創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 文化・芸術

(メモ段階)

最近よく思索するのは、トルストイの不朽の名作『戦争と平和』である。私も若い頃から何度も読み直した素晴らしい作品である。

BBC版では2016年に最新の映像技術によってドラマ化された。あのBBCが2年半をかけてドラマ化した渾身の作品となっている。

とにかく圧巻の映像美である。エカテリーナ宮殿をはじめ、白樺の並木道や、ロシアの美しい田園風景、樫の老木の大樹、ボロジノ会戦のパノラマの光景、等々枚挙に暇がない。これらを映像化してくれただけでも価値がある。

しかし同時に映像作品の限界も感じた。一例を挙げれば、小説の中での、ボロジノ開戦前のアンドレイとピエールの会話が、ただの恋愛話にすり替わっているのである。これは残念だ。原作を読んだことが無い視聴者層に配慮したのだろうか。しかし、この会話の中にこそトルストイが訴えた『ロシア魂』そのものが語られているのだが。

当記事では、映画・ドラマ批評のような事をするつもりはない。ただただトルストイ原作の深さを再認識させられ、深く思索し続けている。

あの英雄ナポレオンの言葉すら「蠅の唸り声」と突き放し、歴史は一人の英雄が作るものでは無いとするトルストイの透徹した歴史観。強く惹かれるものがある。
われわれの一人一人が偉大なナポレオンより、人間として以上でないまでも、決して以下ではない、とわたしに語りかける人間の価値というものが、


精神の英雄プラトン・カラターエフ

物語後半でプラトン・カラターエフというロシアの農民兵が登場する。ナポレオンが武力の英雄なら、カラターエフは精神の英雄として描かれている。ピエールは捕虜生活の中で彼に感化される。信仰観まで変化をもたらす。後に
彼(ピエール)は目的を持つことができなかった。なぜなら彼は今や信仰を持っていたからである。それはある種の法則か、あるいは言葉か、あるいは思想に対する信仰ではなく、生命ある、常に感じられる神に対する信仰だった。以前に彼は自分に課した目的の中にそれを求めていた。この目的の探求がとりもなおさず神の探求だった。そして、ふいに彼は捕虜生活の中で、言葉や考察によってではなく、直感によって、子供の頃から乳母に聞かされてきた「神様はほらそこにいらっしゃるでしょ、神様はどこにでもいらっしゃるんだよ」ということを感じたのである。彼は捕虜生活の間に、カラターエフの中にある神のほうが、フリーメーソンの信仰する宇宙の建造者の中にある神よりも、偉大で、無限で、究めがたいものであることを知ったのである。




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大詩人ユゴーは詠った
どこへいくのか、この飛空船は?
船は進む、日光の衣を身に着けて、
神聖で清らかな未来に向かって、美徳へ向かって、
輝き渡る科学へ向かって、
災いの滅びる世界へ、過ちを水に流す寛大な世界へ、
豊かさと、静けさと、笑いと、幸せな人間とが住む世界へ向かって!
船は進む、この輝かしい船は。

権利と理性と友愛とに向かって、
ごまかしも、包み隠しも決して有り得ない、
宗教的で神聖な真理に向かって、
心と心とを優しい絆で結ぶ愛に向かって、
正義と、偉大と、善と、美とへ向かって
―――お分かりだろう、あの船は本当に満天の世界へと昇っていくのだ!


この船は空の高みで、偉大な結婚を成し遂げる。
人類の魂を神に結びつけるともいえる。
計り知れない無限を見て、それに触れるのだ。
この船は空をめざして昇っていく進歩の大きな飛躍。
現実が傲然として神聖な姿で、
人を寄せ付けなかった古代の理想の中へと入っていく姿。

ああ!この船の一歩一歩は無限の世界を征服する!
この船は喜び、この船は平和。人類はその意志の広大無辺な代行者を見つけたのだ。
神聖な簒奪者、祝福された征服者、
この船は空を進み、毎日いっそう遠く、無限の中に分け入らせる。
真の人間が始まる。暗い点のような自分の姿を。

