創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 大聖人の時代の特徴

(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

大聖人の御遊学に関して考察を続けている。

まずは御遊学を経済的・社会的に支えていたのは何であったのだろうか。第一に考えられるのが清澄寺であろう。当時の清澄寺は北条家の庇護下にあり、経済的にも裕福であった。遊学の費用をバックアップする余裕もあっただろう。清澄寺としても、優れた学僧を排出し保持することは寺院の箔をつける意味でも重要であっただろう。

次に領家の尼という存在。御書を拝すると領家の尼に対する記述がみられる。様々な支援をしていたと推察できる。


・16歳から立宗宣言の32歳までの間、御遊学の期間が16年という長い間であるが、

鎌倉遊学後には『戒体即身成仏義』を著述されている。21歳の時点での著述とされている。この中で、法然の浄土宗・念仏は無間地獄であると明確に破折されている。だが、清澄寺が天台密教が主流であった為か、慈覚・智証の法華・真言『理同事勝』の教学を受け継ぎ、第四段の真言の密教戒を最高位として位置付けられている。

この後、比叡山を始め各所に御遊学されることにより、『理同事勝』は誤りであり、法華経が最勝であることを覚られたと思われる。なお、30歳で京都にて、『五輪九字明秘密義釈』を書写されているが、これは東密の内容であり、(いずれ来るであろう台密・東密に対する破折)比較検討用の御研鑽の為に書写されたと思われる。

畿内御遊学の間は、様々な階層(公家や他宗の僧侶など)の相手と交流を深めたと推察される。文での交流もあっただろう。しかし現存する資料は残っていない。だからといって大聖人の彼等との交流がなかったと断定するのはナンセンスである。

また、大聖人は非常に裁判に精通されていた。領家の尼に対する力添え。訴訟事務に関してのエキスパートであるはずの富木常忍に指示するほどの知識を持たれていた。京畿の御遊学中に御成敗式目・裁判資料などの御研鑽を深められたと考えられる。

大聖人は比叡山にて、学頭南光坊俊範に師事され12年間の修行をされた。この御遊学の中で、比叡山延暦寺を『理想の戒壇のモデル』であり『理想の修行の場』との認識を強く持たれたのだろう。

32歳の立宗宣言までには、法華経の為に不惜身命の覚悟を決められたと推察される。「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに」内面の精神の格闘は壮絶なものであっただろう。



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よく「日蓮は教団運営に関して、さほど関心が無かった。各門下の自主性に任せていた」と指摘する連中がいるのだが、本当にそうだったのだろうか。考察してみた。

両人御中御書を見ると、亡くなった大進阿闍梨の住していた坊を譲り状の通りに取り壊し、鎌倉の日昭師の坊に(修理して広くするように)統合せよと指示されておられる。また、冬は火事が起こりやすく拠点が火災になってしまう懸念をされ、そうなっては物笑いの種であると仰せである。そうなる前に速やかに処理しなさいとの意味であろう。坊・つまり地域の拠点会館に対して、これほど細かい指示を出されているのである。門下任せにすることは無かったのである。

また、他の御書を見ても、四条金吾への頼基陳情、主君に出す彼の陳情(答弁書)も大聖人が自ら代筆されて送られた。或いは滝泉寺申状・伯耆殿等御返事を見ると、大聖人が裁判対策に対しても非常に細かい指示を直接出されてることがわかる。

特に熱原法難は、滝泉寺の日蓮仏法に帰依した信徒達への大弾圧である。富士地方は、日興上人が中心になって布教をしていた。富士地方の日蓮教団に対する大弾圧である。大聖人は、門下達任せにはせずに、御自身がこのような教団対応・裁判に対して直接指示されているのである。

そもそも身延に入山された、身延の位置を考察してみる。幕府権力との絶妙な距離を保っている位置である。(佐渡赦免後の情勢で)鎌倉に拠点を構えれば権力側を刺激しすぎる。もっと遠くに拠点を構えれば安全になったろうが、それでは門下達と疎遠になり細やかな指導が届きにくくなる。世間的には身延という一見山奥に隠居をしてるように見せつつ、実は鎌倉方面・富士方面・千葉方面への指示連絡も緊密に行える絶妙の位置に拠点を構えられたということがわかる。最初から計画的に身延を選定された経緯では無いが、結果的に身延は上記の理由に於いて適切な場所だと御判断されたのではないだろうか。

