創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 創価一般

かつて、著名なジャーナリストの田原総一朗氏は、ある対談の中で、こう指摘した。
創価学会の功罪のうち
「罪の方から先に言うと、『ものを考えない人』を大量生産してしまったということでしょうか」

これは、まことに鋭い指摘だと思う。
組織の打ち出しに何の疑問も感じずに従順に動くのみ。組織の発表・説明を『全て真実』だと鵜呑みにする。仮に矛盾が垣間見えても、
「きっとこれには意味があるんだろう。」「先生に近い、本部の人達は信心も凄いんだから間違いないわ。」「私達は自分の地域のことを考えよう。それ以外のことは、わからないし上の幹部達が対応してくれるわ」「頭で考えるのでは無く信心で受け止めないとダメだわ」
と、それ以上は追及・検証せずに思考停止になる。
そのような人を大量生産してしまったのかも知れない。

これに関しては、今後も考察を続けていきたい。



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創価は中国との友好を頻繁にアピールしている。

かつて旧ソ連と中国が一触即発の関係であった頃に、池田名誉会長が間に入って関係を改善させる一助になった、という美談が何度も語られてきた。

周恩来とその婦人・鄧穎超との交流も何度もアピールしてきた。

また、胡錦濤が中国共産主義青年団の第一書記であった頃からの創価との交流の美談や、池田名誉会長との対談、彼が主席になった時には聖教新聞で『理想のリーダー』かのように取り上げられた。だが、胡錦濤が中央に出世できた実績はチベットの大弾圧である。どれだけ多くのチベット人が犠牲になったか計り知れない。しかし創価はそこは一切伝えていない。聖教新聞だけしか読んでない一般会員は完全に情報操作されているのである。

一度も注意したことがない

周知のように、中国の国内ではチベット人・ウィグル人への弾圧、人権活動家に対する弾圧が絶え間なく行われている。

しかし池田名誉会長が表に出ていた時期から今に至るまで一度も中国に対して注意したことがない。近年では、劉暁波氏に対する苛烈な弾圧が有名だが、これも一切スルーしている。ノーベル平和賞受賞者が虐げられているのに、平和を標榜する団体が何の反応も示さないとは驚愕である。これでは創価が人権弾圧を黙認してると理解されるのが当然だろう。

巨悪を見て見ぬふり

かつて池田名誉会長は「傍観主義は敵である。悪を見て見ぬふりをする者は悪と同じである」と訴えた。中国によるチベット人・ウィグル人・人権活動家に対する巨悪を見て見ぬふりを繰り返している創価の姿はそっくりそのままこの言葉に当てはまらないだろうか。

間違いは指摘すべき

創価は聖教新聞等々で、池田名誉会長のスピーチ等々で、事あるごとに周恩来・鄧穎超を讃嘆し、魯迅や孫文を賛美し『社会悪と戦う民衆』『虐げられた民衆が立ち上がる姿』を強調してきた。また中国を「日本の文化の師匠の国」と持ち上げ、褒め称えてきた。賛美すること自体は別に構わない。だが、間違っていることがあれば指摘せねばならない。

名誉称号の授与の代償

池田名誉会長が中国の大学や教育機関から多くの名誉学位を授与されていることを盛んにアピールしている。しかし、この名誉称号の授与の代償として、中国の人権問題に関して一切批判が出来無い体質になってしまった。チベット弾圧や、ウィグル弾圧や、劉暁波氏などの人権活動家への弾圧に関して一切批判のメッセージが出せないようになってしまったのだ。

「一体これのどこが平和と人権を唱える宗教団体なのだろう?」と疑問に思わざるを得ない。

また、別の観点から見れば、池田名誉会長への名誉授与は膨大な数になっているが、「では果たして中国の広宣流布が進んでいるのか?」と考えた時に、実は少しも進んでいないのだ。この数十年間まったく進んでないのである。いくら池田思想が評価されても、布教には何の役にも立っていない事が証明されている。

