創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 信仰・思想

アナトール・フランスの『神々は渇く』の主人公エヴァリスト・ガムランは純粋な青年であった。革命下のフランスに於いて様々な人物の影響を受ける。若い頃は特に影響を受けやすい。

だが、今や彼は、賢人(ロベスピエール)の声に啓蒙されて、より高い、より純粋な真理に目覚めた。彼は革命的な形而上学を会得したのだ、そして、そのおかげで、彼は自分の精神を、粗雑な当てずっぽうの域を超えて、勘違いなどの余地の無い、絶対的確実の領域にまで高めることが出来た。

「事態はそれ自身錯雑し、混乱に満たされていた。そして、色々の出来事はいかにも複雑で、容易にその真相を捕捉しがたいほどだった。しかるにロベスピエールはそれを単純化して彼に示してくれた。善悪を単純なハッキリとした型に分けて見せてくれた。

例えば連邦主義者のなかには地獄の責め苦があるというように。ガムランは、一人の信者が救いの言葉と呪いの言葉との区別を知った時のような、深い歓喜を味わった。

今後革命裁判所は、往年の宗教裁判所みたいに、絶対的罪悪と言葉の上の罪悪とを識別できるに違いない。ガムランはもともと宗教的な気質の持ち主だったので、暗い熱情でこれらの啓示を受け入れた。彼の心は奮い立った。そして、今後自分が犯罪の有無を識別する場合にその基準とすべき心情を把握したかと思うと、我ながら天にも昇る心地だった。おお、信仰の宝庫よ!お前さえあれば、もう大丈夫だ。」

彼は共和主義思想を信奉しロベスピエールに心酔する。それは信仰心そのものだった。そしてロベスピエールの単純化された思想によって物事の判断の基準が出来上がった。

近視眼的で視野狭窄とも言うべき善悪の判断基準で陪審員としての仕事をこなしていくことになる。その結果、多くの無実の人を有罪として裁き、ギロチンにより命を奪ってしまうのである。悲劇そのものだ。

現実は複雑である。それを踏まえて丁寧に一つずつ応接していかねばならない。


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現代は様々な思想・宗教・哲学が存在している。かつてこれほど幅広い選択は無かっただろう。

若い人は『会いに行けるアイドル』に熱中したり(アイドルが本尊)応援の為に人生の時間と金を限界まで費やしたり、オンライン・ネットゲームに熱中したり(ネトゲが本尊)。ガチャによる重課金が社会問題として扱われた。かつて無かったようなライフスタイルが新たに出現してきた。

一方で会社人間(会社が本尊)もまだまだ多い。近年では、ブラック企業と呼ばれる悪質な企業が、労働者の『やりがい搾取』してこき使う問題も指摘されている。

或いは趣味や習い事を何よりも優先させる人も多い。旨い物を食べ歩くのが好きで週末になると必ず有名店を巡る人もいる。地域の祭りが一年間の中心として生活する人達がいる。岸和田のだんじりや諏訪の御柱祭など(祭りが本尊)

ギャンブル(ギャンブルが本尊)、パチンコや競馬に人生を費やす、アルコール中毒(酒が本尊)、麻薬(麻薬の快楽が本尊)、

現代では、拝金主義が圧倒的に多い。「金さえあれば」資本が根源である。

日本会議のように国家主義・天皇を本尊とする信奉者も多い。

己の理性を本尊とする人もいる。

(日本では)戦前から共産主義を本尊にした人も多かった。現在もいる。

その国・社会・時代における大衆心理。(戦時中の日本の風潮)。そのような思想・風潮に人は無意識のうちに支配されているものだ。マスメディアが作り出す。戦時中はお国の為に、天皇の為に奉仕することが美徳とされていた(本尊)。

人間は必ず何かを本尊とする。その本尊によって影響を受ける。その本尊の思想レベルが低いか高いかの違いだ。高い思想レベルの本尊を持たなければ次元の低い本尊を受け入れる。具体的にいうと、何の哲学も無い一般人は拝金主義の風潮に陥りやすいのが現実だ。だからこそ高い次元の本尊を根本としなくてはならない。




