創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 創価一般

創価の活動家は、組織の魅力をこう訴える
「創価家族と言われているコミニュティーの中での、心のひだに届くような叱咤激励、君が憂いに我は泣き、我喜びに君は舞うという学会歌にあるような組織文化」があるという。

なるほど確かに会員同士の温かい交流もあるだろう。ある種の互助会のような役割はある。そこは否定しない。

しかし、それは創価だけが特別ではない。一般社会に幾らでもある。例えば重い病を抱える家族会や、障碍を持つ子供をサポートする会などは、もっと心の籠った交流がある。言葉一つ一つを大切にする。家族の悩みも一緒になって取り組んでくれる。或いは、若者に教育支援や生き甲斐を教える会もある。高齢者にきめ細やかなサポートをする会もある。そのような会は枚挙に暇がない。

この点は創価だけが飛び抜けて優れている訳でも何でもない。さらに現状の創価は、組織の打ち出しに従わない人・活動方針に異議を唱える人を、査問だの除名だのドンドン排除していっている現実がある。その温かい『創価家族』すら、組織に従順に従うという前提条件なしには成り立たないではないか。そうなると、何の制約もなく純粋にサポートしてくれる後者の会の方が遥かに勝れている。

「現証」をアピール

創価の活動家は、組織の正当性をアピールしている
「(日蓮正宗・創価学会・顕正会の中で)池田名誉会長の指導によって、詐欺と言われる創価だけが飛び抜けて世界192カ国・地域に広まっているという現証」を誇っている。まるで数こそが正義の証明だと言わんばかりである。

しかしイスラム教、キリスト教の信者数は10億人を軽く超えている。その論理でいえばイスラム教・キリスト教の方が遥かに「現証」を出していることになる。つまり人類社会から認められていることになろう。日蓮仏法よりも優れている事になってしまうのだ。

そもそも大聖人御在世の日蓮教団の数は、遥かに少数だった。念仏宗などの方が遥かに多かった。では念仏の方が優れているのか。そんなはずはない。信者の数よりも教義の内容が重要なのは言うまでもない。

要するに、教義の面での優位性を主張できないから「現証」を強調するしかないのだ。




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昔、私がバリ活だった頃、物事や人物の見方が非常に狭い視野しか持っていなかったことに気付いた。創価組織のフィルターを通じて物事を判断していた。池田名誉会長のスピーチや書籍の内容によって人物や物事を判断していた。「この人は創価を高評価している。だからこの人は正しい人なんだ」「この人は池田先生に評価されていた。だからこの人は偉人である」等々。このような『創価の物差し』が判断基準だった。我ながら何という稚拙な思考だったのか、今振り返れば恥ずかしい限りである。

しかしバリ活の多くは似たような判断基準だろう。「この人は潮で創価を褒めていたわ。信用できる人よ」「この人は創価の選挙について批判していたわ。信用できないわ」等々

自分自身で評価・判断するのではなく、創価組織の見解をそのまま鵜呑みにするだけ。



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創価は中国に対し布教活動を一切していない。加えて、中国政府による人権弾圧・宗教弾圧に対しても抗議の声明を一切出していない。

創価バリ活の人達に聞くと「それはきっと意味のある事なんだよ。今はわからなくても将来わかる時が来る。」
「池田先生は、50年後100年後を見据えて手を打って下さっている」
という答えが返ってくる。

あの鯛焼き支部長も「(執行部は)布石は着実に打っている印象を持ってます」と誇らしげに言っている。

もちろん、何の根拠もない。ただ信じているだけである。

「中国との折衝という壮大なテーマは、本部の方々、池田先生に近い方々が、間違いのない方法で進めてくださっている。着実に中国は平和への道を進んでいるし、将来の広宣流布の布石は打って下さっている。我々は彼等を信じておまかせして、自分たちの地域のことに集中すべきだ。」バリ活の人達は、このような思考回路なのである。

そんな夢物語を妄信してる間にも、現実には中国共産党によって、ウィグル人やチベット人の方々は『強制更生施設』に送られて『再教育』という拷問に等しい苦役を強いられている。創価の活動家は、この事実を完全スルー状態なのである。



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(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
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アンチ創価の筆頭である「(旧)静かに創価学会を去るために」の管理人シニフィエ氏は「創価は10年後、20年後に壊滅寸前にまで衰退するでしょう」と豪語する。また別の記事では「創価は、ある日突然「解散します」で終わるんじゃないでしょうか」などと嘯いている。

