創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 教学_三世の生命

(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

現世のみに限定すれば、生命は公平とは言えないだろう。

生まれながらに重い病を抱え、長く生きることが出来ずに死んでいく赤ちゃんが存在するのだ。この現実を避けては通れない。

例えば、先天性の重度の心疾患を抱えて生れてくる場合など。現代の医学では助けようが無い。助かる可能性はゼロである。

この赤ちゃんは生まれてすぐに死亡してしまったのだ。一方で病気一つせずにすくすくと育っている大勢の赤ちゃんがいる。現世のみで見れば、こんな不公平なことはないだろう。

キリスト教などの一神教の信徒は「この赤ちゃんの死にも意味があるのです。神様がお決めになった事には全て意味があるのです」「赤ちゃんの魂は神様の元に召されて幸せに過ごすでしょう」と答えるのだろう。しかし、このような不条理には到底納得ができない。一神教は本質的に不公平を是認しているのである。それを尤もらしい理由を付けてるに過ぎない。

一方、これをイプシロン氏のような無神論者は「運が悪かった」で済ますつもりだろうが、そんな詭弁は最早通用しない。

生命が公平である為には。やはり三世の生命というものが確かに存在する。この赤ん坊は過去世の悪業により現世の果となった。そのことを避けては通れないだろう。

法華経の薬草品・サンスクリット原典(鳩摩羅什訳には無い)に「この人の過去世の悪い行い(悪業)によって病気が生じたのである」と明記されている。



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時々ニュースで子供の虐待の事件が報じられることがある。平和なこの日本でも、子供の虐待が潜在的に存在していることを実感させる。

虐待の具体例

例えば、小さな女の子が、両親によって日常的に虐待されているケースを考えてみたい。

児童相談所も軽視して見逃してしまう。近所の人も気付いてくれない。誰も助けてくれない。

次第に両親の虐待はエスカレートし、暴行の度合いも激しくなる。殴る蹴る、常に体にアザが残る。肉体的な暴力だけではなく言葉の暴力も加わる。「おまえなんて生きていてもしょうがない子なのよ!」と存在すら否定する。小さな女の子にとってどれほどのショックを受けただろうか。どれほど深い絶望に陥ったのだろうか。この子は自分が悪いと思い込みノートに反省文を書く「もっと良い子になるから、お願い許して」と・・・。

食事も制限され、一日一食、いや与えられない日すら出てくる。体重は激減し、見るからに痩せていく。やがて、もう食事もとれない程衰弱してしまう。そしてついに暴行に耐えられずに、ぐったりした姿になり倒れてしまう。そこで慌てて病院に緊急搬送するが、手遅れで助からず死んでしまう。

何の罪も無い天使のような子供が、このような残虐な目に遭う。

生命が今世限りならば

もしも生命が今世限りならば、一体この子の人生とは何だったのだ?

家庭での温かい触れ合いの記憶もなく、友達と楽しく遊んだ思い出も作れず、恋も、青春も謳歌できず、社会に出て自分の能力も活かせず、この世において何も為せず、ただ虐待されるだけの地獄のような日々。それに怯えるだけの日々を送る。両親からの度重なる暴行は極限までエスカレートし、ある日突然に人生を強制終了させられたのだ。

この子は、頑張って自力で現状を打開することは不可能だったのだ。(避けられぬ不幸・避けられぬ死)

これをイプシロン氏のような無神論者は、ただ単に「可哀想だが、運が悪かった」で済ますのだろうか。彼等は都合の悪いことは一切答えない。普段から偉そうに講釈を並べているが、彼等の主張などいざという時には何の価値もないのは明白である。

生きている間は地獄の日々ばかりで、そして、この子の死後は無になるとでも言うのだろうか。その一方で、裕福な家に生まれ、何不自由なく恵まれた環境で、愛情をたっぷりと注がれて育てられている子供がいる。その子との違いを「単なる運」で済ますのだろうか。それでは余りにも不公平すぎるだろう。

