創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 仏法一般

有名な仏教学者の中村博士は「仏教で説かれる『成仏』とは人格の完成である」と主張したが、それは仏教の一面のみで限定した見方であろう。

人格の練磨・完成が目的ならば、別に仏教だけが特別というわけでもない。古今東西の道徳教育でも充分達成できるだろう。人格を磨く事は何処だって出来る。家のお手伝いだろうが、アルバイトだろうが、ボランティア活動だろうが、人の為に役に立つ事をすれば人格は磨かれる。

しかし、これでは、仏教は『数多くの人格教育の一つ』に過ぎなくなってしまうではないか。わざわざ難解な仏教の教義を学んだ結果が、単なる道徳教育と同じ結果、と言ってるのである。

釈尊の時代から、単なる人格の練磨ごときに、わざわざ出家する必要があったのだろうか。人生をかけて出家して、それで得るものが単なる練磨された人格なのだ。

そんなはずは無いだろう。仏法を適当に『我見解釈』するのは止めて欲しいものだ。

中村氏は肝心な点を見逃してると言わざるを得ない。

中村氏の仏法見解を読めば、平等思想だの人格の練磨だの綺麗な言葉が並んでるが、それは仏法の一面に過ぎない。『三世の生命』と『因果具時の法則』と『相即円融三諦』こそ仏法の本義なのだ。これをスルーする中村見解など取るに足らない。そして、その弟子の植木氏の見解も同様である。所詮は大乗非仏説、つまり「釈尊の直説ではない」と思い込んでる連中の仏法への理解など、この程度に過ぎない。

植木氏は、法華経の平等思想を強調しているが、他の宗教との優位性はどうなのだろうか。キリスト教でも神の元の平等は説かれる。彼等の著作を読む限りでは法華経は「その他の平等を説く宗教」と同じレベルでしかないのだ。

人格がどうのこうの言ってる程度で、生と死の問題をどうやって解決できるのだろうか。末期癌など不治の病に侵され、死が間近に迫った人に何の効果があるのだろうか。何の役にも立たないだろう。だからこそ日蓮大聖人は即身成仏を説かれたのだ。「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せのように、死後の生命こそ仏法の最重要課題なのである。この観点なくして仏法研鑽は意味が無い。

中村氏や植木氏の見解など『自分の死後の生命』の解決に何の役にも立たない。



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八万法蔵と言われる仏教の経典の中で、法華経は諸経典の中で最勝である。このことは天台大師や大聖人が完璧に証明されたので、もはや我々のような末代の凡夫などが改めて言うまでもない事ではある。

しかしながら、かつて日蓮仏法を信じていた人が退転して、あろうことか法華経最勝を否定する発言をしているのだ。何事かと思い、その主張の内容を読んでみた。
(趣意はこうである)
法華経の開経とされている無量義経が今の学者の定説では中国撰述の偽経典であるとみなされている。だから天台の五時八教は否定される。すなわち法華経最勝が間違いである。すなわち日蓮の主張も否定される。
ざっと、このような主張なのである。

しかし、これでは余りにも思考が短絡的すぎないだろうか。そこで、彼らの主張に合わせて、無量義経からの引用を省いて法華経が最勝かどうかを検討してみたい。


法華経本文から最勝の証明

まずは法華経の本文から、重要文章を抜粋して、最勝であることを確認したい。

方便品

「正直に方便を捨てて但無上道を説く」法華経以外の以前の経典を全て「方便」と言い切った。これまでの方便の教えを捨て去り、無上道(最高の教え)を説いた。

薬草喩品

「久しく此の要を黙して務めて速かに説かず」(久默斯要不務速説)
釈尊の仏法の枢要は、急いで速やかに説くことはしなかったとの意であり、釈尊一代の説法の中でも後期に説かれたことがわかる。それより以前の説法では法華の名字を説かなかった。