本当にそうなのだろうか。

結論から言えば、壊滅など有り得ない。アンチのバイアスによって極端な視野しか持たない人物も哀れである。

創価の地盤はブロックであり地区である。どれほど強固な組織か知らないのだろうか。『永遠の指導者』が8年も9年も表に出なくなっても、教義の根幹が変わろうとも、人間革命がどれだけ改定を加えられようとも、政治の路線が変わろうとも、池田平和思想に反する安保法案に賛成しても、そんなことで揺らぐことは決してない。(以前、記事で指摘したが地区のメンバー同士が疑似家族的な密な関係になっている)

今の年配の人達が卒業して次の世代になれば会員数は大きく減るだろう。それによって国政への政治参加は維持できなくなるだろう。だが創価組織によって純粋培養された人達も依然として多く残る。

顕正会は勢いを増している。宗門も一定数は存在する。他宗教を参考にしても、立正佼成会・天理教など緩やかな衰退傾向であるが一定の勢力は維持されている。

池田思想(池田哲学)というのは綺麗な言葉が並んでおり一般受けが良い。海外のメンバーにも好評とのことだ。池田名誉会長は「平和の為に、世界中を回って各国の指導者たちと対話を積み重ねて、実践し続けてきた」という作られたイメージがある。創価は対話を重視して、宗教や国の体制が違うからといって対話を放棄しないというイメージがある。

現代は思想が混迷を極めている。トランプ大統領の登場あたりから特に顕著だ。分断と憎悪の連鎖。人種による差別。移民の徹底排斥。だが心を痛めている人達も多い。そのような人達には創価は綺麗なイメージとして映るのではないだろうか。

特に日本に於いては、親が創価だからという理由で子供の頃から創価教育によって純粋培養された人達が一定数『再生産』されている。(これは創価だけではないが)。やはり若いころからの刷り込み教育が一番効果が大きいと思われる。



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池田名誉会長のスピーチや対談、創価の新聞やメディア等々のプロパガンダから、創価の運動は民衆を賢くする運動だったはずだ。

池田名誉会長は「民衆が無知ではいけない、騙されてはいけない」と警告した。「創価の運動は大衆を賢くする運動である」と

過去の様々な政治体制を例に。ナチスやスターリン統治下の民衆。プロパガンダ教育により民衆は信じ込まされた。故に不幸になった。無知ゆえに不幸になる。その指摘は正しい。

かつて池田名誉会長は「政治家が偉い、学者が偉い、科学者が偉い、民衆は無知で従うしかない。私はこういう顛倒した世の中を変えたいのです。それが創価の運動なのです」と訴えた。創価の運動に邁進すれば民衆は賢くなるらしい。

ところが創価の活動家達は賢くなったのだろうか。選挙の候補者の票だけお願いにいって、当選した後は全部お任せ。政治の監視など一切しない。ただ上部組織から降りてくる打ち出しをこなすだけの日々。数字に追われる日々。その運動の先に何があるのかを考えることすらしない。検証もしない。

一つの戦いが終われば、直ぐに次の戦いの打ち出し目標が降りてくる。次から次へと。会員達にはこれまでの活動を落ち着いて整理し評価する時間を与えられない。

たまに聖教新聞の記事でSGIのメンバー達がイベントを開催した特集を見て「世界広布は着実に進んでいるんだ!」と実感するのである。(ただしSGIの国別の正確な実数は公表すらされていないのだが、つまり会員が増加してるか減少してるかすら定かではない)

結果として、賢くなるどころか、大量の『ものを考えない人』を生み出してしまった。

(以前に、ものを考えない人ノルマに追われる創価の活動家反対意見を許容しない構図本部組織に従順になる構図で指摘させて貰った)

そもそもピラミッド型の組織運営に問題があったのだろうか。

共産主義体制は前衛と後衛、指導者層とそれに従う労働者層とに分かれる。「純粋だがものを考えられない素朴な労働者層」のために指導者層が導いてあげるという前提である。上位の指導部に絶対的な信頼を置く。指導部が間違っているなど有り得ない。ところがどうだ。現実の共産主義の指導者層は腐敗し、近視眼で長期的なビジョンもなく、数々の計画は大失敗し、民衆を塗炭の苦しみに落とした。「お任せ」した結果がこれである。

