創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 和合僧

リアルでも、ネットの世界でも創価と宗門の不毛な罵倒の応酬が続いているが、原因はハッキリ言って些細な事に思える。

創価側は「大御本尊を受持の対象に戻します。」と言えば済むだけの話だろう。元々歴代会長もそう言ってたのだから。宗門から破門された直後は「大御本尊様を取り戻す!」と気勢を上げてたではないか。「やっぱり検討した結果、大御本尊を受持の対象に戻します。」とすれば収まる話だろうに。そんなに宗門からの影響力を一切排除したいのだろうか。

宗門側もコピー御本尊を認めれば良いではないか。コピーとはいえ相貌は日寛師の直筆と変わらないのだから。

お互いに「阿鼻地獄に落ちる」だの、「魔の神通力」だの、「極悪と戦えば極善となる」だの、同じ日蓮仏法の信者同志で、よくもまぁここまで酷い罵詈雑言合戦ができたものだ。

組織のトップが方針を変更できないのなら、一人の信徒の立場で「創価組織はそう言ってるが、自分は内心では大御本尊を受持の対象から外してないよ。」という考えにならないものか。組織の大幹部が決めたら、それで全部従うような盲従の姿勢で良いのだろうか。過去の指導との矛盾点すら整理できないのだろうか。

解釈の仕方一つの話なのに、ここまで分断され敵対しなければならない話なのだろうか。大聖人が御覧になれば、どれほど悲しまれるだろうか。人間に生まれて逢い難い日蓮仏法に巡り合えたのに、こうして一生を終えてしまうのだろうか。


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以前の 記事1 記事2 でも書いたが、創価・宗門・顕正会。お互いが罵り合い泥沼の抗争が延々と続いている。何とも不毛な抗争を続けているように感じる。それぞれが自らが絶対的に正しいと信じ、相手組織と信徒達を『仏敵』と断定して、「悪を徹底的に攻撃せよ」「極悪と戦うことが極善になる」という姿勢なのである。このような門下同志の醜い抗争を大聖人が御覧になれば深く悲しまれることは間違いない。

もともと創価も宗門も顕正会も正信会も同じ教義解釈なのだから対立してることがおかしいのだ。共に広宣流布を願っているのである。それぞれが組織改善して仲良くやれば良いではないか。

むしろ信徒同士を分断させた組織のトップ達にこそ責任があるのではないだろうか。浅井氏・池田氏・日顕氏。このようなカリスマ的な指導者など必要なかったと考える。信徒の一人一人が求道者で大哲学者であるべきなのだ。自らが主体的に動くべきなのだ。しかし組織主義によって『モノを考えない人達』を多く生み出してしまった。そして組織に言われるがままに動き、相手を『仏敵』と信じ込み攻撃してしまう。何とも悲しいことである。

御書の『一眼の亀』や『優曇華の花』の譬えにもある通り、人間に生まれて大聖人の仏法に巡り合うことの難しさを考えれば、奇跡的な確率なのだろう。その人達がお互いに罵り合い攻撃し合っているのだから、これほど悲しい事は無い。大聖人がどれほど悲しまれるか想像しただけで胸が痛む。「我々は果たして、こんな事をする為に、この世に生を受けたのか?」と、一度深く自分に問うて欲しい。

私は創価の会員の人達も、宗門の人達も、顕正会の人達も、正信会の人達も、皆等しく同志達と思っている。分断・対立の状態から和合僧へと歩みを変えることを願っている。


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