創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 仏法一般

随分と前から法華経の安楽行品に関して思索を続けている。この安楽行品の解釈、或いはこの品自体に関しての疑問がどうしても解決しないのである。様々な角度から検証しているが、考えがまとまらず自分の中で消化しきれていない。

安楽行品の概要

安楽行品の内容は、この章の冒頭で、文殊師利菩薩が釈尊に対して「世尊滅後の悪世に於いて、菩薩達はこの法門をどのようにして説き明かすべきでしょうか」との問いを発する。それに対しての釈尊の回答が、『四つの在り方(四法)』いわゆる身・口・意・誓願の『四安楽行』と呼ばれる修行法である。当品はこの四安楽行を中心に説かれている。

身安楽行の「適切な交際範囲」とは

第一の法(『身安楽行』)が説かれている内容で、これには『行処』という菩薩が善い行いをする為にどのように振る舞うべきかという具体的な訓戒が説かれている部分と、もう一つは『親近処』という菩薩にとっての適切な交際範囲が説かれている。

この親近処について、対象として(社会で蔑まれている)旃陀羅、豚肉を売るもの、鶏肉を売るもの、猟師、屠殺者、役者と舞踊家、棒術家、力士達に近づくべきではない、親しくなるべきではない、と説かれている。このように、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して避けるように警告しているのだ。

ここで「近づいて親しくなってはいけない」というのは「一切相手にするな」ということではなく、自分から個人的に近づいてはならない、という意味合いのようだ。教えを説くなとは言っておらず、誰でも法を求めてやってくる人には、分け隔てなく教えを説きなさい。というのが法華経の精神である。

そうであっても、法華経の経典に、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して記述することには強い違和感を覚える。経典にこのような記述があれば、誰も近づこうとしないだろう。避けるようになるのが自然だろう。

法華経は一切衆生に仏性を認めており、本来そこには人種や職業やカーストによる差別などないはずだ。社会に於いて一番下層で蔑まれている人でも、ブッダになれると説かれている。しかしながら、上記の旃陀羅や個別の職業に関する記述がある事によって、法華経の平等の精神を誤解させてしまう可能性があるのではないか。

法華経とは関係なく独立したものか?

この安楽行品に関して、仏教学者の植木氏は著書の中で、
この安楽行品は、いろいろ検討してみると、法華経とは関係なく独立して作られたものと考えるしかない。一般社会から非難されないように、修行の戒律をまとめたもの、という性格が強い。安楽行品には、律の規則と同様、世間的を気にする教団の論理が見え見えなのです。」
という見解を示している。当時、この品を編纂した人達は修行僧達で、彼らが所属していた教団の戒律要素を次々に入れたという見解なのだ。そもそもこの品自体が法華経成立とは別に作られたものだと結論付けている。

その根拠の一つとして、この前品である勧持品からの流れの違和感にも触れている。前後のつながりがおかしいとの指摘だ。

勧持品から安楽行品のつながり

ここで法華経のストーリーを確認してみると、勧持品では、出家者達が最も厳しい娑婆世界を避けた上で「釈尊滅後に、娑婆世界以外で布教します」と誓願する。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して一段の覚悟を促す。その視線に気付いた菩薩達は獅子吼で応えて、最後の偈において不惜身命の覚悟で滅後の布教を誓う。彼らは、ありとあらゆる(三類の)増上慢の輩たち(国王・大臣・婆羅門・居士・及び余の比丘衆)からの種々の迫害(数数見擯出、罵詈毀辱、刀杖を加うる)を予期しており覚悟を決めている。このように菩薩達の決意が最高潮に達した所で勧持品は終了する。

ところが、その次の安楽行品になると「釈尊滅後の悪世に於いてこの法門をどのように説き明かすべきか」という問いに対して、釈尊の回答が四安楽行なのである。その中の身安楽行では自ら交際範囲を制限するように警告している。どうも前品に比べて一気にトーンダウンしたように感じてしまう。