仏法の眼から見れば

仏法の眼から見れば、この女の子は、過去世に因となる悪業を犯した。それが今世に果となり現れた。この子の悪業は精算され、次に生まれたら、そのような酷い目に遭わされることが無く、幸せな子供時代を送ることが出来るようになる。そう捉えるのが一番公平ではないだろうか。

加えて、この虐待を続けた親は悪業を積み、次の生で必ず報いを受けなければならない。己の犯した罪を因として、次生で虐待される側となり大いに苦しむ果となる。そうでなければ生命は公平とは言えまい。



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現実社会で、殆どの人間が犯罪に手を染めないのは、法治国家であり、警察制度が確立されているからだろう。犯罪が判明すれば、国家によって裁かれ罰を受ける。社会的な地位を奪われ、周囲からは軽蔑され、金銭的にも苦境になる、身内からは離縁される、子供もイジメに遭うリスクが高い、まさに破滅である。だからこそ、犯罪を抑制できているのだ。

もしも露呈しなければ、人間は悪いことでも平気でやろうとするだろう。

企業が産業廃棄物をこっそりと私有敷地内に埋めていた。数年、或いは10年以上発覚しなかったが、とうとう正義感の強い内部告発者が出て、それがきっかけで発覚した。そのような事件は枚挙に暇が無い。記事1 記事2 記事3

国家の法治が及ばない所、露呈がないと思われる所、信仰を持たない人間ならば平気で悪事でもやるだろう。しかし世の中の多くの人間は何らかの宗教を信じている。イスラム教でもキリスト教でも仏教でも、死後の裁き・死後の生命が説かれている。

一神教の信者はこう思う「誰も見ていないし、監視カメラも無い。絶対にバレることはない。でも神様は見ておられる。自分が死んで、神様に裁かれる時が怖い」だからこそ、そのような条件下でも踏みとどまる抑制力になっているのだ。


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『生かされるまま生きる』のイプシロン氏は、こう言い放った。
まあ、未だに『宿業』だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、『業』なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
仏法で説かれる業を『似非仏教』だと吐き棄てているのである。これほど愚かな思い上がりは無い。

死=無に帰するのならば

以下は、彼の主張に沿って考察してみる。

死ねば全てが無に帰するならば、この世の努力など何の意味があるのだろうか。それは『社会的に成功する為』ただその一点が回答になる。それ以外は全て無駄になる。

イプシロン氏は、作家志望ではあるが、(社会的に成功した作品を)何一つ世に出せてはいない。世間的には何の評価も得られていない、何の成功も為していない。ならば、彼の今までの努力は死によって全て無に帰するのである。誰にも彼の功績など語り継がれる事もない。何も残らない(この世に於いて何の成功の実績も無いのだから、当然である)

ならば彼は、何の為に努力するのだろうか。彼のライフワークである読書など、今更、社会的な地位向上に何の役にも立たない。読書や哲学など何の価値があるのだろうか。積み上げてきた知識など何の役に立つというのだ。

それよりも、残りの人生、享楽と欲望のままに生きた方がよっぽどマシというものだ。その方がよっぽど充実した余生を過ごせるだろう。旨い物をたらふく食い、旨い酒を浴びるように呑み、娯楽に興じた方が遥かに楽しく豊かな人生と言える。

三世の業を否定すれば、勝者のみが正義となる

仏法で説く『善業・悪業』を否定すれば、この世に於いて、どんなに悪い事をしても成功した者だけが世間的に評価されるようになる。バレなければ、成功者として尊敬されるのだ。

逆に、(イプシロン氏など)どれだけ影で地道に努力しようと、社会的に成功してない人物は何の価値もないと見なされる。どれだけ人の為に尽くそうと努力しようが、それが表に出ない限り、社会的には何の評価も得られない。ただの要領の悪い哀れな人だ。そして死ねば無に帰するのだ。要するに価値のない人生だったということになる。

イプシロン氏は、社会的には無価値と見なされ一生を終え、死後も無価値として存在すらスルーされるような人生なのだ。彼はそれで満足なのだろうか。要するに、彼は『三世の善業・悪業』を否定することによって、『人生の敗北者』たる彼自身を痛烈に否定しているのである。何と悲しい事か。