つまり大聖人は教団運営に関して非常に細かいところまで直接指示されておられたことがわかる。この点を見誤ってはならないだろう。


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創価には信仰心が純粋で人柄が良い会員が多い。組織の言うことを疑いも無く全て正しいと信じている。自らの組織の教義変更も省みずに『日顕宗』を批判してるのである。法華講にも純粋な方が多いのである。だから『ニセ本尊』を攻撃することが正しい破折だと信じているのである。顕正会も純粋なる方が多いが故に浅井氏の終末論に感応してしまう。それぞれが他組織を攻撃し自分の組織に引き込むことが広宣流布の正しい道だと信じているのである。

私が残念だと思うのは、一人一人は純粋で素晴らしい人達なのに組織が違うが故にこうも分断される現実である。これらは元々は大石寺系で同じ教義解釈なのだ。皆が大聖人を信奉し広宣流布を心から望んでいるのである。

この現状を見れば、大聖人がどれほど悲しまれておられる事だろう。

考察すればするほど、宗教組織というもの、『組織信仰』の弊害を感じざるを得ない。

原点である大聖人の時代に遡って考察をしてみると、大聖人の御入滅後を見てみると、後継の弟子達の法門解釈の違いにより分断された。あるものは天台沙門と言い、本迹一致と主張し、本尊は釈迦だと言ったり、解釈がそれぞれバラバラになってしまった。後継者の事や、(大御本尊の件も含め)御本尊配布の事や、御自身の仏法上の位置付けなどを大聖人がハッキリと明示されなかったから(時代背景に於いて明示できなかった理由があるのだろう。当時は政治と宗教が分離されてなかった背景もあったのだろう、御成敗式目に則った裁判も宗教的権威の影響が大だった等々)という理由もあるが、だからといって、こうもバラバラに分断されるとは悲しい限りである。

大聖人は、釈尊の仏法が末法に於いて混乱してる姿を誰よりも嘆いておられた。釈尊の正法である法華経を正しく掲げない宗教界を嘆いておられた。当時の(唯一の正法であるはずの)天台宗でさえ、叡山でも慧心流と檀那流に大別され、更に細かい流派が作られていた。剰え「摩訶止観は法華経より勝っている」(止観勝法華説)とまで言い出す輩も出てきた。そもそも真言密教化している。その現実を熟知されていた。であるならば、御自分の滅後に、同じように弟子達が法門の解釈で混乱する事を考えなかったのだろうか。

大聖人は法門に対して厳格であられた。「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし」と勝手な解釈を厳しく戒められている。弟子達がそれぞれ自由な解釈をしても許される、というものでは決して無い。


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以前からずっと考察し続けていたのだが、大聖人の高弟である六老僧で日郎師の存在が気になっていた。大聖人御在世の時には、大聖人が佐渡流罪の時に、日郎師も難にあって牢獄に放り込まれたが退転せずに耐え抜いたほど信心強盛であった。佐渡の大聖人から土牢御書という叱咤激励の御書を頂いている。土牢赦免後は、指導を求めに何度も佐渡の大聖人の元まで足を運んでいる。求道心も高かった。

大聖人の滅後には、あの兄弟抄で有名な池上宗仲も与力しているのである。それほど信頼を寄せていたのだろう。弟子の育成にも心血を注いだ。日郎師としての強い使命感があったのだろう。

これほどの信心強盛な弟子が、何故日興上人と団結できなかったのか。不思議である。

日興門流では(創価も含めて)、日郎師に関しては「大聖人の御心がわからなかった」の一言でバッサリ切り捨てているが、果たしてそれだけで良いのだろうか。

池上兄弟に関しては、兄弟抄が残っているので、我々の御書研鑽に欠かせない題材となっている。だが日郎師宛ての御書は殆ど残って無い。手紙としてよりも直接指導を受けた分が遥かに多いのだろう。それを文字にすると膨大な量になった事だろうが。残念ながら我々には御書として学ぶことは出来ない。

当然ながら、法門に関しては日興上人が厳格であり正しいと確信しているが、かといって弟子達が散り散りになってしまったのは残念である。袂を分かつ前に弟子達が一致団結する道は無かったのだろうか。この辺の資料が少ないので謎が多いが。