その非に気付いて、それに異議を唱え警鐘を行った人はどうなったか。指導者層の腐敗や、歪みや、不都合な現実を指摘したジャーナリスト、市民、その人達はどうなったか。国に混乱を招いた反逆者としてレッテルを張られ。悉く弾圧され処刑され消されていったのだ。

「今の指導部は間違っている」「改善が必要だ。」ピラミッド型の上意下達の組織に於いて、このような声は言論は必ず封殺される。

このような組織統治の下では、下からの改善など実質不可能である。組織が間違った方向に進んでも、それを是正することは出来ない。



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創価は毎年の行事に必ず『財務』という寄付を募る。寄付を行う会員を『広布部員』と命名している。この財務こそ創価の巨大な力の源泉である。

表向きは「広布基金は真心なので自由です」といいながら、年後半になってくると財務を推進する打ち出しがある。広布部員の会合もある。役職を持つ活動家はこれを推進せねばならない。

「財務をやりきれば福運がつく」だの、「自分の境涯の限界まで財務を頑張りましょう」。貯蓄の余裕すらなくなっても。「足りないときに宇宙銀行から自在に引き出せる境涯になります」などという指導もあるようだ。しかし、その根拠はどこにあるのだろう。そんな曖昧なものをアテにして生活していけというのだろうか。


「御聖訓に学ぶ御供養の精神」という記事に次のように記載されている。
法華経の行者に供養する功徳は、妙法を弘める人の功徳に等しく、広宣流布が拡大すればするほど、計り知れないほどの多くの功徳が、供養をした人に集まってくるのです。
ここで、「法華経の題目を弘められている人」とは、今日においては、現実の上で大聖人の御遺命である広宣流布を進めている創価学会をおいて、ほかにはありません。
(聖教新聞 2018年11月6日)
御書から『ご供養の精神』を強調して、財務の正当性をアピールしている。しかし当時の檀徒達は大聖人に対して真心の供養をしたのである。教団に対する布施ではない。一方、財務はあくまで創価という組織に対する寄付である。「法華経の行者に対する供養」を「教団への寄付」に勝手にすり替えているのである。そこに日蓮仏法の裏付けなど微塵もない。



そもそも、この財務は戸田会長の時に開始された。財務に参加できる会員も限定されていた。信心強固として認められ金銭的に余裕のある人のみが財務部員になれた。いわば特別な扱いであったのだ。これが財務の原点であった。

そして、その方針は次の会長の代でも貫かれていた。

池田名誉会長はかつてこのような発言をしている
邪教などは、みんなうまい事を言って、金を巻き上げ、教祖のために、教団の勢力のために、それも本当に人々を救えるならば許せるけれども、全部が地獄に落ち、民衆が教祖にだまされ、そして教祖は立派な家ばかりつくり、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これが、邪宗教の姿です。創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。
(聖教新聞 1962年(昭和37年)6月16日)
この方針を貫いていれば、財務というイベントは残っていないはずだ。ところが、今や毎年恒例の行事になっているではないか。しかも会員全員が参加になっている。では、一体この発言は何だったのだ。


原点である法華経を拝すると

創価の財務は、法華経に説かれている内容を正しく継承しているのだろうか。原点である法華経の精神を確認したい。
 阿逸多、若し我が滅後に、是の経典を聞いて能く受持し、若しは自ら書き若しは人をして書かしむることあらんは、則ち為れ僧坊を起立し赤栴檀を以て諸の殿堂を作ること三十有二、高さ八多羅樹、高広厳好にして、百千の比丘其の中に於て止み、園林・浴池・経行・禅窟・衣服・飲食・牀褥・湯薬・一切の楽具其の中に充満せん。是の如き僧坊・堂閣若干百千万億にして其の数無量なる、此れを以て現前に我及び比丘僧に供養するなり。是の故に我説く、如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめ、経巻を供養することあらんは、復塔寺を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須いず。
このように法華経では、自行化他に励む人には、遺骨を納める塔(ストゥパ)を建てたり、僧坊を作ったり、僧団への供養をしたりする必要はないと明確に説かれている。その理由は、この行者が法華経を受持・読誦するならば、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからであると述べられている。法華経の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としない。