世の中の大半の人々は

(死後の世界を信じない)無神論者で、世の中の殆どの人は、このような状況に置かれた時に、果たして奮起しようとするだろうか。虚無感に覆われて残りの日々をただ絶望するだけではないだろうか。中には投げやりになって、ギャンブルや犯罪や麻薬に手を染める人もいるだろう。『死後の裁き』が無い『死ねば、どうせ無になるのだ』と思い込んでいるのだから、そのような発想になるのも仕方が無い。悲しい事ではあるが。

死によって消滅しないものを信じるからこそ、人は前向きに生きる事ができるのだ。だからこそ確固たる信仰を持ち『死後も消滅しない』と確信を持つ人は強い。


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以前に紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏の見解はこうである。
死んだ後というのは、われわれは無情になるのですから、基本なにも感じないというのが正しい推測でしょうね。 意識が無い、無情になった=「無」です

宿命というのも同じです。結局のところ、この世に生まれてきてから自分でつけた心の習慣によってとってしまう行為のことです。それをさも前世からあったように説く宗派はインチキ仏教なわけだ。しかも来世に持ち越すとかいうならもっとインチキなわけだ
このように彼は死後の生命を『無』と言い切り、何も感じないと言い、三世の生命も否定している。それを説く宗派を『インチキ』と断定している。

人間というのはどこまで都合の良い『我見解釈』をするのだろうか。偉大な仏法という絶対の法があっても、人間の勝手な解釈で捻じ曲げて用いると不幸な結果になってしまう。このイプシロン氏を見ているとつくづく思う。

幼少の頃の虐待体験

そんな彼自身、幼少の頃の父親に虐待された体験が今でもフラッシュバックし蘇る。思い出したくない過去なのに自らの意思でコントロールできずに随時湧き上がってしまう。彼を苦しめている幼少の頃の虐待経験、これぞ生命に刻み込まれた消えない一念である。仏法では『蔵識』ともいう。

父親に虐待された場所・部屋、その時の風景や父親の鬼のような形相、その時に感じた恐怖、苦痛、逃れたい渇望、次から次へと湧き上がってくる。仏法上から見れば、その場所は国土世間である。地獄の地獄の生命であろう。五陰世間の識で認識をして、色・受・想・行、次から次へと感じる。

現代人が陥りがちな思考

この現世においてすら、感情・一念のコントロールすら全く出来ないのに、死後の生命を否定し、無だと主張し、都合の良い解釈をする。現代人にありがちな軽薄な思考である。夢で父親からの虐待を見ることもあるだろう、そのもっと強い状態が死後の生命の姿である。夢の中で悪夢を自らの意思でコントロールできないように死後の世界も主体的に制御できない。

普段は意識をしていない、だが生命の奥底に刻み込まれて永遠に消えない。自らの意識で消し去る事ができない。仏法ではこの生命を説いている。人間の人生はこのような一念の積み重ねである。これは死後の生命も続くと説かれている。死後も『我』は存在し、苦しみ、楽しみ、感じる生命は厳として存在するのだ。すなわち、死後の生命は『空の状態』の存在である。


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先の記事で紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏、「気軽に~」の渡辺氏、Libra氏、yurukatsu21 氏、等々。様々な本を読んで学んだ結果、初期仏教(原始仏教)に固執する人達が多い。彼らは初期仏教こそが釈尊の唯一の直説だと思い込んでいる。頻繁にスッタニパータの一節を投稿してアピールしている。

私は、初期仏教に関して学ぶ事を否定しているわけではない。だが、そこに固執するあまり視野が狭くなり思い込みが激しくなっているのが残念なのである。

教義の優劣をつけない曖昧な姿勢

そして彼らは「宗派の優劣を主張するな」「他経より優れているというのは排他的である」と優劣をつけることを悪とみなしている。教えの浅深など一切考慮しないのだ。ある意味、日本人的な「宗教なら何でもいいね」という風土そのものである。

