創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 戒壇本尊

(まだメモ書き段階)

今までの検証記事を整理すると、戒壇本尊は大聖人御在世、日興上人の時代には存在しなかったと断じる他ない。つまり後の世に創作されたものである。

大石寺は、これに唯授一人の血脈相承の独自教義を展開し、『戒壇本尊の内証』と同じ内証を法主が受け継いだと主張している、こんなものを日蓮仏法と言い張るのは無理がある。

純粋な日蓮仏法の上に、大石寺系の戒壇本尊と法主御内証の教義を無理矢理に捻じ込んだものになっている。これは日蓮大聖人の仏法を歪めているという他ない。

大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。これほど法に厳格な方なのだ。戒壇本尊・法主内証という己義をどれほど嘆いておられるだろうか。




ただし、私は大石寺の教義全てを否定しているのではない。例えば、御義口伝は、以前に記事でも書いたが、コアな部分は『大聖人の法華経講義』を受け継いでいると認識している。

富士門流、なかんずく大石寺流の教義には、大聖人の仏法を純粋に守り伝えようとした部分と、自山の正当性・優位性を主張する為に、後の世に創作された部分がある。これらが入り混じった珠玉混合の状態なのだ。

日蓮仏法の信徒ならば、純粋な大聖人の教えを求めるべきである。後世の創作に惑わされてはならない。徹底的に真偽を検証し抜くべきである。




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(メモ段階)

日達法主の説法によると
戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)







戒壇本尊の大きさは、日量法主(第48世:1771~1851年:江戸時代)の『富士大石寺明細誌』によると
「一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅 日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く、厚さ二寸二分、竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」
(富士宗学要集5巻334ページより)
とある。単位をcmに変換すると、厚さ二寸二分(約6.6~6.7cm)、縦四尺七寸五分(約143~144cm)、横二尺一寸五分(約65cm)となる。

このサイズと、材質が楠の板であるので楠の平均重量から、戒壇本尊の重量が推計されている。どれだけ少なく見積もっても100キログラム以上になるということだ。200キロ前後という推計もある。

それほどの重量がある戒壇本尊を、身延の質素な施設のどこに安置できたというのだろうか。大聖人は、身延に入られてからは、ずっと粗末な草庵を拠点にされていた。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が建立されたとしている。だが、弘安二年当時、身延に頑丈で立派な堂など無かったのだ。そのような所に無理に安置すると、堂の床が抜けてしまうのではなかろうか。そんな危なっかしい事ができるはずもない。つまり、安置できる場所など無かった。

このように状況を整理してみると、上記の日達法主の説法には、かなり無理があるのではないだろうか。



周知の事実だが、大聖人御真筆の本尊には板本尊など無い。殆どが紙に書かれた御本尊であり、僅かに絹に書かれた御本尊が存在する。

大聖人御在世の間は、板本尊に彫刻するなど一切されていない。そのような記録は一切ない。日蓮仏法の信徒ならば、この事をよくよく考えるべきである。





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(メモ段階)

戒壇本尊は、楠木を用いて掘られた板本尊であり、表面が黒漆で塗られており、更に彫った文字に金箔加工がなされている。

日蓮正宗の公式見解として
「弘安二年(1279)十月十二日に出世の本懐として『本門戒壇の大御本尊』を顕されたのです。この御本尊は末法万年の流布を慮られて、楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(「日蓮正宗入門」より)
つまり、大聖人自らが、紙幅の御本尊ではなく、楠の板に直接に曼荼羅を図顕されて、それを日法に彫刻することを命じたとの見解なのである。





大聖人御在世の時代に於いて、果たして板本尊の漆・金箔加工は可能だったのだろうか。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が図顕されたと主張している。ところが、同じ弘安二年に書かれた御書を見ると、
「五尺のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし、衣もうすくて・かんふせぎがたし・食たへて命すでに・をはりなんとす、かかるきざみに・いのちさまたげの御とぶらひ・かつはよろこび・かつはなけかし、一度にをもひ切つて・うへしなんと・あんじ切つて候いつるに」(上野殿御返事)
身延山中で厳しい寒さを耐えれる衣類はなく、食物さえ確保できず、餓死を覚悟されている窮状だったのだ。こんな状況で漆・金箔加工をする経済的余裕などあるはずがない。