更に、第二の法(口安楽行)では、打撃を受けることもなく、非難の言葉を受けることもない、追放される(擯出)こともない、つまり迫害されることが無いことが説かれている。加えて、第四の法(誓願安楽行)を具えた菩薩は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・国王・王子・大臣・人民・婆羅門・居士たちによって、称賛され、尊重され、尊敬され、供養されるとある。これらの箇所には勧持品とは全く逆のことが説かれているのだ。

このように見てみると、確かに勧持品と安楽行品とのつながりには違和感を覚える。

勧持品から従地涌出品の方が

ストーリーの流れを考えれば、勧持品の次は従地涌出品に進んだ方が自然に思える。勧持品の中で、釈尊滅後の娑婆世界に於ける布教がどれほど困難であるか最大限に強調された。それを担う本命中の本命(上行菩薩が率いる)地涌の菩薩がいよいよ登場する。

安楽行品の価値は

ただし、『四安楽行』自体は極めて真っ当な内容であり、仏法者として重要な姿勢が説かれている。これらが間違っているとは思わない。法華経の精神に反するものではない。更に『髻中明珠の喩え』の段では法華経最勝が説かれている記述がある。これは極めて重要な箇所である。従って、当該品が全て「法華経とは関係なく独立して作られた」ものとは思えない。

私が違和感を覚えているのは、上記の通り「適切な交際範囲」での個別職業と特定カースト層の記述部分と、当該品が配置されている順番である。順番に関しては、この安楽行品は勧持品の前に置くべきだった。

正宗分で重要な品なのに

仮に、観世音菩薩普門品・妙音菩薩品・普賢菩薩勧発品・妙荘厳王本事品・陀羅尼品・薬王菩薩本事品の6品が、後世の挿入であったとしても。これらの品は流通分と位置付けられており、中核部分ではない。

しかし、この安楽行品は、法華経のストーリーに於いて本筋中の本筋の品である。それが「法華経とは関係なく独立して作られたもの」だとしたら、根底から揺らいでしまうではないか。上記の流通分6品とは重みが違うのだ。

大聖人が、種種御振舞御書などで、諸天善神へ諌暁された重要な依拠となる品である。当該品の中で「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」「天の諸の童子、以つて給仕を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と諸天が法華経の行者を守護することを誓っているのである。

この経典の裏付けが無くなってしまうのだ。

「摂受」を説いている品

大聖人はこの安楽行品を『摂受』を説いている品と位置付けられた。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし」(開目抄)と仰せの通りである。同じく開目抄で「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし」との見解を示されている。また、摩訶止観や弘決を引用され、仏説には二種類あり、一切の経論は摂受・折伏の二つを出ることはないとの見解を示されている。これらの御文から、大聖人は当該品に対する違和感は無かったと推察される。

大聖人は、当該品を摂受を代表する品であると重要視された。それを思うと「法華経とは関係なく独立して作られたもの」という見解を簡単に受け入れるわけにはいかない。結論を軽々に下すのではなく、今後も慎重に考察を進めていきたい。



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法華経の嘱累品は、菩薩達に相対的に付嘱されている為に、『総付嘱』と呼ばれている。
この嘱累品の考察をずっと続けているが、私にとって解釈が非常に難しい品である。幾つかの疑問点・重要な個所を挙げてみる。

なお、サンスクリット語原典のテキストには、植木訳を用いる。岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは適切ではない。

釈尊が頭をなでる行為

鳩摩羅什訳には
爾時釈迦牟尼仏。従法座起。現大神力。以右手摩。無量菩薩摩訶薩頂。

爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて
とあり、釈尊が無量の菩薩達の頭をなでている記述がある。これを三回繰り返すのである。これを『三摩の付嘱』と呼び、天台宗、日蓮仏法では重要な意味を持たせている。