耳の痛い忠告でも

創価が『平和と人権を標榜する団体』というのならば、中国に対して、人権問題をハッキリと注意すべきである。もしも、それで交流を打ち切られるようなら、それまでの相手だったということだ。

本当に『真の友人』ならば、耳の痛い忠告であっても間違っていることは指摘せねばならないだろう。それが友人の務めではないだろうか。


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創価の活動は成果主義が顕著である。
選挙支援活動の集票目標(K・F・Z)・聖教新聞推進・新聞の配達・各種チケット推進・本部幹部会チケット参加目標・会合の集票目標・本尊配布目標・書籍推進・各種集金・財務の推進 etc、枚挙に暇が無い。ありとあらゆる活動にノルマ報告がつきまとってくる。生命保険の営業担当も真っ青になるノルマの嵐である。

目標設定はあくまで補助

目標を持つこと自体は悪い事ではない。法華経の化城諭品第七でも目標の大切さが説かれている。しかし活動の全てにノルマを課す方針はいかがなものだろうか。目標設定はあくまでも方便なのである。補助的な要素なのだ。化城諭品で説かれているのは『仮の城』なのである。自分自身と周囲の人達を幸福にするのが本当の目的なのだ。その為に目標を設定して成長を促すのだ。だが、今の創価の成果ノルマ主義を見ていると、これでは本質を見失い人材を潰してしまう。

成果主義が顕著な婦人部

特に婦人部が顕著である。まるで仕事のように熱心に履行しようとする。成果が給料に反映されるワケでもないのに、なぜそこまで必死になるのだろうか。婦人部の方々を見ていると、目の前の数字の事で頭が一杯なのだ。それをどうやりくりするかで頭が一杯なのだ。自分の担当の目標部数に届くか届かないか、無理そうならば自分が聖教新聞をもう一部購読する人までいる。そうやって何とか報告できる数字までもっていく。そのやりくりで日々の時間と精神を消耗させてしまっている。自分の活動を客観視する余裕もない。これが主たる活動内容なのである。

「組織依存」を教え込まされる

一体これのどこが信仰活動なのだろうか。これが広宣流布に直結すると主張しているのだ。一体どこでこんなものが信仰活動だと教え込まれたのだろうか。

入信した頃はこんなノルマに追われる日々など想像できただろうか。入会した理由は、座談会の和気藹々とした光景や、折伏相手の人柄の良さに惹かれたのではなかったのか。それらに自分の(人生の未来)希望を見出したのではなかったのか。

ところが、役職を与えられると、自分に責任が発生してくる。組織側の人間に組み込まれると、やがて意識が変わる。いつしか目標数値を達成することが活動の主目的にすり替わって来る。

組織活動の為に家庭を犠牲に

本来は家族の為に使う時間を放棄して、ノルマ達成する為に駆けずり回り、頻繁な事務連絡に追われる。これのどこが『一家和楽』につながるのだろうか。一体何が得られるというのか。

このような活動は、大聖人の仏法の本質を見失っている事にどうか気付いて欲しい。

勿論、御書学や折伏・仏法対話などの活動も行っていることは承知している。その上で、成果主義のウェイトが余りにも過大なのである。そのせいで本来の御書研鑽の時間と気力が奪われてしまっている。これでは本末転倒である。この誤りを指摘せざるを得ないのだ。


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「創価学会は、仏意仏勅の広宣流布の団体です。ゆえに、その中での私たちの活動は、全て広宣流布につながっているのです。私たちが信心に励み、学会活動に挑む中で直面する苦難には、全てに意味があるのです。」

「全員が組織に付き切って、学会のリーダーに育っていってください」仏意仏勅の学会の組織なくして広宣流布はない。組織から離れれば、自行化他の信仰の正道を踏み外すことになる。

「『有解無信』、つまり、教えを理解していても、心では信じていないという生き方もあります。それでは、どんなに教学に精通し、どれほど才能に恵まれていたとしても、一生成仏することはできません。」「どうか、何があろうが、『信』の一字を、深く、深く、胸に刻んで、広宣流布の大道を歩み通し、断じて幸せになってください。『信』によって結ばれた、地涌の固いスクラムは、いかなる力も、決して破ることはできません。」