この船は耕す、大空の深淵を。この船は作り上げる、大空に畑を。
大暴風や、冬や、旋風や、すさまじい風の音や、
嘲りの声がそれまでは雑草のようにはびこっていた空にすばらしい畑を。
この船のおかげで、万物の和合が大空で、麦束のように刈り入れられる。
船は進む、神秘な大空の畑を豊かにしながら、
雲の畑を鋤で厳かに耕しながら。

この船は人間の命を、空の畑に芽生えさせる。
神がまだこれまでに、夕日という種しか蒔かず、
夜明けという収穫しかしたことのない畑に。
船は聞く、澄みきった穏やかな空気を裂いて飛んでいくその下で、
今や主権者となった諸国の民衆が、成長しながらざわめくのを、
民衆という広大な麦の穂のざわめきを!

この上もなく素晴らしい不思議な飛行船よ!
ただ進んでいくだけでこの船は、
変えたのだ、地上の嘆きを清らかな喜びの歌に。
若返らせたのだ、衰えた数々の民族を。
打ち立てたのだ、真の秩序を。指し示したのだ、誤りのない道を。
ユゴーは重さを悪だと考えていた。原初の幸福な状態から、被造物が堕落してしまったのは過ちを犯し重さを持ったからだとしている。

人類が重さから解放されて、限りなく光の方へ上昇することこそ、人類が幸福で輝かしい未来へ達する条件である。ゆえに、重力の支配を断ち切って大空高く悠然と舞う飛空船は、ユゴーにとって人類の進歩のこの上ない象徴になる。

物質は悪を宿す。従ってその重さの為に宙に浮かぶことはない。飛空船は悪そのものである物質で出来ている。本来は上昇することのない物質が科学技術(航空技術)によって重力の支配を断ち切り、天高く上昇するのである。これは奇跡そのものであった。

飛空船は人々を世界中のあらゆる所へ運び、諸民族の間の自由な交流を活発にする。相互理解と友情が増進されていく。やがて人類が一つにまとまり、戦争の無い世界共和国が誕生するというのがユゴーの考えであった。

ユゴーは20世紀に理想郷を描いていたのだろう。ところが現実の20世紀は戦争の世紀であった。航空機の技術は戦闘機による空中戦へと展開されていった。空からの爆弾の投下。極めつけは原爆の投下によって地上に地獄絵図を作り出してしまった。前世紀よりも遥かに多くの犠牲者を生み出してしまった。もしもユゴーがこの結果を知れば驚愕するだろう。


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以前の記事にも書いたが、昔からユゴーが大好きだった。あの力強く荒々しい言葉が大好きだった。他の作家にはない剛毅で直截的な表現が気に入っていた。

ユゴーは、多くの小説だけではなく多くの詩集も残している。その中で、万物について語っている箇所がある。彼の万物感、仏法で言うところの諸法実相であろう。

知るがいい、万物は自分の掟や、目的や、たどるべき道を心得ていることを、
星から虫けらに至るまで、広大無辺な宇宙は、お互いの言葉に耳を傾けていることを、
宇宙の万物はそれぞれ自分の心を持っていることを。
そして人間の耳には、そうした万物の生き方が手に取るように掴めるのだ。

なにしろ、事物と生物とは盛んに言葉を交わし合っているのだから。
万物が話をする、吹きすぎる風も、水面を進むアルキュオンも、
草の芽も、花も、種も、土も、水もが、
お前は今まで考えていたのか、宇宙がこういうものでは無いのだと?

いや、万物は声をあげ、香りを放っているのだ。
万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。
ある考えが込められているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには。
神は創ったざわめきに、すべて「言葉」を交えたのだ。

万物はうめく、お前のように、万物はうたう、私のように。
万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、
木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!