ところが、サンスクリット語原典には、
(釈迦牟尼)如来は、その法座から立ち上がって、それらのすべての菩薩達を一まとまりに集合させ、神通の顕現によって完成された右の掌で、[それらの菩薩達の]右手をとって
とあり、「(一つの)右の掌で無数の菩薩達の右手をとった」と記述されている。ここに「頭を撫でる」という表現はない。

この違いは何なのだろうか。何故、鳩摩羅什は頭を撫でるという翻訳をしたのだろうか。

何を付嘱されたのか

サンスクリット語原典にはこう記述されている。
「良家の息子(善男子)達よ、幾百・千・コーティ・ナユタもの数えきれない劫をかけて達成したこの上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を、私は、あなたたちの手に託し、付嘱し、委ね、委嘱しよう。
良家の息子達よ、[その覚りが]広く普及し、流布するように、そのようにあなたたちはなすべきである」
この上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)が対象として記述されている。
では、これは法華経そのものを付嘱したという解釈でよいのだろうか。
(なお、ここで良家の息子(善男子)達よ、と呼び掛けているが、目上の人(如来)が菩薩に対して、このような呼び方をする事は許される。従って、対象は菩薩達である)

一方、神力品では次のように明記されている。
シャーキャムニ(釈迦牟尼)という名前の正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来がおられる。その[如来]は今、広大なる菩薩のための教えで、すべてのブッダが把握している”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”(妙法蓮華)という名前の法門である経の極致を、偉大な人である菩薩のために説き示しておられるのだ。
あなたたちは、その[法門]を高潔な心をもって喜んで受け入れるがよい。
付嘱の内容は間違いなく『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』(妙法蓮華経)であることが判断できる。

ところが嘱累品では、神力品のように明記されていない。故に、解釈が難しい。

仮に、嘱累品でも妙法蓮華経が付嘱されたとすれば

つまり、神力品と嘱累品は全く同じ法門が付嘱された事になる。

ここで法華経のストーリーを確認してみたい。法師品以降は、釈尊滅後の弘通がメインテーマとなってくる。従地涌出品で、迹化の菩薩や他方の菩薩達は、釈尊滅後の娑婆世界での布教を誓願するのだが、それを釈尊は「止みね善男子」「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止して、
「所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
と地涌の菩薩達を呼び出す。そして神力品で(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達に法華経の付嘱を行う。いわば本命中の本命にバトンタッチを行ったのだ。ここまでのストーリー展開は無理がなく納得が出来る。

ところが、この後で、同じ法門を、迹化の菩薩や他方の菩薩達に付嘱する理由がわからない。今までの流れは一体なんだったのだ。という疑問が湧いてくる。

神力品での付嘱で虚空会の儀式は終わり、散会すれば良かったのではないだろうか。

何も託さないというのも

ただし、何も託さないというのも可哀想だろう。これまでのストーリー展開を振り返れば、釈尊は滅後の布教の覚悟を促している。勧持品では、出家者達が「娑婆世界以外を布教します」と最も厳しい娑婆世界を避けた上での弘通を誓う。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して更なる覚悟を促している。そのような経緯があって、菩薩達はついに決意し、従地涌出品の冒頭で娑婆世界での布教を誓願するのだった。

ここまでの覚悟を促したのだから、何らかの役割を託すのが妥当ではある。彼らには、(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達のサポートとしての役割を与えれば、一番スッキリとした展開になったと思われる。

巧みなる方便

別の観点として、巧みなる方便という記述から考察してみたい
良家の息子たちよ、私は大施主である。良家の息子たちよ、あなたたちも、嫉妬することなくまさに私から学ぶべきである。[あなたたちは]この如来の知見と卓越した巧みなる方便に達して、[この如来の知見と卓越した巧みなる方便を求めて]やってきた良家の息子(善男子)たちや、良家の娘(善女人)たちにこの法門を聞かせるべきである。
これを読むと、「嘱累品で付嘱された法門は、巧みなる方便によって弘通しなさい」という解釈も出来る。