「信心の筋金が入った人間とは、どういう人間をいうのでしょうか」との青年の質問に対し『永遠の師匠』が、「それは、一生涯、学会についてくる人間のことです。また、広宣流布に生きる先輩についていく人間のことです。たとえ、誰から怒鳴られようが、あるいは、蹴飛ばされようが、学会から引き離されようが、どんなことがあっても、学会につききっていくことのできる人間が、信心の筋金の入った人だ。」

よく創価がこのような指導をするが、これらの指導を全て組み合わせれば、組織の打ち出しを『無疑曰信』で受け止める組織人間を創り出す事にならないだろうか。

選挙活動に疑問を持つ人がいても、「普段は政治の監視もしてないのに選挙の時だけ動くのが、どうして広宣流布につながるのですか?」という疑問があっても、上記のような指導をミックスさせ、このような指導を受ければ、「選挙活動にも意味があるんだ。何があっても、どれだけ苦難があっても頑張ろう!」と発心するだろう。

仮に、これらの指導が正しいとすれば、前提条件がある。それは「創価の活動が全て正しい」場合のみである。世の中にそんな組織があるのだろうか。この世に存在するとは思えない。

ならば、活動家の一人一人が疑問を持ち、「この活動は本当に必要なのか?正しいのか?」という点を納得するまで時間をかけて徹底的に議論・対話を繰り返す事が重要ではないだろうか。今の創価に欠けているのはその点である。


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創価学会は、公称会員数827万世帯という日本最大級の宗教組織であるが。創価の未来はどうなるのだろうか。

進む高齢化

組織の高齢化が進み、未来部・青年部は衰退する一方である。今の年配の活動家の方々が、やがて鬼籍に入り、世代交代が進むと、もはや今のような活動家は維持できないだろう。今までは地区や支部単位で会合が中心だったが、将来は本部単位でやっと人が集まる感じになるのだろう。

選挙活動も今のような陣容は維持できない。そうなると縮小せざるを得ない。公明の国会議員数や都の議員数、地方の議員数も縮小していくだろう。活動家の大幅減少は組織にとって憂慮する事態である。

支配体制の強化

こんなことは信濃町界隈の連中が一番良く分かってるだろう。何しろ一番実態を把握しているのだから。彼らは、この先も宗教でメシを食っていく為に組織維持に誰よりも必死になっていることだろう。

会則変更で歴代会長を『永遠の師匠』と偶像化し、人間革命をバイブル化し、『創価学会仏』という組織そのものに無謬性を与えて、将来の組織維持の為に支配体制の準備を着々と進めている。また大御本尊も『受持の対象にしない』と変更し、宗門と完全に決別して影響を完全に排除しようとしている。

組織運営に対して批判的な人達の排除にも積極的に乗り出してるようだ、役職を閑職にしたり、査問を行ったり、反組織的な勢力が増えない為に躍起なのだろう。

創価のブランド化

ブランド戦略も着々と進んでいるようである。ここ数年、佐藤優氏との関連が非常に多くなった。潮で対談も特集されている。外部の識者によって創価を評価して貰う事によって、創価のブランド化を定着する狙いなのだろう。TVCMなど広告でイメージアップを狙う戦略も積極的に行っている。メディアに多額の広告費を与えて創価に対する批判を黙らせている効果も大きい。

このようにして創価ブランドを固めて、信濃町本部に絶対的な権力を集中させて、会員を偶像崇拝のコントロール下に置き、万全の統治体制を目指しているのだろう。

負担の更なる増大

将来は今の半分以下になった活動家から、広布基金を求め、選挙活動を求め、新聞や民音や各種チケットの担当を求めなくてはならない。巨大な本部組織や外郭団体を維持しなければならないのだから、末端の会員の一人一人の負担は、当然ながら大幅に増加する。信濃町界隈の宗教貴族どもを養うのは大変だろう。