万物は魂に満ちているのだ。

だが、どのようにして?ああ!これこそ前代未聞の神秘。

ユゴーの考えによれば、万物は鉱物にいたるまで、それぞれ固有の魂を宿し持っている。

万物はその崇高さに応じて梯子のような階段を形作る。こうした万物の梯子は、闇の底から出て途切れることなく人間にまで、そして更には神の元にまで昇っていく。という垂直的な世界観を持っていた。

この世で最初の過ちが犯された時、その過ちは重さになり、それをきっかけに万物は落下を始めた。悪とはすなわち重さなのである。万物はその重さ、つまり悪の度合いに応じて空間の中に位置づけられ、闇に身をにひたした鉱物から出て、光に包まれた天上の神にまで昇っていく『存在の梯子』を形成するのである。
霊気は空気になり、空気は風になった
天使は精霊になり、精霊は人間になった
魂は落ちていった、宇宙の悪の数を増しながら
禽獣の中へ、樹木の中へ、さらにくだって
あの醜くて目の見えない、考える小石の中へまでも
このように、天使・精霊・人間・禽獣・樹木・小石へと悪の度合いを増しながら変化していく

ユゴーの万物感・宇宙観には、このようなグノーシス主義的な反宇宙的二元論が垣間見える。

そして生命は、上へ上へ、光の方へ昇っていくという真理が謳われている
いや、この生命はひるまず、見事に昇り続けて
目に見えぬ世界へ、そして重さを持たぬ世界へ入っていき
卑しい肉体をもったお前の目には見えなくなり、青空を満たすのだ
あの生命は、誰も到達したことのない空を横切って、あの世界へ入っていく
星をちりばめた梯子を、崇高な姿を見せながら昇り
物質という鎖につながれた悪魔達から、翼を持った魂の所まで行きつくのだ
そしてその生命は、卑しい存在の暗い額を崇高な存在の足の指に触れさせ
精霊である星を大天使である太陽に結び付け
広大無辺な空間を経巡りしながら
星座の群と青空の群をつなぎあわせる
そして、上に下に、周辺に中央に、被造物を満たして
ついには奥深い天空の高み、神の中に消えうせる!

しかし、大詩人の宇宙創造の概念は極めて難解で一言では説明できない。創造時に重さを持たなかったという意味は、いわゆる原罪のことを示唆しているのだろうか。梯子の上層ほど光の量が多くなり物質の量が減っていくことの意味とは、神に近づくことだろうか。安直な解釈はせずに何度も詠唱し考察を続けていきたい。



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法華経に説かれる登場人物で、最も中心的な菩薩は、神力品にて滅後の付嘱を受ける上行菩薩と(率いている)地涌の菩薩であり、実践(弘通)の上で最も重要なのは不軽菩薩であるのは明らかだろう。

仏教美術の人気のテーマは

仏法の北伝ルートでは、インドからシルクロードを通じて中国へ伝来し、やがて朝鮮半島へ、到来するのだが、それらの地域での仏教美術について着目してみたい。かつて、シルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市であった敦煌。その敦煌近郊に有名な莫高窟があるが、そこに描かれる壁画で一番多いのは観音菩薩と弥勒菩薩であったようだ。中でも観音菩薩が一番人気であったらしい。

残念ながら、地涌の菩薩と不軽菩薩は、法華経のストーリーを紹介する程度に僅かに描かれる程度であるらしい。同様に、中国や朝鮮半島でも、絵画や彫刻の作品のテーマになることは無かったようだ。

観音信仰が広がった理由

では何故、観音菩薩が人気であったか。それは観音菩薩の名前を唱える人は誰でも、交通事故や、種々の災害や、強盗や殺人などのあらゆる災難から守られると説かれている。或いは、男の子が欲しい人には男の子が、女の子が欲しい人には女の子が授かる願いを叶えてくれると説かれる。さらに、この菩薩の助けを求める人の為に、いつでもどこでも相手に応じて33種類の姿で現じて救出してくれると説かれているからだという。

