祷に参加したり、神天上の法門から見れば諸天善神が去ってしまい謗法の住処となった神社に参拝を許したり、大聖人の法門を汚す行いをしていた。師匠への背信行為である。そのような中で日興上人お一人だけが、その過ちを明らかにし責めた。

『神秘的な相伝の伝説』を根拠にしているから後継者として扱われるのではない。日興上人はその行いによって正当な後継者になったのである。




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徹底的に検証して考察した結果、以下のような結論に達した。大聖人は、御自身の滅後は、臨終の際に定めた高僧六人による集団指導体制を望んでおられた。大事なことは六人の合議で決定して進めるように望んでおられた。日興上人への唯授一人血脈相承はなかった。日興上人は身延の別当には就任されていない。


『宗祖御遷化記録』によれば、大聖人の入滅の前の遺言というべき内容が示されている
 定
一弟子六人事 不次第
    一、蓮華阿闍梨日持
    一、伊与公日頂
    一、佐渡公日向
    一、白蓮阿闍梨日興
    一、大國阿闍梨日朗
    一、弁阿闍梨日昭
    右六人者本弟子也 仍為向後所定如件(仍て向後の為定むる所件の如し)
    弘安五年十月八日
本弟子6人を定め、この本弟子六人は序列なく『不次第』とされた。

もしもこの時点で日興上人が相承を受けていたならば、「定」の序列を「不次第」とする断り書きをする必要など無く、日興上人が最上位の位置に書かれているはずである。



「大導師」「身延の別当」とは到底思えない事実

二箇相承には、日興上人は大聖人から直接『本門弘通の大導師』『身延山久遠寺の別当』に任命されたとある。もしもこれが本物ならば、その後の大聖人の入棺および葬送の儀式では、日興上人が『大導師』としての務めを果たす最初の仕事になるはずだ。

ところが宗祖御遷化記録を見ると、大聖人の御尊体は日昭師、日朗師により入棺されたと記録されており、大聖人葬送の儀式の法席を見ると、前陣=日朗師、後陣=日昭師となっており(これは大導師が日昭師、副導師が日朗師という意味である)、日興上人は後陣左で行列に参列したとある。つまり、日昭師や日朗師よりも葬列の法席が下位になっているのである。『大導師』であり『身延の別当』であるならば、こんな下位の法席になるなど有り得ないではないか。

日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が身延山久遠寺でも、池上でも行われた形跡はないし、そのような記録は全く残っていない。


認識を改めた理由

私は以前は、大聖人が日興上人を唯一の後継者に指名したと考えていた。大聖人は比叡山延暦寺を理想とされておられた。伝教大師は遺言で義真大師を後継者トップに指名したといわれている。であるならば、同じように日興上人へと継承されたものと思っていた。

だが、そのような資料は一切出てきていない。従来の認識を改めざるを得なかった。





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