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(メモ段階、文章化はこれから)

大石寺第4世の日道師(1283~1341:鎌倉時代~室町時代初期)による伝記『三師御伝土代』は、日蓮大聖人の伝記としては最古の部類となり、信頼性の高い文献とされている。ちなみに三師とは日蓮大聖人・日興上人・日目師のことである。この三師に関する伝記をまとめた著作である。

内容は、大聖人に関する重要な出来事。清澄寺での修行時代、立正安国論提出、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪、御遷化に至るまで簡潔に記述されている。

現在の大石寺の教義で最も重要とされているのは「弘安2年10月12日、戒壇本尊が建立された」出来事である。「出世の本懐」としている。だがこの著作の中のどこにも戒壇本尊・板本尊の存在は明記されていない。つまり日道師は最重要事項を明記していないことになる。果たしてそんなことがあるのだろうか。


日興上人御伝草案の中に
日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給ふ。
熱原の法難の経緯が記述されている。この法難を契機に、大聖人は御本尊を認められたとある。だが、ここで肝心の戒壇本尊のことは一切明記されていない。

古語辞典を確認すると、この「遊ばす」というのは、「なさる」よりさらに尊敬の意の高い言い方で使われる。つまり「御本尊を書写なされた」と読むのが自然である。

御真筆の本尊を見ればわかるが、脇書部分に授与された者の名前が書かれている。例えば、日頂師に授与した御本尊には『日頂上人授与』と書かれている。

これらのことから普通に考えれば、この文章は『日興上人授与』と書かれた御本尊を認められたことになる。(大聖人は、普段は『伯耆房』『伯耆殿』と呼んでいた。それが上人という最大限の讃嘆に変わった。)

更に、弟子の日秀・日弁の二人にも上人号が贈られたとある。このことから考えるに、熱原の法難で戦い抜いた弟子達に対して最大限の讃嘆をされたということだろう。その最たるものが伯耆殿への『日興上人授与』と書かれた御本尊を授与したことだろう。ここからも、いかに大聖人が熱原の法難を重視されていたか伺える。




大石寺系は「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」の箇所を「日興上人と共に、戒壇本尊を建立された」と強引に解釈して、『師弟合作』と言い張って、戒壇本尊図顕の根拠にしているようだ。だが、この主張には相当な無理がある。仮に、この解釈で読み進めると、弘安2年10月12日に日興上人が身延の大聖人の元にいなくては辻褄が合わなくなる。ところが、その日には大聖人は日興上人に宛てて「伯耆殿御返事」を認められている。この中で様々な具体的な指示を与えられている。身延にいればわざわざ手紙で指示する必要もない。別の場所にいたからこそ手紙で指示を出す必要があったのだ。つまり、身延にいなかった何よりの証左である。このように大石寺系の解釈は余りにも無理があるのだ。





日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
ここで注目すべきは「本門教主は久遠実成無作三身」の箇所だろう。大聖人の御書から無作三身があるだけで偽書扱いする連中がいるが、最古の文献でも無作三身の概念は用いられていた事が確認できる。

また、「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩」とある。昔から本仏論争で解釈が分かれる所である。しかし、そもそも上行菩薩自体が菩薩仏であり、久遠の昔からの寿命無量阿僧企劫であったことを考えれば、末法の仏としての自覚を持っておられたことは明白である。



仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな
日道師は「仏滅後二千二百三十余年」と明確に指示している。一方、ここでも戒壇本尊の讃文「仏滅後二千二百二十余年」と記述が相違している。



これらの事項から総合的に整理すると、日道師の時代には戒壇本尊が存在しなかったと考えるのが自然だろう。




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『御本尊七箇相承』は日興上人の言葉とされている。師匠である大聖人から御本尊について教わったことを後世に代々伝える為に、七箇相承という形で残されたということである。