この現世利益信仰に飛びついたのが、シルクロードの商人達であったり、中国の一般層や支配層であったのだ。

敦煌では、シルクロードを往来して貿易を営む商人達の発願で観音像が多数描かれた。旅の無事の祈りを込めたのだ。キャラバンが中国から西域を目指す時に、砂漠の中を通らなければならない。過酷な環境下で命を落とすリスクが高い。そこでは盗賊に襲われる危険もある。そのような時に、観音菩薩の名前を呼べば救われると観音品に説かれている。これぞ彼らの望んでいた現世利益なのだ。飛びつくのも無理からぬことだ。

中国では元来、祖先崇拝が盛んだった。強固な父系社会であり、祖先を敬うことは社会秩序の維持のためにも重要であったと考えられている。よって男子がいないと祖先崇拝が断たれて、自分が死んだ後にあの世で迷うしかない。だから、男の子を産まないものは、親不孝者と見なされた。このような慣習があるところに法華経・観音の教えが伝わった。観音の説く利益を聞いた人々は、何としても男の子に恵まれたいと藁にもすがる思いで飛びついた。こうして子宝信仰として広く普及していった。

このようにして観音菩薩は、アジア全域を通じて崇拝されるようになった。

受け身の信仰姿勢

観音品は、それを読誦する人に、観音菩薩によって救ってもらうという受け身の立場を取らせようとする。観音は私達にとって『何かをしてくれる菩薩』であるが、法華経で本来の理想とする菩薩は私達『自らが菩薩となって利他行に努める』ものであった。地涌の菩薩も不軽菩薩もそうである。

このように、北伝ルートの地域に住む大半の人々は、法華経が本当に伝えたかった事が理解できなかった。地涌の菩薩としての自覚と誇りを持ち、偉大なる妙法弘通を誓願する信徒では無かった。不軽菩薩のように、相手がどのような態度を取ろうと、相手に仏性があるのを信じ抜く。そのような不屈の精神を受け継ごうとする信徒は殆どいなかったのだろう。残念である。



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最近は宮沢賢治に関して再び考察を続けている。

賢治が熱心な日蓮仏法の信徒であったことは有名である。(この記事では国柱会という組織への評価は置いておく)

銀河鉄道の夜の、ジョバンニが持っていた切符、緑色の紙は、やはり御本尊の事を表現しているのだろう。作中では「それはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもので黙って見ていると何だかその中へ吸い込こまれてしまうような気がする」と表現されている。『此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり』(日女御前御返事)を想起させる。この切符のみが「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける」のである。友人を自分の命を投げうって救ったカンパネルラですら、持っていたのは小さな鼠色の切符であった。彼は途中で下車(消滅)してしまう。

(以下、随時追記)

有名な、彼の手帳の内容だが、手書きで文字曼荼羅を綴っている。しかも南無妙法蓮華経と釈迦・多宝・地涌の菩薩だけ。随分とシンプルな曼荼羅を書いたものだ。

彼は不軽菩薩を理想としていた。『雨にも負けず』は不軽菩薩の行い・精神そのものである。法華経の本質を感じ取ったのだろう。大聖人も不軽菩薩を重要視された。しかし、仏教一般的には不軽菩薩はそれほど注目されていなかった。

最愛の妹トシが死んだあと、彼は北海道を経由してサハリン(樺太)まで至る一人旅を敢行した。妹の魂が北に行くと信じ込んでいたようだ。このようなものは法華経・日蓮仏法には説かれていない。では国柱会の教義だろうか、或いは賢治独自の信仰感だろうか。



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(思索メモ段階)
以前に記事で書いて思索を続けているのだが、日蓮仏法・法華経は芸術の大いなる源泉である。

大白牛車御消息の中で、譬喩品の大白牛車について詳細に述べられておられる。(鳩摩羅什訳では省略されてるようだが。大聖人は梵語の原典を御覧になったようである)。この荘厳な情景を芸術で表現することは素晴らしい。既に絵画や壁画や彫刻で、様々な名作が存在している。「帝釈は諸の眷属を引きつれ給ひて千二百の音楽を奏し」と音楽のことも仰せである。音楽の分野でも積極的に表現すべきだろう。