法師品

「我が所説の諸経 而も此の経の中に於いて 法華最も第一なり(中略)我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」

有名な已今当の三説超過である。ここで、過去に既に説かれた経典から、現在、そして未来に説かれる経典まで含めて全ての経典の中で法華経が最第一であることが宣言されているのである。

他経典では、当分の第一として「この経が最も勝れている」という意味の経文は諸経のあちこちに示されていても過去・現在・未来の一切のなかで「最も勝れている」と宣言されるのは、法華経以外には無い。したがって「法華経こそが最も勝れた、最高の教法である」と証明されるのである。

見宝塔品

巨大な宝塔に乗って、多宝如来が出現し、宝塔の中から梵音声をもって、法華経は「皆是れ真実」であると証明した。法華経以外の他経典には多宝如来が来至して証明を加えた例はない。

また「我仏道を為て、無量の土に於て、始より今に至るまで、広く諸経を説く、而も其の中に於て、此の経第一なり」と、一切経の中で最勝であることが明言されている。

安楽行品

「此の法華経の能く衆生をして一切智に至らしめ、一切世間に怨多くして信じ難く、先に未だ説かざる所なるを而も今之を説く。文殊師利、此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり。」と難信であること、如来の第一の説法であること、最も甚深の法であること「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」と如来の秘密の法であることが明言されている。

諸仏の証明

十方の他仏(諸経典で説かれた諸仏)がやってきて広長舌相で真実と証明した。諸仏は長舌を梵天に付けて真実と示されたのである。(神力品)

阿弥陀仏も弥勒菩薩も法華経の説法に集ってきた。それまで他経で説かれていた仏が法華経の会座に一同に集い証明した。他経と法華経では、この点が全く異なる。例えば、阿弥陀経では東西南北上下の六方の各諸仏が、皆それぞれの国で三千世界を覆う広長舌を出して、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称賛したのだが、これに対し法華経では、十方の世界の諸仏達が直接、説法の場に集まって舌相を示した。釈迦一代聖教の中で、顕教にも密教にもまた一切の大乗経・小乗経の中にも釈迦仏と十方の諸仏が並び坐して梵天にまで至る広長舌を出したとの文は法華経以外には無い。


教義面から最勝の証明

教義の面でも他経典に無い優位性がある

十界互具・一念三千の法理

それまで他の経典では成仏が許されなかった二乗の成仏が許された。他の経典では二乗が成仏できないので、菩薩の四弘誓願も達成されない。よって成仏できない。ただ法華経のみが二乗の成仏が許された。また女人成仏・悪人成仏も説かれている。九界全ての成仏が許された。これにより、十界互具、一念三千の法理が確立された。

相即円融三諦

空・仮・中の三諦が円融である。この三諦が即空・即仮・即中の関係にあり、ただ中道に真実があるのみではなく、空も仮も真実であり、一は三に即し三は一に即して相即相入する。

久遠実成による仏の功徳の偉大さ

久遠実成の仏は三身常住(法身・報身・応身)である。五百塵点劫に成道してから以来、常説法教化している仏である。他経は始成正覚の立場を取るので報身・応身が劣るのである。

娑婆世界こそが本国土

「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化」(如来寿量品)から、我々の住んでいる娑婆世界こそが釈尊の常住する国土であることを明かしている。悟ってからも常に娑婆世界で法を説き、衆生を救い続ける仏である。諸経典の仏は、悟ったあとに現実世界から去って、もう現れなかったり、全くの別世界に安住する仏である。


総括すると

以上、整理してみたが、このように、無量義経から引用しなくても、法華経と涅槃経の内容のみでも拝読すれば、法華経最勝が明確に導き出されるのである。

無量義経を偽経典と主張してる人は、「四十余年未顕真実」を否定した瞬間に、法華経最勝が覆るとでも思ってるらしいが、そんなものは何の説得力もない短絡的な思考である事がわかるだろう。直ちに猛省して撤回すべきだろう。(なお無量義経の偽経典説に関しては、いずれ別記事にまとめる予定)