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我々の外部に無窮なるものがあると同時に、我々の内部にも無窮なるものがないだろうか。その二つの無窮なるものが(何という恐るべき複数であるか!)互いに重なり合ってるのではないだろうか。第二の無窮なるものは、いわば第一のものの下層ではないだろうか。それは第一のものの鏡であり、反映であり、反響であり、第一の深淵と同中心の深淵ではないだろうか。この第二の無窮なるものもまた霊的のものではあるまいか。それは考え愛し意欲するのではあるまいか。もし二つの無窮なるものが霊的のものであるならば、その各々は一つの意欲的本体を有し、そして上なるものに一つの自我があるとともに、下なるものにも一つの自我があるに違いない。この下なる自我がすなわち人の魂であり、上なる自我がすなわち神である。

思念によって、下なる無窮のものを上なる無窮のものと接触させること、それを称して祈るという。


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ドストエフスキー『悪霊』の中で登場する、無神論者達の精神的支柱のような人物は、死の間際に神への信仰に目覚める。

「僕にとって神が欠かせない存在であるのは、それが永遠に愛する事のできる唯一の存在であるからなのです・・・」

「おお、僕はぜひとも、もう一度生きたい!」彼は異常なエネルギーの高まりと共に叫んだ。
「人生の一刻一刻、一刹那、一刹那が人間にとって至福の時でなければならないのです。必ず必ずそうならなければいけない!そのようにすることが個々人の義務なのです。これは人間の掟です———目にこそ見えないが、厳として存在する掟なのです・・・」

「人間にとっては、自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物の為の完成された静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、遥かに必要なことなのです。・・・人間存在の全法則は、人間が常に限りもなく偉大なものの前にひれ伏すことが出来たという一事に尽きます。もし人間から限りもなく偉大なものを奪い去るなら、人間は生きることをやめ、絶望のあまり死んでしまうでしょう。無限にして永遠なるものは、人間にとって、彼らが今その上に住んでいるこの小さな惑星と同様に、欠かすべからざるものなのです。」


一般論として、神からの解放を宣言した無神論は、つまるところは、良心からの解放を宣言したことになり、「神が居ない以上、何をやってもよいのだ!」ということになる。『無制限の自由』、つまり、神と道徳からの自由は、必然的に『無制限の専制』に行き着く。


(以下、随時追記)


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生命論として、「気楽に~」渡辺氏だの、運ちゃん氏だの、蓮の烙印氏だの、こういう実際に折伏も人を救う行為を一切やってない連中よりも、創価や宗門(や顕正会も含めて良いだろう)でバリ活動の人達の方がよっぽど生命は輝いているだろう。なぜなら実際に現場で折伏しているのはこの人達だけなのだから。最前線で今も仏法対話をしている人に敬礼したい。

組織から離れた連中は、例外なく『傍観者』となる。二度と折伏などしなくなる。

その典型が「気楽に~」である。渡辺氏を見れば明らかだ、あの輩は日蓮仏法を否定することに全精力をつぎ込んでいる。挙句の果てに創価ネタで遊んでいる始末である。要するに、ただの創価ウォッチャーであり、趣味で観察しているに過ぎない。

悲しいかな、これが事実なのである。

以前に創価を去った人達のその後を整理してみたが。宗門に移った人を除いて純粋に日蓮仏法への信を貫いている人は皆無と言う他ない。

運ちゃん氏など「ありのままの日蓮を探求する」などと偉そうな事を言っても、単なる『傍観者』に成り下がっただけである。創価組織を批判するのは良いが「では自らは何をしているのか」と問われたら何と答えるのか。何もせず、ただ眺めているに過ぎない。彼の姿勢はまるで上座部仏教の出家僧侶ではないか。対して創価の一般会員は大衆部に見える。

この連中の、このような姿を見ていると深く考えさせられる。僅かばかりの知識が増えたところで、それが自らの生命の養分になっているのだろうかと。そして、その生涯を終えるとき蓄えた知識など、厳粛な死の前では粉々に砕け散り微塵も役には立たないだろう。

生死一大事血脈抄に「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して」と仰せのように、今臨終を迎えても恥ずかしくない信仰をしなければならない。『観念の遊戯』では意味が無い。

だからといって組織の打ち出し指令のまま盲従する『組織おすがり信仰』を賞賛する事は出来ないが。


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