では日興上人は御本尊七箇相承の通りに書写されたのだろうか。それは当然だろう。まさか御本人がこの形式を守らないはずがない。

ところが、気になる書写本尊が幾つか散見されるのだ。実際に見ていきたい。

南無妙法蓮華経の下に『日蓮聖人』

以下は、山梨正法寺に格蔵されている日興上人書写の正応年間、御本尊の座配である。
正法寺格蔵の日興曼荼羅の座配
(興風談所「日興上人御本尊集」より)

御本尊七箇相承には
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」
と記述されている。「『日蓮在御判』と嫡々代々と書きなさい」と大聖人が「深秘なり」と仰せなのだ。

ところが、この日興上人書写の御本尊では、南無妙法蓮華経の下に『日蓮聖人』となっているではないか。これはどうしたことだろうか。何とこの他にも日蓮聖人と書かれた御本尊が2体ある(讃岐本門寺に格蔵の正応3年10月18日、宮城上行寺に格蔵の正応5年10月13日)


「仏滅度後二千二百三十余年」の讃文が無い

以下は、新潟世尊寺に格蔵されている日興上人書写の正和三年二月十三日、御本尊の座配である。
新潟世尊寺
(興風談所「日興上人御本尊集」より)

御本尊七箇相承には
「師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
と記述されている。師(=大聖人のこと)曰く、もしもこの讃文を略すことがあれば「大僻見不相伝の至極なり」とまで厳しく訓戒されているのだ。

ところが、この日興上人書写の御本尊では、この「仏滅度後二千二百三十余年の間~」という讃文が略されているのだ。これは一体どういうことなのだろうか。あろうことか日興上人が「大僻見不相伝の至極」の行いをしているのである。

讃文に関しては、この他にも『仏滅度後』ではなく『仏滅後』や『如来滅後』と書いた本尊も散見される。


「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が無い

以下は、宮城上行寺に格蔵されている日興上人書写の弘安十年十月十三日、御本尊の座配である。
宮城上行寺
(興風談所「日興上人御本尊集」より)

御本尊七箇相承には
「上行無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、経中の明文等心に任す可きか」
と記述されている。

ところが、この日興上人書写の御本尊で、両肩の部分には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」という文章がどこにも存在しない。「経中の明文等心に任す可きか」の御指南に反しているではないか。


御本尊七箇相承は果たして

日興上人は、大聖人の教えを誰よりも厳格に貫かれた方である。もしも大聖人が御本尊書写に関して『御本尊七箇相承』のようなルールを作られていたのならば、それを一つも漏れずに全ての御本尊書写に於いて厳守されたはずである。

だが実際にはそうされていないことから、日興上人の時代には御本尊七箇相承のようなルールは存在しなかったと判断すべきだ。つまり日興上人の言葉でも何でもない後世に創作された相伝書であろう。

宗門の歴代法主は、全てが戒壇本尊というただ一つの本尊を、その戒壇本尊の相貌を書写したとされている。そして、法主が書写する際の指南書ともいうべき重書が『御本尊七箇相承』である。この書には御本尊を書写する際の七箇の要点が示されている。

ところが、この御本尊七箇相承の通りの相貌になってない本尊がある。何と根本である戒壇本尊なのだ。

以下の画像は弘安2年戒壇本尊の座配である
弘安2年戒壇本尊の座配
(柳澤宏道『石山本尊の研究』から)


「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が無い

御本尊七箇相承には
「上行無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、経中の明文等心に任す可きか」
と記述されている。

だが、根本である戒壇本尊には両肩の部分には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」という文章がどこにも存在しない。「経中の明文等心に任す可きか」の御指南に反しているではないか。


「仏滅度後二千二百三十余年」の讃文

御本尊七箇相承には
「師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
と記述されている。

ところが、根本であるはずの戒壇本尊を見ると「仏滅後二千二百二十余年」となっているではないか。この十年の差異は何なのだ。


どちらが間違っているのか

これらの相違は一体どういうことなのだろうか。

御本尊七箇相承の記載が間違っているのだろうか。それとも戒壇本尊が間違っているのだろうか。しかし戒壇本尊は大聖人の御真筆を有りの侭に模刻したという伝承だったはずだ。