今後も考察を続けていきたい。


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大聖人の厳格な一面

念仏者・追放せしむ宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状
の中で
日蓮尩弱為りと雖も勅宣並に御下知の旨を守りて偏に南北明哲の賢懐を述ぶ猶此の義を棄置せらるるに非ずんば綸言徳政を故らる可きか将た御下知を仰せらるる可きか、称名念仏の行者又賞翫せらると雖も既に違勅の者なり関東の御勘気未だ御免許をも蒙らず何ぞ恣に関東の近住を企てんや、就中武蔵前司殿の御下知に至りては三代の将軍並に二位家の御沙汰に準じて御沙汰を改むること有る可からずと云云


謗法の専修念仏の連中に対して

・厳格に宣旨を履行すべきであると仰せである。
・処罰すべきであると仰せである
・念仏信徒を断罪処置された事に対して肯定しておられる。

また、念仏信徒どもが鎌倉に跋扈しているのは、宣旨・身教書の通りに取り締まりが履行されていないからであると断じておられる


この御文から伺える事は、大聖人は、権力によって邪法が弾圧されることは否定されてなかった。
その結果、衆生達(信徒や民衆)が
門葉等は遁るべきの術を失い或は山林に流浪し或は遠国に逃隠す、爾してより華夷・称名を抛ちて男女・正説に帰する者なり
と正法に帰する事になったことを安堵しておられる。

当時は、宗教は国家管理されていたのである。従って邪法は天皇・上皇や幕府が許可しないように図らわれるべき、とのお考えであった。

大聖人の願いは、
日蓮不肖なりと雖も且は天下の安寧を思うが為・且は仏法の繁昌を致さんが為に強ちに先賢の語を宣説し称名の行を停廃せんと欲し又愚懐の勘文を添え頗る邪人の慢幢を倒さんとす
と仰せの通りである。




一方、立正安国論の中で、
全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず
と仰せである。謗法の輩を斬罪にするのではなく、布施を止める事である。


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大聖人は、法華経守護の為の武力を否定されなかった。

又云く兵杖等云云、涅槃経に云く・天台云く・章安云く・妙楽云く 法華経守護の為の弓箭兵杖は 仏法の定れる法なり例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し(行敏訴状御会通)
この中で大聖人は、武器を所持していることを否定されてはいない。当時の鎌倉府内(政治の中心であっても)の治安状況は必ずしも良好ではなく、たとえ僧侶であっても自衛のために刀剣等を所持することは珍しくなかった。


檀徒が、蒙古襲来に備えて、九州へ防衛に従軍するときに、反対されていない。

単純な反戦主義者という括りではない。
創価のいう『絶対的平和主義』などという聞こえの良い抽象的なものではない。

勿論、戦争を賛美されているワケでは決してない。





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大聖人は身延の地がベストとは思われてなかった。身延は、四方を難所に囲まれて、非常に往来が不便である。また気候も非常に厳しい。冬は極寒のように冷え込む。
此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず 冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし(種種御振舞御書)
去年十一月より雪降り積て改年の正月・今に絶る事なし、庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし軒のつららは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上・雪深くして道塞がり問う人もなき処なれば現在に八寒地獄の業を身につぐのへり、生きながら仏には成らずして又寒苦鳥と申す鳥にも相似たり、頭は剃る事なければうづらの如し、衣は冰にとぢられて鴦鴛の羽を冰の結べるが如し(秋元御書)

身延に居を構えられた経緯

又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば 山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(報恩抄)
権力者との一定の距離を保つ。刺激させすぎない。
世間的には隠居の体を装う。
各地域の門下への距離が比較的に近い。実用的な範囲内。
門下達と短い日数で指導等のやりとりができる。

理想の戒壇のモデル

迹門の正当な総本山であった比叡山延暦寺。絶頂期の延暦寺を理想の戒壇とされた。それと比べれば身延はベストではないだろう。

現実即応

有力檀徒となった波木井氏の好意があるので、建てようと思えばすぐにでも建てる事は出来たのだが、実際には立派な堂を建てられなかった。三間四面ばかりの草庵で寝食を共に去れた。その修繕も門下達にやらせていたようだ。十間四面という立派な大坊が完成したのは最晩年の入滅される前年であった。このことからも、当初、身延は『仮の拠点』であることを認識されていたと推察する。

幕府の情勢によって柔軟に対応されたのだろう。仮に、平頼綱に代表される強硬派が失脚して、(大聖人に一定の理解がある)穏健派が実権を握ると大聖人の教団に対する締め付けも和らぐ可能性がある。そのような情勢になれば、もっとアクセスが良い景勝の地に本拠を移設することも想定されていたのではないか。