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大乗非仏説が定説になったかのように喧伝してる人達がいるが、そんなものは一学説に過ぎない。

そもそも釈迦の直筆など存在しないのだから、その意味では全てが「非仏説」なのである。そんな事を言い出すと初期仏典すら釈尊が説いたものかどうかの証明など不可能なのだ。その点では、スッタニパータや原始仏典も含めて、すべての仏典で釈尊の直説であると証明できるものは存在しない。

釈尊の何が尊敬され続けているのか

釈迦が原始仏教・いわゆる小乗の教えしか説かなかったならば、一体何のために釈迦は世に出たというのか。当時のバラモン教よりは優れているだろうが、大乗経のように極めて革命的な内容でも無いだろう。救われる対象も極めて限定的である。そんな人が説いた教えが長期の年月を経てもなお尊敬され続けるものだろうか。

仏教界には各時代に於いて『途轍もない巨人』が誕生している。龍樹・世親・天台・伝教・日蓮といった人達である。一人の人間があれだけ膨大な理論体系を残し偉大な仕事を成し遂げたのだ。しからば仏法の原点である釈尊という人も途轍もないスケールの人間だったと想像ができるだろう。革命的な説法をしたと考えるのが自然だろう。

口伝の偉大さ

現代人は、インドの口伝というものを軽視しすぎる傾向にある。インドでは古来より、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字として残さないという伝統があったのだ。インドでは何百年、或いはそれ以上の時間を経て醸成される口伝など普通である。例えば、中国の法顕という僧侶は、5世紀頃にインドに入ったが、仏典を専ら暗唱で伝えていた、と著書で記している。

別の観点より、口伝の偉大さを考察してみる。キルギスに伝わる民族叙事詩である『マナス』は、口承された数十万行にも及ぶ壮大な民族叙事詩である。古代インドの『マハーバーラタ』などよりもはるかに長い歴史を持つ。大海洋の如き口承叙事詩が口頭で、世代から世代へ、一つの時代から次の時代へと伝えられたのである。時には、サヤクバイ・カララーエフのように、膨大な何百万行にもわたるマナスを記憶している類まれなる詩人が現れている。

釈尊の説法を整理編纂するのは至難の業

第一回の仏典編纂で、長老部が理解できて整理しやすかった内容のみ編纂されたと考えるのが妥当である。理解できず整理できなかった難解な教えは次回以降の編纂に「宿題」として残された。その100年後の第二回の阿含部が中心の編纂と合わせて原始仏教と呼ばれているが、それでさえ説法の内容を口伝で整理するのに100年後まで待たねばならなかったことを考えると、釈尊の膨大で深い説法を簡単に整理編纂できるものではないことが窺える。いわんや大乗経典の難解な説法はさらに時間を要したであろう事は言うまでもない。

釈尊の弟子の中には、初期の仏典編纂に参加できず、地方で独自の活動を展開していた人も相当数いたようである。要するに、大乗は別のルートで口伝で醸成されたと考えられる。

小乗経も数百年を経て編纂されたものがある。つまり長期間の口伝である。

誰が説いたか証明が必須

大乗経を釈尊が説いていないのなら「では一体誰が説いた」と主張するのだろうか。あれだけの膨大な諸経典があり、互いに関連する内容も多いのに、「それぞれ別々の誰か(謎の人)が説いた」と主張するつもりなのだろうか。無理がありすぎるだろう。

要するに、学者連中が自分の理解できる事だけを主張したのが大乗非仏説の正体なのである。

「唯佛与佛」の難解な法門

大乗なかんづく法華経は「唯佛与佛」と書かれる通り、学者の頭では理解できない内容である。それだけ難解な法門を遥かな年月をかけて口伝で醸成されていったと考えるのが自然だろう。釈尊は核心部分を説いたと考えるのが妥当である。