私もかつては幾度も大石寺に登山をして、戒壇本尊に御祈念してきただけに、このような事実を知りショックは大きい。一人の信仰者として真実を求めていきたい。




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別記事にて、その違いを指摘させて貰ったが、法主の書写こそ、大御本尊(ここでは、大聖人の御真筆をそのまま模刻したと仮定しておく)と比べれば、勧請諸尊も、讃文も、字体も、大きさも、文字の間隔も、悉く違っているではないか。余りにも大きな改変だろう。

果たして、これが『正しい相貌』と言えるのだろうか。「御本尊の相貌は仏様の姿そのもの」ではなかったのか。それをここまで改変するとはどういう了見なのだろう。大聖人の許可なく勝手に相貌を改変しているのだ。このようなことが許されるのだろうか。これが『許容範囲』とでも言うつもりだろうか。「(御法主猊下には、特別な御内証が備わっているのだから)仏様の姿でも、部分的になら改変しても構わない」とでも答えるつもりだろうか。

ただ法主の座にあるというだけで、彼等の書写本尊を有難がる信者の思考が理解できない。

しかも、その法主書写本尊をコピーして一般信徒に配布して、それを御形木本尊として自宅の仏壇に祀っているのだ。つまりは大幅改変+コピー御本尊なのである。

信徒は、この御本尊に対して本心から「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と仰せのように、大聖人の魂が宿っていると思えるだろうか。

誤解なきように説明しておくが、私は大聖人が顕された御本尊に於いて、勧請された諸尊の座配や、脇書き、讃文、を尊重すべきと考える。それが誰の書写であったとしても。決して不敬すべきではない。



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宗門の歴代法主による書写本尊は、全てが戒壇本尊というただ一つの本尊を、その戒壇本尊の相貌を書写したとされているが、これは本当なのだろうか。

多すぎる相違点

結論から言うと、形木本尊(法主直筆の曼荼羅を印刷したもの)は、戒壇本尊(板曼荼羅)を書写したものではない。相貌が違っているのだ。

歴代の法主の書写本尊と、戒壇本尊の写真を参考に比較してみたい。

日寛師

創価が用いている本尊、日寛師が享保5年に書写した略式本尊と比べてみる。相貌が全く一致していない。勧請された諸尊が大幅に減っていたりと似ても似つかない。

日如法主

日如法主の平成18年日付の書写本尊と比べてみる。形木本尊に記されている「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」といった文言が戒壇本尊には記されていないし、形木本尊の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」であるのに対し、戒壇本尊では「二千二百二十余年」となっている。 その他、勧請の諸尊の相違も指摘できる。たとえば、戒壇本尊では「釈提桓因大王」と記されているが、形木本尊では「帝釈天王」となっている。

日達法主

日達法主の昭和41年日付の書写本尊と比べてみると、やはり帝釈と書かれている。讃文も違う。福過十号と頭破七分がある。更に、妙楽・龍樹が勧請されていない。

日顕法主

日顕法主の昭和54年日付の書写本尊(導師本尊)には、天照大神・八幡大菩薩の代わりに閻魔法皇・五道冥官が勧請されている。これは戒壇本尊にも、大聖人直筆本尊にも一度も勧請されたことがない。何という大胆不敵なアレンジであろうか。

なお彼の書写本尊は、ある年代日付では釈提桓因大王と記されているが、別の年代日付では帝釈天王となっていたり、妙楽・龍樹が勧請されていたり、いなかったりと書写の年代日付ごとに相貌が違っている。同じ戒壇本尊を書写してるという設定なのに、一人の法主が、書写する度に相貌が変わっているのだ。


このように、幾つか挙げてみたが他にも枚挙に遑がない。これらの矛盾は一体どういうことなのだろうか。


苦しい言い訳

宗門ではこれを「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」と説明している。

「代々の御法主上人は、その相伝の権能のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写しているのです」と主張している。

要するに「血脈相伝を受けた法主が認可すれば、その書写した本尊は戒壇の大御本尊に通じる」という趣旨なのだが、何とも理解し難い説明である。

「法主は戒壇本尊を精神的に書写をしているのだから、物理的に相貌が一致していないのは問題ではない」とでもいうのだろうか。ここまで来ると、まるでトリックアートの世界である。