これが法華経の精神なのである。創価が、毎年の財務を「これに勝る大善はない」などと『信仰の柱』のように指導しているのが大きな誤りであることが明白である。

教団への布施に執着する様を見ていると、法華経の精神よりも小乗仏教の教団運営の姿勢を継承しているのではないだろうか。


真心が大事だと言うのならば

広布部員などと命名する必要すらない。組織をあげて大々的にやる必要などない。ボランティア的なスタイルで自主性に任せれば良いのだ。組織(教団)に対して寄付をしても良いと思う人だけが自発的にやればいい。




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広宣流布とはどのような状態を指すのだろうか。

創価は組織が拡大することが広宣流布だと主張しているが、
果たして、創価の会員数が増えることが広宣流布となるのだろうか。
池田名誉会長に名誉称号が授与され、その数が増えることが広宣流布につながるのだろうか。

現在の活動内容を考えてみる。
・純粋な教学にかける時間は1割以下
・人間革命を常に携帯し研鑽する、まるで現代の御書のように扱う
美化された創価の歴史を幾ら学んでも、それが何になるというのだろうか。そんな事に時間をかけるより、御書の拝読に全時間を使うべきだろう。
・各種の会合(会合の為の会合、事務連絡が大半、打ち出し目標の徹底)
・選挙支援活動や、新聞推進(集金)、書籍推進、チケット推進
創価の活動家は、聖教新聞の啓蒙・購読の拡大が広宣流布につながると主張している。だが、それは創価組織を美化してアピールしているだけで、それが日蓮仏法の伝道に直結しているかは疑問である。書籍も各種チケットも同様である。

いくら組織が拡大しようと、純粋な日蓮仏法の要素が薄いのでは価値がない。創価という組織が、日蓮仏法の実践行動としてふさわしくない打ち出しばかり出すようだと、逆に信仰の妨げになってしまう。

いくら会員数を増やしても、『永遠の師匠』に対する師弟不二。組織に対する忠誠心。そんなものを植え付けられても意味が無い。

いくら入会して会員が増えようとも、日蓮仏法への信を深め、教学を研鑽し、日々の生活の根本に置かなければ意味が無い。入会は単なるきっかけに過ぎない。創価の会員が増えることがイコール広宣流布では無い。

真の広宣流布とは、日蓮仏法を根幹として日々の生活に活用する事ではなかろうか。日々、日蓮仏法への信仰心を深めていく。身近な人に語り伝えていく事であろう。


創価を退会した人が、日蓮仏法すら捨ててしまう原因には、創価の指導に原因があるのではなかろうか。組織の打ち出しに服従することばかり教え込んで、追い詰めてしまったので、日蓮仏法に対する誤解を与えたのだろう。

STBや販促ビデオ等々でしきりに美化アピールをしているが、





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創価は巨大な中央集権組織である。日本全国に広大なピラミッド型組織を作り上げている。だが果たして、純粋な信仰を貫きたい人にとって、今の創価のような、全国統一的な組織活動など必要なのだろうか。

選挙支援=全国統一活動の典型

特に顕著なのは選挙支援活動である。選挙の時期になると、全国一斉に選挙態勢になる。本部中央組織から活動の指針の打ち出しが下りてくる。こうして末端の隅々まで統一的な活動が求められる。末端の会員の行動は、友人・知人・家族親類などへ候補者のお願いに回るのである。その行動の結果を、逐一上へ報告をあげなければならない。地区から支部へ、支部から本部へ、本部からゾーンや県へ、総県へ、最終的に本部組織へ吸い上げられる。水も漏らさぬ管理体制である。

選挙終盤になると恒例の「今回は相当厳しい」という激が飛び、活動家達へ更に鞭が入る。そうすると今まで当たって無い友人・知人を何とか探し出し必死になってお願いに周る。最早やっていることは選挙事務所のスタッフそのものである。これのどこが信仰活動なのだろうか。『集票マシーン』と言われても仕方が無い。

個人の幸福に全く関係ない全国統一活動

そもそも信仰の目的は、私達一人一人が日蓮仏法を根本に日々の生活に反映することだ。それぞれ個々の課題なのだ。そこに選挙支援活動など全く関係がない。新聞推進や書籍推進などが主体になるべきではない。個人の幸福の為の信仰活動のはずなのに、なぜ一々に中央組織まで報告する必要があるのだろうか。