永遠の師匠の去った後

『永遠の師匠』が去った後は、もう「池田先生の御承認を頂いております」という『錦の御旗』が使えなくなる。それ以降の教義改正や公明党の政策で今までのような強引な『中央突破』は難しくなるだろう。強行しようとすると、池田絶対主義者の人達の猛反発を招き、下手をすると大きく分裂しかねない事態になる。今後は池田絶対主義者の人達がいよいよ発言権を増していくだろう。

池田名誉会長のスピーチや関連書籍での発言の『解釈論』で大きく意見が分かれるだろう。過去の発言を引用して執行部体制と組織運用に肯定的な解釈をする人達と、執行部体制と運営を批判し「池田先生の時代に戻れ」と主張する人達と、様々な解釈論が飛び交うようになるだろう。

戸田会長が死去した後、外部から「創価学会は分裂する」と指摘されたが、池田大作というカリスマが存在した為に、組織をまとめ発展させることが出来た。しかし、今の創価にカリスマは存在しない。今後も二度と登場しない。

もう名誉称号の授与パフォーマンスが使えなくなる。機関誌の内容はどうなるのだろうか。穴埋めに、SGI組織のセミナー等の記事を増やすのだろうか。激励のメッセージも掲載できなくなる。

国政への維持を諦め守勢に

やがては国政から手を引くことになるだろう。これまで構築してきた永遠の師匠のイメージを最大限にアピールした路線へと舵を切ると思われる。これまでの攻めの姿勢から守勢に路線転換するだろう。平和と人権と対話重視の団体という看板を今以上に強調するだろう。

日本の会員数は大きく減少するのは確実視されている。いずれ池田家から会長が就任するだろう。その後、代々世襲すると予想される。その点は他の教団と同じだろう。



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創価の役職はあくまで組織上の方便であり、そこに上下関係など存在しない。あくまで平等である。役職を担うことによって信心が深まり、使命の自覚も進む。自分を磨き、人間革命し、大きく進歩・成長していく。創価はこのような説明をするのだが、実際はどうなのだろうか。

「信濃町本部から来られた方は、先生に近い方だから。信心も凄いのよ」
「あの人は男子部の頃に県幹部まで上り詰めた人だから、信心も深いし、見識も豊富ですよ」
「あの人は部長止まりだった。何かが足りなかった。」
「あなたは女子部の役職経験者あがりなんだから期待してるのよ。婦人部の一世の人は信心が甘いのよ」
「先生の名代として、副会長をお迎えすることが出来ました。大勝利できました。」

このように会員の中には、確かにヒエラルキー意識が存在するのだ。

不軽菩薩の実践を説き、人間革命等々でも、常に人の振る舞いが大事だと教え、他者に仏性があると認め尊重する、そのような指導を常々受けているのに、階級意識の発言や振る舞いをしてしまう。

或いは相手の気持ちを考えずに発言してしまう。子供が出来ずに悩んでる方に「早く福子を産んで、広宣流布に先生に貢献しましょう。」と言ったり。或いは、強引に役職につけようとしたり、断ろうとすると「それでは福運が積めない。あなたの子供や家族に悪い影響が出て欲しくないから」と言ったり。たとえ善意からの発言だとしても不軽菩薩の振る舞いでは無い。

何故このような事が起こるのだろうか。どこに問題点があるのだろうか。中央集権的な組織形態がこのような階級意識を作り出してしまうのだろうか。考察を続けていきたい。

(まだ自分の感じた「違和感」を文章化しきれてない)


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以前の記事で創価の組織が中央集権的な官僚機構であることを書いた。地域の現場では様々な意見が出てくる。しかし、それを一々受け入れるわけにはいかない。反対意見を許していたら組織運営が成り立たなくなるからだ。会員それぞれが独自性を持った活動をされたら、組織として統一的な戦略が立てれず動けなくなる。