常識的に考えて、こんな説明で納得できる人はいないだろう。

正確に書写する気など

これらを整理してみると、彼らには戒壇本尊の相貌を、寸分違わず正確に書写しようという姿勢など微塵もないと言わざるを得ない。



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御書には大御本尊に関する記述は全くない。ゆえに未だに真偽は不明のままである。江戸時代の日寛師以降、もう300年以上も論争が続いているが決着は全くついていない。このままだと永遠に謎のままだ。

大御本尊の真偽の問題をハッキリさせる事が重要だろう。第三者機関に依頼し科学的に検証すべきだ。選択肢としては筆跡鑑定や筆法鑑定や放射性炭素年代測定などがある。これらを組み合わせて精度の高い検証をして貰いたい。そうすれば大御本尊の模刻がいつの時代のものか明瞭になる。その結果、鎌倉時代ならば信憑性が高まるし、室町時代以降ならば後世の作ということになる。その為には宗門が調査に全面的に協力する必要がある。そして結果を公表すべきだ。

『日興跡条々事』に関しても、宗門は「日興上人真筆の原本がある」と主張しているのだから、それを出せば良いのだ。中立の機関による筆跡鑑定や筆法鑑定を行い日興上人の真筆か否かを検証すべきだ。問題の空白部分に関しても何らかの事実が導き出されるかもしれない。

真偽がハッキリする事によって、大聖人の御本尊へのお考えが(書写や板本尊への模刻をどう考えておられたか等々)明らかになる。現在、そして未来の信徒の為にも真実を明らかにすべきだと考える。未来の信徒達が同じ迷いに苦しまないように。

宗門には、このような大局観な見地に立って、是非とも「中立的な調査」に協力して頂きたい。




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大石寺に安置されている大御本尊。その大御本尊の位置付けに対して違和感が昔からあった。一人の日蓮仏法の信仰者として、ありのままに感じたことを述べてみる。

現在の宗門の教義を体系的に完成させたのは日寛師である。特に本門戒壇の御本尊に関する記述をピックアップしてみたい。
法華取要抄文段
「 広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり」
観心本尊抄文段
「故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。」

正直な感想を言えば、日寛師は大御本尊に余りにも過度な重み付けをしたのではないだろうか。大御本尊が全ての根源であるとし、他の御本尊は支流のような扱いをしている。例えるなら『マザー御本尊』的な役割を与えているのである。これには強い違和感を覚える。御書に一度も出てきてない『弘安2年の御本尊』に対してそこまでの過度な解釈は行き過ぎであろう。

本来、御本尊に差別などあってはならない。だが日寛師は大御本尊だけを特別扱いしている。これが日蓮大聖人の御意思に反することは明白である。

(なお私の大御本尊観は別記事に書いた通り。)

「大御本尊への信」が前提

この日寛師の教義を元に、現在の宗門は『分身散体の法義』にまで発展解釈させている。宗門側の人に言わせれば、大御本尊に信を取らなければ、いくら他の御本尊を拝んでも功徳が無いらしい。

大御本尊に法主を結び付ける

その大御本尊に『唯授一人の血脈相承』の法主を結びつけて絶対忠誠の構図ができあがっているのである。さらに『法魂』という用語まで造っているのだ。日応師以後は「代々の御法主上人に伝えられる血脈相承によって、 はじめて本門戒壇の大御本尊の法魂・極意が書写される」と教えているのである。

「信仰が戒壇の大御本尊から離れ、血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません。かえって罪障を積むことになる」と指導し、「正鏡たる本門戒壇の大御本尊と、唯授一人の御法主上人に信伏随従する信心にあることを、けっして踏み違えてはならない。」と指導する。

法主に絶対服従する「おすがり信仰」

このような指導を受ければ、純粋な信徒は幾度も総登山を行い、大御本尊を拝謁に行き、法主の有難い法話を聞きに行くのである。このような構図が信徒を縛り『おすがり信仰』になる要因であろう。

大聖人の仏法とは、こんな特定の場所に参詣し、法主に絶対服従しなければ成就できないようなものだったのだろうか。原点である御書を拝読すればするほど強い違和感を覚える。


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