宗教の優劣を評価しなければ、極端な例を挙げれば、一向一揆でも、イスラム原理主義でも「それぞれ魅力があっていいね」となってしまう。教義の優劣をつけない姿勢こそ堕落なのだ。

十二因縁や四劫を学んでも

さて、スッタニパータ中では説かれていないが、初期仏教の枠組みは阿含部とされ、ここに十二因縁が入っている。この十二因縁とは縁起で説かれる一貫なのだが、老死から始まる人間の苦悩の根源が説かれており、その突き詰めた根源こそが無明である。陥りがちなのは、流転と還滅を行うことにより、根本の苦悩が消滅し、輪廻転生も無くなる。と解釈してしまう傾向にある。彼らはこのような我流解釈によって「死後の世界は無に帰する」という虚無思想に取りつかれてしまうのだろう。
(ちなみにスッタニパータでは『二種の観察』が説かれている。)

四劫(成住壊空)を学んでも、彼らの我見解釈によって無常観や厭世観に取りつかれてしまう。

彼らは釈尊の説いた死後の地獄界等を単なる教訓程度にしか思っていない。厳粛な生命の因果律である『業』(善業・悪業)を信じず、「死後の世界は無に帰する」と思い込めば、虚無思想に捉われるのは当然だろう。

三世の生命を否定すれば

生命が、この現世のみであれば「何をやっても良い」「どんな卑劣な事をしても(露呈しなければ)成功した者が偉い」という発想になる。どれだけ裏で悪逆非道の限りを尽くしても成功すれば、それが表に露呈しなければ善人を装い続けることができて賞賛されるのが現実社会である。

逆に、どれだけ人類の為に、地球の為に尽くした人生であっても、それを隠蔽されて改竄されて悪者にされれば未来永劫その人は悪人、或いは無かった存在となってしまう。

彼らの浅薄な論理ではこのような人達を正当に評価する基準を持たない。つまり、このような人達は、結局は『成功者』を認めざるを得ないのだ。

日蓮仏法を信仰の根本に置かず『我見解釈』をする人達は、このように根無し草のようなフワフワとした思考になってしまう。

宗教は所詮は三世の生命への力用に尽きる。死は避けられない。誰しも必ず死は訪れる。これを避ける思想・哲学・宗教など無価値であろう。死の厳粛な審判の前には蓄えた知識など何の役にも立たない。ただ実践の完全燃焼しきった生命でしか太刀打ちできない。知識をこねくり回すだけの人が多いが、死後の世界には何の役にも立たない。

釈尊が仏法を説いたのも。生老病死が避けられないことへの対応であった。三世の生命に渡って幸福になる道であった。大聖人も同じである。

命のリミットが迫っている人に

現実に、いま、末期癌などの重い病気で命のリミットが迫ってる人がいる。このような状態に置かれた人にとって、僅かな知識を増やしたところで何の満足ができようか。

だが、日蓮仏法では、このような人でも唱題行で三世に於いて幸福になれるのだ。

天台の修行は

天台の止観の十乗観法の修行は一般庶民には極めて困難である。非常に高い能力を必要とする。それこそ千人・万人に一人が悟達できる難易度だろう。それでは実際の上では一切衆生を救済したことにはならない。ゆえに大聖人は唱題行という究極の実践法を弘められた。

専修念仏では

唱題行として法然の念仏は有名だが、修行法としては平易なため一般庶民からも多くの支持を得て、僅かの間に急速に浸透した。この点は着目すべき点であろう。

だが悲しいかな専修念仏では幸福にはなれない。娑婆世界とは縁のない阿弥陀仏を本尊として拝んでもダメである。『捨閉閣抛』と法華経までも捨てているのだから一切衆生の成仏への道を閉ざしているのである。



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近年、ゲノム編集技術が急速に進展している。CRISPR-Cas9という手法(モジュール式標的システム)が生み出されたことにより、狙った遺伝子の塩基部位を欠損させたり(ノックアウト)、入れ替え(ノックイン)させたり簡単に出来るようになった。