有名な柴又・帝釈天の法華経説話彫刻は見事という他ない。欅の一枚板を彫り上げた、透かし彫り技法による彫刻は今にも飛び出してきそうな大迫力である。制作責任者の加藤寅之助は一枚の写真も肖像画も残さなかったらしいが、作品に全てを捧げ法華経の心を伝えたいという使命感であろうか。制作途中で関東大震災が起こり、胴羽目10枚のうち8枚の材料を消失してしまった。彫刻に使えるほどの巨大な欅を見つけるのに日本中を駆けずり回り7・8年もの歳月を要したらしい。制作者達10人は参道周辺に住み込み境内に建てた小屋で作業を行った。この作品に懸ける執念を感じる。この原図の法華経宝塔曼荼羅図は圧巻である。

残念に感じたのは、作品の一つ、多宝塔出現の図(見宝塔品第十一)を見て、何ともこじんまりした塔に見えてしまう所である。見宝塔品第十一では「高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり」と説かれる。これは、小さく見積もっても地球の直径の3分の1にも及ぶ大きさである。彫刻上でも、もっと多宝塔のサイズを大きく描いたほうが法華経のスケールの大きさを表現できたのではないか。

日蓮仏法を基調にした芸術といえば、長谷川等伯や狩野派があげられる。また琳派もその祖師を見れば日蓮宗との関係が密接とのことである。当時の京都は、商工業に携わる町衆を中心に法華信仰が広がっており『題目の巷』と称されるほどであった。光悦流の祖である本阿弥光悦が中心となって営んだ『光悦村』はまさに法華の芸術村であった。

技術の進化により、芸術分野において、コンピューター・グラフィックスも表現の対象になった。
最新のVR・AR技術を利用すれば、法華経の壮大なる会座をよりリアルに描けるのかもしれない。霊鷲山の会座など疑似体験できるのかもしれない。
絵画や彫刻や文学では表現できない要素も可能になる。


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(思索メモ段階、段階的に校正)
真の世界宗教は芸術分野にも浸透されなければならない。中世において花開いたルネサンス芸術はキリスト教をベースにしたものであるのは周知の通り。キリスト教が世界宗教たる証明であろう。

(仏法全体の芸術は数多くの歴史を持つ、法華経に依拠した芸術も数多い。が)

翻って日蓮仏法はどうだろうか。
宮沢賢治が日蓮仏法の信者であったことは有名である。彼は日蓮仏法を根本とした最高の文学者であることは今更言うまでもないが。

他の芸術分野ではどうだろうか。

現代社会が、軽薄で、刹那的で、衝動的で、AIが人間の性能を上回っている分野では『人間不要論』まで出てくる中、そのような思想が蔓延る今の世の中であればこそ、妙法の思想を根底とする芸術文化こそ求められてるのではないだろうか。

かつて池田名誉会長は対談『法華経の智慧』の中で、譬喩品に出てくる壮麗な大白牛車に関して「この大白牛車を描ききる妙法の画家が出て来てくれたら、私は本当に嬉しいと」言っていたが、創価からは、そのような芸術家は、未だ出てきていない。

文学・絵画・音楽・映画・ドラマ・ゲーム・エンターテイメント分野において
日蓮仏法を基調にした芸術が花開いて欲しいと願うが

熱原の三烈士達が弾圧に耐える姿などは、人間の信仰心がいかに強固であるかを描くのに最適ではないだろうか。

かつて創価は青年部の文化祭を行っていた。ダンスや合唱や組体操で信心の喜びを表現する。あれも日蓮仏法の表現手法の一つと言って良いだろう。残念ながら現在は文化祭は行われなくなったようだ。海外SGIでは文化祭は実施されているらしいが。

やれ「日顕宗が」、やれ「ニセ本尊が」、「極悪を徹底的に責めれば極善に通じる」
こんな不毛な創宗戦争でお互いに潰し合しを延々とやってるうちは
そのような芸術が花開くことはないのだろう。

教学そっちのけで、選挙活動や新聞推進ばかりに躍起にやっている人たちに
芸術の志など期待しても無駄なのだろうか。


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