しかし、そもそも方便品に於いて「今まで衆生を教化する為に、様々な方便を用いて化導してきたが、如来が本当に説きたかったのは『一仏乗』なのだ」と釈尊は明かされた。当然ながら、これ以降は方便を用いる必要が無いはずである。それなのに、嘱累品で、菩薩達に対して「再び方便を積極的に用いて布教をしていきなさい」というのは強い違和感がある。

ただし、現実に法華経を布教をする上で、様々な譬え(比喩)を用いるのは有り得ることだろう。そのような意味で『巧みなる方便』という記述を解釈することも出来る。つまり嘱累品の付嘱では、布教の具体的な実践方法まで踏み込んで表現されていた事になる。

総括すると

このように嘱累品は解釈が非常に難しい。現時点ではこのような見解を持っているが、見落としている部分があるのかも知れない。結論を軽々に下すのではなく、今後も考察を続けていきたい。


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法華経の如来神力品は結要付嘱と呼ばれている。釈尊が法華経の肝要をまとめて、それを付嘱するという極めて重要な品である。では一体、誰に付嘱したのか。意地の悪い輩は「上行菩薩だけに付嘱したという記述箇所は存在しない」などと難癖をつけてくる。そのようなものに惑わされない為にも、サンスクリット原典から正確に読み取る必要があるだろう。

以前の記事でも指摘したが、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは疑問である。従って植木訳を参考に検討する。

すると、その時、世尊は、先ほどの[大地の裂け目から出現した菩薩の]群衆を従え、 大群衆を率いた群衆の師である それらの[四人]の偉大な人である菩薩達のうち、群衆を従え、大群衆を率いた群衆の師であり、 偉大な人である菩薩の ”卓越した善行をなすもの”(上行)という名前の一人の指導者に向かって仰られた。

”卓越した善行をなすもの”(上行)よ、素晴らしい事である。素晴らしい事である。 この法門のために、あなた達は、そのようになすがよい。 如来は、[既に]あなた達を完成させられているのである。
ここで
如来は[既に]あなた達を完成させられているのである
という文言に着目すると、
「如来(直々の化導)によって完成させられている菩薩」ということは、

従地涌出品にて
今、大地の裂け目から出現したところの[菩薩]たち、アジタよ、これらのすべての偉大な人である菩薩たちは、[私が]このサハー(娑婆)世界において、この上なく正しく完全な覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を完全に覚って後、私がこの上なく正しく完全な覚りに向けて鼓舞し、励まし、喜ばせ、成熟させたものたちである。

また、この菩薩のための法において、私はこれらの良家の息子たちを成熟させ、確立させ、導き入れ、確定させ、悟入させ、完全に覚らせ、完全に清らかにしたのである。
とある通り、これは釈尊が自ら、遥か久遠の昔から教化してきた菩薩、つまり地涌の菩薩達のことを指すのは自明の理であろう。

当然ながら、ここには迹化の菩薩や他土(他方)の菩薩は含まれていない。これらの菩薩達は「既に完成させられている」存在では無いからだ。

従って、その対象は、上行菩薩、及び、率いている無数の地涌の菩薩達ということになる。更に「あなた達は」と複数形で呼びかけているので、(上行菩薩と、率いている)地涌の菩薩達が付嘱の対象になると解釈するのが妥当である。


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仏法はアナッタン(パーリ語・anattā)、アナートマン(梵語・अनात्मन・anātman)を説いたとされる。中国に伝来したとき、これを無我すなわち我が無いと翻訳された。このため仏法は自己を否定するものという誤解が生じてしまった。ところが原始仏典には「自己を求めよ」「自己を護れ」「自己を愛せよ」などと積極的に「自己の実現」「自己の完成」を説いていて『無我』という表現は見当たらない。