安易で恥ずべき姿勢

そして、こんな陳腐な説を信じ切って「釈迦は大乗を説いていない」だの「定説だから」だのと主張する人達は軽率過ぎやしないか。せめて自分で大乗経典全てを網羅して、諸経典の内容の浅深の整理をしてから判断すべきだろう。それすらせずに「学者が言うから」「正しい教えなどない」という安易な姿勢は仏法を学ぶものとして恥ずかしい姿勢である。


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大乗非仏説。大昔からある説であるが、残念なのは日蓮仏法を学んだ人でも、この説を支持する人がいることである。大乗や法華経は、その後の弟子達によって創作されたとの説である。だから「仏教の思想は弟子達によって紡いでいくもの」「弟子達の方が偉い」という解釈をするのだ。

釈尊が長期間尊敬され続ける理由

もし仮に、釈尊が大乗を法華経を説いてないのならば、小乗しか説いていないのならば、釈尊の説いた法は一部の二乗しか成仏が約束されないことになる。女性も成仏が許されない。つまり釈尊はただの差別主義者ということになる。そんな人が死後も長い間にわたって幅広い階層の人々から尊敬され続けるだろうか?

「核の部分」は直説

釈尊の願い、それは人間の救済である。悟ったものは無始無終の仏界(久遠実成)だろう。人間の一瞬の一念に宿る命の性質(一念三千)。諸法実相。地涌の菩薩への付属(菩薩行こそが仏の活動そのものである)。空の概念だけでは部分観であり、空仮中の三諦が円融でなければ実在の人間を捉えることは出来ない。釈尊は、このような「法華経の核の部分」を必ず説いているはずである。

口伝の重み

当時のインドは重要な事は口伝で語り継がれる伝統があった。釈尊の教えと行いが至高であったからこそ、後世まで伝えられたのだろう。法華経の細部の説話などは後の編纂者達が付け加えたのだろうが、だからと言って原点である釈尊の価値は不変であろう。


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薬草のサンスクリット原典

また、六十二種の[誤った]見解がなされることも、[それと同じように]みなされるべきである。[あらゆるものごとが]空であること(空性)、自性のないこと(無相)、欲望を離れていること(無願)、[煩悩の炎が]吹き消されていること(涅槃)に至る[四つの]門は、あたかも四種類の薬草のように、そのように見なされるべきである。[以上の]ものが用いられれば用いられるほど、諸病は平癒するのである、と[いう]。

このように、空であること、自性のないこと、欲望を離れていることという[三つの解脱]への入口を修行してから、衆生たちは無知(無明)を滅するのである。無知を滅することによって、[実際には存在しないものを、あるかのごとく]作り出す心の働きの滅尽があるのだ。このようにして、この苦しみのみの大きな塊りの滅尽までもがあるのだ。そして、このようにして、この人の心は、善にも、悪にもとどまることがないのである。

あたかも盲目の人が視力を回復するように、そのように声聞と独覚の乗り物に属するものは見なされるべきである。[その人は]生存領域の循環(輪廻)と煩悩の束縛を断ち切るのであり、煩悩の束縛から逃れて、三界に属する六種の生存領域(六道)から解放されるのである。



スッタニパータ
第3 大きな章 12.二種の観察

  「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。


十二因縁の『還滅の縁起』と同じような

現代人は、インドの口伝というものを軽視しすぎる傾向にある。

しかし、仏教を学ぶのならば、当時のインド人の思想哲学を本当に理解しようとすれば、もっと口伝を尊重しなければならない。

インドでは古来より、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字として残さないという伝統があったのだ。インド人は聖典を「あえて文字に残さなかった」のである。

インドでは何百年、或いはそれ以上の時間を経て醸成される口伝など普通である。例えば、中国の法顕という僧侶は、5世紀頃にインドに入ったが、仏典を専ら暗唱で伝えていた、と著書で記している。





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