創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 無量義経

無量義経が偽経でないことの続きである

まず否定派学者の主張
「翻訳者・曇摩伽陀耶舎 の伝記が不明で、翻訳された年月もその関係者の氏名も明らかでなく、その他に経典を翻訳したかどうかも不明である」
「当時海上から渡来した梵僧は皆宋斉の都金陵へ来ているのに、何故彼が広州に住まって京都まで来なかったか不審である」


『仏教経典総論』の南斉の訳経を参照すれば、翻訳者の詳細が記載されていないものもある。(国籍が不明であったり、訳経地が不詳だったり、翻訳年月や関係者が記載されてないものもある)
そして、この資料から当時は大半の経典が広州にて訳されていた事がわかる。

当時の経典の訳に携わった関係者は、仏法への信仰心が篤く、自らの名声を得ることよりも経典そのものが流布することを願っていた為に、名を残さないことは多々あることだった。現存の収録されている経典でも「訳者不明」というのはよく見られる。

(以下、少しずつ補足)



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

「無量義経は偽経ではない」の続き

無量義経を「中国撰述だ!偽経だ!」と主張する学者連中は『難癖レベル』の批判ばかりだが、その中では比較的マシな方を見てみる。経典の内容批判(他は略語がどうのこうの揚げ足取りが酷過ぎる)として代表的なものが『四善根』があげられる。聞き慣れない言葉であるが、四善根位とは、見道に入る直前の準備的修行段階の事である。これは、有部論書の初期から成立していたわけではなく、修行体系が形成される中で体系化されたものである。

学者(横超博士)の言い分

「仏教の法相を解せざる如き用語のあること。声門の内凡四喜根中、 忍法のみを除いて煖法・頂法・世間第一法といい、これを三法と名づけている。 何故に忍法を脱したのか領解に苦しむ。しかも三法・四果・二道を得ることを得法得果得道と称しているが、四善根に達するのを得法といい辟支仏道と仏道を得るのを得道という如きも、これまた穏当を欠く語法である。」

要するに、『四善根』に忍法だけ抜けてるのはおかしい、と主張してるのだ。

まず大前提として、無量義経はインドで撰述されたのである。

『四善根』は四諦を観ずる事に尽きると言える。その為、観察の位とも呼ばれている。また順決択分とも呼ばれている。

四善根は有部論書の初期から成立していたわけではなく、修行体系が形成される中で体系化されたものである。『倶舎論』では非常に整理された形になっている。これが有部の完成形であろう。一方で 『大毘婆沙論』では 、説く順序が異なっていたり、様々な説を含んでいたりする。有部の教理が整備されていくのに伴って、四善根も一つの教理として整備され確立していったものである事がわかる。

この『大毘婆沙論』は『発智論』に関する広大な注釈書である。つまり発智論が根本である。その発智論では忍位が説かれていない。また異訳の『八犍度論』でも同じく忍位が説かれていない。

つまり、無量義経がインドで撰述された時代に於いて、この発智論系の教学の影響を受けたと考えられる。或いは発智論との関係が無かったとしても、大毘婆沙論で指摘されるように、阿含経典にはもともと忍位が明らかに説かれていなかったのであるから、煖法・頂法・世間第一法とする教学を持つ人物が無量義経の撰述に関係があったことになる。

もしも無量義経が中国で撰述されたならば、まずは当時の中国でも有名な『阿毘曇心論』(大毘婆沙論の綱要書)を参考にするはずである。そこでは忍位も説かれている。それなのに、わざわざ忍位だけ省いて撰述する意図が見えないのである。よって、もともとのインド梵語の経典で忍位が説かれていなかったと考えるのが妥当だろう。

次に『得法得果得道』に関する論難(難癖)に反証していく。

ポイントは経文の以下の文である
(無量義経説法品第二)

或得煖法。頂法。世第一法。須陀洹果。斯陀含果。阿那含果。阿羅漢果。辟支仏道。発菩提心。登第一地。第二地。第三地。至第十地。

・・・各各別異。其法性者。亦復如是。洗除塵労。等無差別。三法四果。二道不一。

・・・善男子。以是義故。故知説同。而義別異。義異故。衆生解異。解異故。得法得果。得道亦異。

要するに、三法を四善根に達することであるとし、二道を得することを辟支仏道・仏道であると解釈するか否かである。

ちなみに、天台大師の法華文句によれば
三法とは声聞・縁覚・菩薩の三乗
四果とは阿羅漢・縁覚・菩薩・仏の果
二道とは漸・頓
と解釈されている

天台大師は三法を四善根に達する事とは解釈しておらず、さらに二道を得する事も辟支仏道・仏道とは解釈していない。

また三法を三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)、二道を仏道修行の行と学と解釈する人もいる。

(ここから長くなるので徐々に追加していく予定)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

無量義経が中国撰述で偽経であり、これは現代に於いて仏教学の定説だと言ってる連中がいる。その学者の主張を時間をかけて調査して検討してみた。その結果、明らかになったことは、学者の主張内容は一言でいえば『単なる難癖』レベルだったのである。経文の文体の言葉尻を捉えて難癖をつけてるに過ぎないのだ。

中国撰述説(主に萩原博士・横超博士)の主張を大雑把にまとめると以下のようになる
・用語文体に中国臭がする
・翻注が一様ではない。先に「阿若橋如若」とした人物を、
  次には「阿若拘隣」と訳している。
・翻訳者の曇摩伽陀耶舎の素性がわからない、この経だけしか名前が出てこない、
  だから胡散臭い
・慧表が70歳近くの高齢なのに嶺南に赴いているのは奇異に思われる
・四善根のうち、忍法だけが記載されておらず、
  また煖法頂法・世第一法を三法と名付けているのがおかしい。
・訳語に二様あること、つまり十地と十住とを混同されているのがおかしい
・四諦・十二因縁・六波羅蜜の修行を、三時に整然と配当されているからおかしい
  またその略を『諦縁度』と超短縮してるのがおかしい
・法華経や涅槃経と類似の語法が随所にみられるからおかしい

このように細かい箇所の揚げ足を取ったものを集めて「中国撰述だ!偽経だ!」と主張していて、もはや単なる難癖レベルという他ないのである。

明らかな『中国で撰述された証拠』があるのなら、まだわかるが、こんな難癖をつけて一つの経典を偽物と決めつける所業は極めて愚かと言う他ない。

そして、こんな陳腐な説を信じて「学者がいうから」「定説になっているから」「創価大学の菅野博史氏も認めてるから」と、自分自身で経典を精読して内容の批評もせずに鬼の首を取ったかのように法華経最勝を否定するコバンザメのような連中がいかに多い事か。仏法を学ぶものとして恥ずかしい姿であろう。

ちなみに、創価の方々には『永遠の師匠』戸田会長の『獄中の悟達』が無量義経から得られたものであることを思い出して欲しい。もしも無量義経が偽経典ならば、戸田会長は偽経から悟ったことになるのだ。このような学者の中国撰述説に何の反論もせずに黙っているだけでは情けない。

これら全てを一つの記事で書くと長文になる為に、以後は各記事でそれぞれの論点を整理してみたい。数が非常に多いので少しずつ紹介していきたい。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