「我」も「自己」もアッタン(パーリ語・attan)又はアートマン(梵語・आत्मन्・Ātman)と言う。これに否定を意味する接頭辞anを付与したのがアナッタン・アナートマンになる。つまり『無我』ではなく『非我』(何かが我なのではない)と訳されるべきなのだ。何か実体的なものを自己として想定し、それに執着することを戒めた言葉なのだ。

何かに執着し、何かにとらわれた自己にではなく、『法(梵語・धर्म・dhárma)に則って生きる自己』に目覚めさせようとしたのが仏法であった。


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(仏法発祥の地)インドの仏法には元来、草木成仏という概念が無かったらしい。では「草木成仏は、釈尊の説法に依拠しているのか否か」を考察してみたい。

涅槃経に説かれる『一切衆生悉有仏性』の意味するところは、「あらゆる生き物には仏性があり、仏になる可能性を具えている」ということである。ここで、『一切衆生』というのは『生きとし生けるもの』を意味しており、その中には草木瓦礫は含まれないようである。草や木はインドでは、瓦礫や壁・土塊と同様に感覚がないものとされていた(鳩摩羅什は知がないと訳している)『知』もなく『感覚』もない草木に成仏は無理な事だとされてきた。

更に文法的に詳細に見ていきたい。サンスクリット語で『生きとし生けるもの』を意味するサットバ(sattva・सत्त्व)を鳩摩羅什は衆生と漢訳したが、玄奘は草木瓦礫などの非情と対立させて有情と訳した。これは草木に精神がないとするインドの考え方を反映した訳である。なお、非情に該当するサンスクリット語は見当たらないようである。

仏法が中国に伝わり、天台宗で『草木国土悉皆成仏』という思想が起こってきた。天台大師は法華経の法理を、一念三千として体系化した。この一念三千の法理こそ、有情・非情を含めて三千の諸法が一念に収まることを明らかにしたものである。摩訶止観にて「一色一香も中道に非ざること無し」と説いている。妙楽大師はそれを更に明確に表現された。止観輔行伝弘決で「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」と無情の色香等にも仏性がそなわっているという草木成仏の義を述べている。金剛錍論では「一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果ありて、縁了を具足せり」とあり、草木にも仏性があると、明確に述べている。止観輔行伝弘決には身、事理、土、真俗、因果等の十義に約して根拠を挙げている。

であるならば、大聖人の御図顕された御本尊、言うまでも無く『非情』である紙に認められた文字曼荼羅、草木成仏は何に依拠しているのだろうか。日々考察を続けている。勿論、草木成仏口決や木絵二像開眼之事などの関連御書は数えきれないほど繰り返し拝読した。

仏法発祥の地インドに於いて、草木成仏の概念が無かったとするならば、釈尊の説いた仏法には草木成仏が説かれなかった事になる。では草木成仏の法理は『天台宗の独自教義』として考えるべきなのだろうか。或いは、インドの仏法にも草木成仏の概念が存在している可能性を模索すべきだろうか。

ではインドに於いて仏像を崇拝の対象としていた事はどう解釈すべきだろうか。或いは、仏舎利(釈尊の遺骨)を崇拝していたのはどうだろうか。これらは、仏像や仏舎利に仏性があるのを信じていたのでは無かったのだろうか。

これは私にとって非常に難しいテーマであるので、結論を軽々に下すのではなく、今後も研鑽を進めて考察し続けていきたい。


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植木氏によると、法華経のタイトルである、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra)を正しく訳すと『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』になるようだ。

今まで、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の蓮華とは『如蓮華在水』で菩薩のあり方を象徴しているという解釈がなされてきたが、これは明らかに間違いとのこと。

インドで蓮は最もめでたい花とされており、法華経には青睡蓮・紅蓮華・白睡蓮・白蓮華という四種類の花が出てくるが、白蓮華は必ず最後にくる。白蓮華は純白なので、蓮華の中で最勝とみなされている。正しい教えと白蓮華は、最も優れているという点で共通している。