「本部長、今度の選挙戦、今の公明党の方向性はオカシイと思いますよ」「支援活動をやらない方がいいと思います。」
「何をいってるんだ君は、広布の同志を政界に輩出して立正安国を実現するんだ。池田先生の正義を証明する戦いなんだ。お元気なうちに師匠にお答えしよう!」「法戦は宿命転換の絶好のチャンスだよ!」

「婦人部長、無理に新聞推進しなくてもいいでしょう。嫌がる人もいるんだから」
「それは違うわ。新聞推進も折伏なのよ。我流の信心ではダメよ。必ず行き詰まるわ。先生に呼吸を合わせなさい。」
「でも、マイ聖教運動などの多部購読はさすがに数字合わせでは無いんですか?」
「地域の牙城の数字を守るというのも大事なのよ。」

「あの、信心の活動に選挙支援とか新聞推進とか新聞配達とか財務とか必要ないと思うんですが・・・。」
「地球に自転と公転のリズムがあるように、信心のリズムもこの二つが大事なんだよ。学会活動は公転です。学会のリズムに合わせないと必ず行き詰まるよ。」

このように、下からの意見が通らない、最後は「信心で受け止めなさい」という常套句で無理矢理に飲まされてしまうのだ。

結果として、活動内容に反対意見のある人は非活動になったり退会したり、つまり排除され居なくなってしまう。残るのは組織に従順な人のみになる。

仮に組織が間違った方向性に進んだとしても、それを下からの意見で軌道修正できるような構造になっていないのだ。「創価の組織活動は全てが正しい」という前提で運営がなされている。果たして、信仰の世界でこの組織形態は適切なのだろうか。歴史的な見地から考察すれば、このような組織が最適な時期もあっただろう。だが現在の主権在民で信教の自由が保障されている世の中で最適かどうかは疑問である。


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(徒然の思い出、思索メモ、段階的に整理していく予定)

かつて学生部や、男子部であった頃を、思い出す。

学生部の頃は、簡単に言うとサークル活動的な要素も強かった。学生部は人数が少ないので、最低でも本部単位、或いはそれ以上の単位の会合が多かった。様々な会合に行くのだが、遠方も多く、移動はなかなか大変であった。だが総じては楽しんでいた。

当時の男子部

男子部では様々な職業の人が部にいた。仕事の無いメンバーもいた。当時の部長は人柄が良く誠実だった。各メンバーの成長を願っていた。これは間違いない。相手を尊重する姿勢も持っていた。これは部全体に浸透していた。会合に来てくれたメンバーを励ましたり、家庭の状況や仕事の状況を聞いたり相談に乗ったり、決して高圧的な態度ではなかった、人材を育てようという姿勢だった。血の通った組織であったと実感していた。池田名誉会長のスピーチを読み、その精神に沿った活動をしようと皆頑張っていた。

かつて私も選挙活動に熱心になってた頃があり、それこそF100以上だの、連れ出しだの、バリバリの活動をしていた。その反動から選挙支援活動を全くやらなくなった時に、かなり激論をして、「自分は選挙活動はしない」と宣言したが、だからといって組織内でハブられたことも無かった。役職持ちは長い付き合いで人間関係が出来ていたからだろうか。

これは、私が知っている創価の現場そのものだ。

自分がかつて歩んできた創価の組織から思索すると、創価の思想が必ずしも間違っていたとは思わない。地元組織の人達を育てたのだから。

変質していた創価組織

非活になり、今の創価組織が、査問だの排除だの、そのような事が行われてると知った時は驚いたものだ。

「では池田先生が表に出なくなってからおかしくなったのだろうか。」「現執行部が先生を利用してるのだろうか」。私も、まずはこの発想に至った。池田絶対主義者の人達と同じ発想である。

それから、池田名誉会長の事も徹底的に調べた。創価の歴史も同様だ。その結果、どこからどこまでが真実で虚像なのかわからなくなった。

調べたり思索を進めることによって、創価の中央集権的な組織運営と、成果主義の弊害も見えてきた。その影響で会員の方々に大きな負担を強いていること。数字に追われて信仰の本義を忘れてしまっている活動家幹部が多いこと。そのようなことを把握できるようになった。