しかし、現実には平頼綱のような御内人が実権を握り続けた。大聖人は、腹の重い病気が続き、衰弱が進み、死期が近いと覚られた。どうやら自分の生きている間には、身延を出て立派な本拠地を構えて大々的な活動が出来そうにもない。そう諦めたのだろう。

弘安4年(1281年)10月前に波木井氏の推薦を受け入れ、身延の地に「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ」と仰せのような鎌倉の寺院に匹敵するほどの立派な大坊の建設が開始された。これは現実に『妥協』されたのではなかろうか。他の檀徒達からの布施もあった。例えば富木常忍は銭四貫文を供養している。門下達も待ち望んでいた大坊の建設であったのだろう。「銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」と称賛されている。『一閻浮提第一の法華堂』とまで仰せである。そして完成したこの大坊を、自ら『身延山妙法華院久遠寺』と命名されたという。これらの事から推察するに、ここを『本門の戒壇』の場所として認定されたのだろう。

しかし、そうなると三大秘法抄との整合性はどうなるか。弘安5年(1282年)4月の御作である。私の解釈だと、大聖人の理想が込められていると拝する。つまり、現実は身延の大坊が本門の戒壇であるが、いずれ条件が整った時に景勝の地に移設することも考慮されていたのだろう。それが遠い未来だったとしても。

国家の認定が必要

当時、一つの宗として認められる為には国家の認定が必要であった。現代のように信教の自由は保障されていない。幕府と朝廷から認められる必要があった。勅宣並に(関東)御教書を出して貰う必要があった。

大坊が完成した頃は、まだ許可が貰えてなかったと考えるのが自然である。故に、大聖人はその認可を貰うのを念願しておられたのだろう。

弘安4年(1281年)に大聖人は朝廷に対する諌暁を開始されている。もはや今の鎌倉幕府が大聖人の御意見を取り入れる可能性が実質的に無くなったという現実を直視されて、朝廷に対する働きかけを開始されたのである。当時、幕府と並ぶもう一つの宗教的権力であった。

三大秘法抄より

未来の門下達の為に、もっとアクセスが良く、景勝の地を『理想の戒壇』と構想されておられたと推察される。そこが理想上の『本門の戒壇』の場所にあたる。

勿論、身延の地も重要な修行の場である。「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」(南条殿御返事)と指導されておられる。



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大聖人の教団は、どこにも属さない独自の宗派を目指したのか
それとも天台の一宗派として、いわば「改革的な一派」としての存在を目指したのか。当時であれば、恵心流と檀那流が有名であるが、そのような一学派として。

どちらなのだろうか

大聖人滅後、日昭や日郎が、『天台沙門』と名乗っていることから、高僧達の間でも天台の一派であるという認識があったと推察できる。


大聖人の御入滅後、日郎師と日昭師。彼等は『天台沙門』と名乗り、幕府の要求する異国調伏の祈祷に参加した。

この二人は鎌倉を中心に教団の活動をしていた。従って、幕府からの圧力は相当なものだっただろう。幕府の弾圧を避けるための対応をしたのだった。これにより住坊の破却を免れた。

彼等を擁護するのは容易だ。「まだまだ脆弱な日蓮教団を後世に残す為に止むを得ない対応だった」等々。幾らでも理由は付けれる。

だからといって、天台沙門と名乗るのは果たしてどうか。かつて日蓮大聖人も天台沙門と名乗られたことはあったが、そこから佐渡以降は『本朝沙門』『扶桑沙門』と変化している。大聖人滅後に弟子達が天台沙門と名乗るのは逆行していないだろうか。

大聖人は常々、弟子達に「難を呼びよせよ」と叫ばれた。その御指導を忘れたのだろうか。弾圧を恐れて難を避けてどうするのだ。それが果たして大聖人の御心に適ったものであろうか。

佐渡から帰還された折に、鎌倉にて、平左衛門尉頼綱と対談された。そこで幕府側から「異国調伏の祈祷を行えば、鎌倉に僧坊を構えてやろう」との提示があったが、キッパリと断わられた。
「それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、たすからんとをもひしたうならば日本国の念仏者と禅と律僧等が頸を切つてゆいのはまにかくべし」
「真言師にいのらする程ならば、一年半年に此のくにせめらるべしと申しきかせて候いき」
殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべし
と仰せである。「真言や念仏を用いては国は救われない」。この時の大聖人の御心をよくよく思案すべきだ。真言師や念仏師の者達と一緒に、異国調伏の祈祷を行うなど断じて有り得ない行為などである。



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