研究段階では、筋肉量が通常の2倍ほどある牛や魚を生み出したり、皮膚の色が全く無い動物を作り出したり。ある遺伝子を欠損させることにより特定の疾患を引き起こしたり、逆に変異部位を正常な配列に戻すことも可能になった。CRISPR-Cas9を使うと極めて正確に簡単に遺伝子操作が可能になった。

そこで問題視されてるのが人間への応用である。ヒトの受精卵に、遺伝子変異の部位をゲノム編集で改変して治療するという行為が許されるかどうかである。例えば先天的な心臓病の遺伝子疾患が判明した場合に治療すべきかどうかということである。アメリカの研究チームは既に実施した。彼らは肥大型心筋症の遺伝子変異をゲノム操作によって正常に修復し胚盤胞の段階まで成長させた。

或いは、ダウン症などの先天性の遺伝について考察してみる。体外受精でダウン症であると判明した場合、受精卵にゲノム改変を加えて治療することは許されるのだろうか。また、普通に妊娠して、産科の検査でダウン症が発覚するケースでは、将来的に胎児の段階でゲノム編集を加えて治療できる技術が確立されたとして、それを適用するのは許されることなのだろうか。「欠陥」のある遺伝的素質を排除しようとする優生の論理にならないのだろうか。先天性の遺伝疾患を『個性』と捉えるべきだろうか。

仏法では善業・悪業の内容として、外見や病気、能力、先天性の病気、貧富の生まれ、邪見の家に生まれ、などの要素が説かれるが、ゲノム編集をヒトの受精卵に適用すれば、外見や能力、病気や体質なども操作できるようになる。過去世に積み上げてきた善業・悪業の要素(の一部ではあるが)が遺伝子編集によって簡単に操作可能ということになる。

或いはそこまで深刻に捉える必要はないのだろうか。つまり、ただの病気治療という程度のものとして認識すべきなのだろうか。名医で有名な耆婆が外科手術によって患者を救ったのと同じ類と考えるべきだろうか。昔は難病で治療不可能だった病気も治療できるようになった事と同義だろうか。

今後も考察を進めていきたい。


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願兼於業と宿業に関して。昔から、思う所があった。今回、整理してみる。

三世の善業・悪業こそ公平

自分は仏教で説かれる業の概念は正確で公平なものであると確信している。この業の因果律が無ければ、『何をやってもあり』になってしまうからだ。善業・悪業を否定すると、その人生で何をしてもやった者勝ちになってしまう。どれだけ悪いことしても、それが表にバレなければ勝ち。他人を騙しても搾取しても明らかにならなければ勝利。裏で悪いことをして、人を蹴落としたり、或いは殺しても表に出なければ勝利。人類の歴史上、そんな事は無数にあるだろう。そのような行いをしてきた人々が死後、自分の積んだ悪業によって苦しまなければ、公平とは言えない。善業も全く同じである。誰が見てなくても評価しなくても業が必ず善果にならなければ公平とは言えない。同生天・同名天として説かれるのが仏法の公平性であろう。

願兼於業の解釈

一方、願兼於業の解釈が難しくて悩む所がある。本来は悪業は無いのだが、妙法の偉大な功力を証明する為に願って業を兼ねて生れてくる。と説かれる。

少し思索を進めてみると、過去世に悪業を積み重ねた人(いわば純粋な悪業)と、願兼於業の人(願って業を兼ねた人)との区別がつかなくなるのではないだろうか?例えば、重い病気の人が「自分のこの病気は悪業が原因なのだろうか?それとも願兼於業なのだろうか?」と考えた。一方は大悪人で悪業を積んだ過去世であり、一方は善業で何不自由ないのに、あえて願って業を兼ねて生れて来た。つまり天地ほど過去世が違ってくるのである。

仮に、過去世が大悪人で悪業を積んだのであれば、大聖人の仏法により転重軽受できるチャンスがある。(宿命転換という用語は御書に無いので触れないでおく)

しかし、一方で、例えば大病した人が頑張ってる姿は感動を与えるものである。仏法の力で乗り越えた姿は説得力があり、人の心を打つものがある。これも否定はできない。


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