ちなみに岩本氏は、法華経のタイトルを、欧米流の訳し方に倣って、同格の『の』によって『正しい教えの白蓮』と訳すべきだと主張していたが、それはサンスクリット文法、英文法、国文法のいずれに照らしても間違いであるとのこと。

漢語では、薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)と当てられ、鳩摩羅什はこれを『妙法蓮華経』と翻訳した。羅什は白蓮華に込められた『最も勝れた』という比喩的意味を充分に汲み取って訳しているのである。


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植木訳を手掛かりに、法華経研鑽を進めているが、植木氏の解説を読めば読むほど、岩本訳の曖昧さが目立ってくる。文法上で不正確な訳が多い。そのような個所が数多く指摘されている。その中には意味合いが大きく違ってくるものもある。

例えば、信解品で「また、自身の栄耀栄華を息子が疎んじていることを知っていましたし、」と訳されているが、『息子が疎んじていること』などサンスクリット語の原文にはどこにも記載されていない。

或いは、「お前は、[この財産の]すべてを完全に知るべきである」と訳すべき文章が、岩本訳では、「おまえはこのすべてを受け取ってもらいたい」となっている。原文には『受け取る』などといった意味は無いし、この段階で「(財産を)受け取ってもらいたい」と、長者(資産家)が発言するのは早すぎる。この段階では、財産の全てについて知悉するように言っているだけで、長者(資産家)が財産を贈与するのは、この後の国王や、親戚縁者、町や村の人々を邸宅に招いた時のことである。また、この文章は日本語としてもおかしい。「おまえは」を主語にするのなら、述語は「受け取るべきだ」とするべきだし、「受け取ってもらいたい」を述語にするのなら、主語は「私は」とすべきで、目的語を「おまえに」とするべきである。

他にも薬草喩品で、
「横になる寝台や、坐る座席にあっても、私には、怠惰が存在することは決してないのだ」と訳すべき文章が、岩本訳では「ひとたび説教の座に坐れば、まことに余に怠惰の気持ちの生ずることはない」となっている。原本には『ひとたび』に相当する語は用いられていない。『説教の座』と訳された語も、原文では「横になる寝台や、坐る座席」となっている。岩本訳では、怠惰の気持ちが生じないのは、説教の座に坐った時だけというニュアンスになってしまう。原文は、寝台で横になっている時も、椅子に坐っている時も、すなわちどんな時にも怠惰であることは無いと言っているのであって、岩本訳は適切ではない。

これらは、ほんの一例であって、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、研鑽のテキストとして用いるのは疑問である。

サンスクリット語の文法を厳密に検証している植木氏の訳が一番信用できる。


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かつて、対談『法華経の智慧』の中で、池田名誉会長と教学部は、
「核心となる思想は釈尊の直説だが、今の表現形態は、編纂当時の時代状況を反映してるとは考えられないでしょうか。」

「核心となる釈尊直説の思想が、編纂当時の時代状況、思想状況に応じて、ひとつの形をとったと考えられます。」

「釈尊の入滅から数百年経過していたとしても、大乗経典が、釈尊とは全く無関係の勝手な創作であるとは言い切れない。文字としてまとめられたのは後年であっても、その間に、釈尊の言説が口承として伝えられていたことは充分に考えられます。」

「インドには、大切な教えは文字に書きとどめるのではなく、暗唱し、心にとどめておく習慣があったようだ。」「それにしても法華経編纂者の編集能力は素晴らしい。文字や暗唱で伝えられてきた仏説の中から、釈尊の思想の核心を選び取り、見事に蘇らせている。編纂者の中に、釈尊の悟りに肉薄し、つかみとった俊逸がいて、見事にリーダーシップを発揮したとしか思えません。」