正視眼で判断

アンチ的な視点で創価の全てを否定し、バッサリと斬り捨てるのは簡単だが、実態はそうでは無い。だからこそ評価が難しいのである。組織盲従でもなく、アンチでもない正視眼で判断しなければならないだろう。


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創価バリ活の方々の活動内容は、新人間革命の研鑽、選挙支援活動、新聞推進、新聞配達、財務関連、集金関連、と様々あるが、信仰の根本である大聖人の仏法を研鑽する時間はどうなってるのか。御言葉を心に刻む機会が余りにも少なすぎるのではないだろうか。

聖教新聞や大白蓮華や新人間革命でも御書の一節は掲載されており、確かに触れる機会はあるのだが、ワンフレーズや部分解釈を読むだけで終わってしまう。しかも一定間隔で同じ御書ばかりが引用されている。これでは偏りが出てしまう。創価の会員で「私は御書を全て読みました」と誇れる人が果たしてどれだけ存在するのだろうか。ちなみに私の地域では見たことが無い。学会員全体でも極めて少ないだろう。

どこまでいっても御書が根本である。御書を断片的にしか学んでおらず全て把握しないままでは、今の活動内容が、大聖人の根本精神に沿ってるかどうかの判断すら正確に出来ないではないか。

新人間革命を『バイブル』のように有難がって用いている場合ではない。選挙支援活動や新聞推進や雑務等々の組織活動に時間を割いている場合ではないだろう。そんな事をやっている間に、御書を部分的にしか読まないまま一生を終えてしまう。

願わくば、一人一人が、大聖人の全ての言葉を心に刻むまで研鑽を進めて欲しい。かつて池田名誉会長が『剣豪の如き修行』で教学を研鑽するように指導していた通り、他の何よりも最優先すべきだろう。他の本はその後に読むべきである。


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創価は『桜梅桃李の譬え』を持ち出して、会員の個性を大切にして、何でも意見が言えて自由闊達な議論が出来て、会員が自発的に動く組織のように説明しているが、果たして実際はどうなのだろうか。

創価の指導でよくみかける光景なのだが、御書の「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(高橋殿御返事)を引用して、「今いる場所で勝て、あなたの今いる場所から広宣流布は拡大していく」と自分の地域で精一杯頑張るように指導する。それを聞いた末端会員の方々は、自分の担当地域で結果を出そうと奮起するのだ。組織の打ち出し目標を遵守しようと粉骨砕身する。何とか結果を出そうと必死に祈り、知恵を使って工夫する。自分が主体者としての自覚と責任を持って行動しているのだ。

しかしながら、それ以上の範囲となると、県や本部組織の事などは完全に組織の上部におまかせしているのである。「私は自分の地域の会員さんを大事にする事が使命です。本部のことは池田先生に近い人達を信じている」「池田先生に近い直系の弟子の人達なのだから間違いない」殆どの末端会員がこの思考なのである。

一人一人は純粋で気のいい人達なのだが、この状態が組織化されると、本部への監視をしない、本部や上部組織への疑問も持たない、政治の監視も一切しない、『集票マシーン』となり選挙活動した後は公明に全ておまかせ、ありとあらゆる事が完全に上部組織・中央組織におまかせ状態になるのだ。自分達の活動内容が、信奉する理念に沿ったものなのか否かの検証を自分達で行わない。そうなれば打ち出しの行動を決めるのも全て本部主導の上意下達方式になる。これでは『桜梅桃李』の活動など期待できそうもない。

創価と言う組織は、末端会員が幹部に忌憚なく意見できて、それがちゃんと反映される組織ではない。実態は上意下達の活動方式なのだ。主要な活動内容の殆どが信濃町本部や上部組織から打ち出される方式である。強力な中央集権体制であり官僚的な組織なのだ。

(ただし、私は官僚組織的な運営が全て悪いと言うつもりは無い。歴史的に見れば、そのような組織形態が最適な時期もあっただろう。ただし現代においては疑問である)


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