という見解を示していた。

この点に関しては、私も同じ見解だ。

『大乗非仏説』を主張する連中は、「法華経には釈尊の直説は含まれていない」と言い放っているが、愚かな思い上がりだという他ない。このような連中は、インドの口承による伝統を軽視してるのである。


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『スッタニパータ』を精読している。釈尊の直説と信じている人も多い。

「まのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>」(彼岸に到る道の章)とは『即身成仏』のことを説いているのだろうか。

四諦・八正道・十二因縁に該当する箇所はあるようだ。しかし、業の厳粛な因果について、輪廻の因果律、空仮中の三諦に関しての明確な記述は、果たして説かれているのだろうか。

コーカーリヤの経(第3・大きな章・10)には地獄の恐ろしさについて説かれている。

何が革新的であるのか

しかし、これでは小乗仏教の教義程度にしか思えない。当時の哲学・宗教・思想に於いて革新的であったのか疑問である。例えば、バラモン教のウパニシャット哲学(業・輪廻の死生観や、ブラフマン(梵)とアートマン(我)による梵我一如)に比べて革新的であるか疑問である。

欲望や執着を消滅させることが強調されているが、『煩悩即菩提』こそ仏法の真髄である。大聖人は「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」と仰せである。

ヴェーダの扱いに関して

ヴェーダへの配慮も随所に散見される。
「ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。」(大いなる章・5マーガ・503)
「火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー〔讃歌〕はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである」(大いなる章・7セーラ・568)
「このことを如実に知って、正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。」(大いなる章・12二種の観察・733)
「ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。」(9マーガンディヤ・846)
これらの文言を、どのように解釈するか難しい点ではあるが。

二種の観察

『二種(二重)の観察』は観察法としては優れている。

師弟に関して

第5:悲願に至る道の章で「師(ブッダ)は答えた」と何度も記述されている。仏法に於いて師弟が重要なのは言うまでもない。だが創価が言うような『師弟不二』とは違う。

三世の生命

スッタニパータでは、法華経に説かれる『永遠に続く生命』『因果具時の生命の法則』は説かれていない。

果たして、これで死への恐怖を克服できるのか疑問である。来世のことが曖昧に感じないのだろうか。

単なる認識論では意味が無い

(「気楽に~」渡辺氏や、イプシロン氏など)スッタニパータを過度に重視する連中がいるが、彼らの主張は要するに『単なる心の持ち方』や『物事の認識の仕方』である。その程度の理解ならば、別に原始仏教に固執することは無いだろうに。例えば、孔子や老子でも、それなりに礼儀や道徳、心の持ち方に関して優れた見解を示しているのだから。

仏教は『三世を見通す明鏡』であるから唯一・最高峰なのである。現世のみに限定すれば孔子・老子でも他の哲学者でも充分な価値はある。



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法華経の薬草喩品の後半部はかなり長い。『陶工の譬え』など美しく巧みな比喩が数多く説かれている。だが鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』では後半部分の記述が無いのだ。

その為に「鳩摩羅什が恣意的にバッサリとカットした」と思い込んでいる人も多い。

だが仏教学者・植木雅俊氏の見解では、法華経は、原典写本の種類によって、また漢訳の種類によって、その構成に多少の異同が見られる。薬草喩品の後半部は、サンスクリット語のケルン・南条本、『正法華経』や『添品法華経』には記述されているが、『妙法蓮華経』にだけ存在しない。

その韻文からなる偈(詩句)には、他の章の偈や、他の初期大乗仏典の偈で必ず頻繁に見られる仏教混淆梵語が極めて稀にしか見られない。従って、この部分はかなり後世の挿入だと考えられる、という趣意の見解を述べられてる。

つまり鳩摩羅什が翻訳した時代には薬草喩品の後半部は無かった、との見解なのだ。「羅什が独断で後半部分をバッサリとカットした」と断定するのは早計である。今後の文献調査の進展を待つべきだろう。


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