創価はこれらの組織活動を『幸福の軌道の公転の役割』だと指導している。地球が太陽の周りを公転するように、宇宙の正しい軌道に乗っている活動だという意味らしい。しかし、この説明には相当無理がある。正しい軌道である根拠は一体何処にあるのか。何の根拠もないのである。

こんなものを『自分自身の戦い』『信心の戦い』に位置付けていること自体が間違っているのだ。こんなものを主体にしてる事自体が『組織おすがり信仰』に直結してしまう事に気付いて欲しい。

組織活動をするなら各地域ごとに

本当に必要な組織活動は、身近にある地域単位で考慮すべきだろう。それぞれの地域で課題が違っているのだ。地域のメンバー同志が話し合って活動方針を決めれば良い。その課題を重点的に克服する。『上位下達』の打ち出しをこなすだけの現在の組織活動よりも、それぞれの地域の特色に合わせた活動形態に切り替えた方が遥かに良いだろう。

地域単位に組織分割すべき

もっと踏み込んでいえば、現代に於いて、信仰の世界に巨大な中央集権組織など必要ない。信仰組織に専属職員など必要ない。有志達がボランティアで運営すれば良い。肥大化した巨大組織をそれぞれの地域単位で分割して、やっていけば良い。これが本当の意味での地域密着組織の姿だろう。



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信仰活動を続ける上で、疑問や、時には批判意見が起こるのは当然であろう。それに対していかに誠実な姿勢で向き合うかが大切になってくる。それぞれ、どのように対応しているか考察していきたい。

大聖人の姿勢

日蓮仏法の原点である大聖人の姿勢を拝したい。大聖人は「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(開目抄)と、自分が全生命を懸けて築いてきた理念・教義・行動が、もっと優れた智者に破られるまでは捨てることは無い、と宣言されたのである。ここに疑問や批判を拒否する姿など微塵も感じさせない。「批判があるなら、いくらでも来るが良い」との堂々とした姿勢であられる。

池田名誉会長の姿勢

池田名誉会長は、創価大学の第1回滝山祭で、批判意見に関して次のように述べている。
「そこで私が申しあげたいのは、創価大学に対しても、創立者に対しても、批判をしてはいけないということは一つもありません。いくらでも批判してけっこうです。また、私はご存じのように創価学会の会長であります。創価学会に対しても、信仰についてもいくらでも批判しても結構です。大学としても、学会としても、また私としても、反省すべきことは反省しなくてはならないし、改めるべき点はいさぎよく改めねばならない。諸君が創価大学に学んでいるのだから大学のことをはじめ、すべてに対して厳しい発言ができないなどという考えは、誤りである。皆さんが真剣に物事を思索し、言いたいことがあれば、何を言ってもよいし、いかなることを論じてもよい。自由奔放であっていただきたい。これだけは、はっきりと申し上げておきます。」(創価大学学生自治会編『創立者の語らい1』より)
疑問や批判があれば幾らでも上げるべきで、間違っていれば反省をし、改める必要性を説いているのである。非常に重要な発言である。組織の自己浄化作用には絶対に必要な要素であろう。

現在の創価の姿勢は

だが残念ながら、今の創価組織には、この姿勢は微塵も感じられない。会則や教義に対して疑問の声をあげれば、一応はマニュアル通りの回答はくれるが、それでも納得しない場合は、迷惑がられ避けられるようになる。それでも質問を続ければ、組織から無視されるような扱いを受ける事もある。

或いは、もっと本源的な所まで切り込む場合、つまり(選挙支援活動など)組織の方針に反対意見をあげれば、すぐに厳重な注意・指導がなされる。それでも反対行動を止めない場合は、その人を(除名という形で)排除するのである。

今の創価に欠けているのは、疑問や批判に真正面から丁寧に回答することだろう。会則変更に関しての疑問や批判もマトモに答えない。過去の歴代会長の発言との整合性の矛盾を指摘されても「事情が変わった。大謗法の地になったから」の一点張りである。挙句の果てに「ネットを見るな、信じるなという打ち出しがきている」そうである。(報道特集2017年5月27日)

現場の活動家達は疑問があっても、忌憚なく議論できる場など無い。質問をしても、その答えが「池田先生が作られた公明党だから信じる、同志を疑っちゃダメ」「本部の人達は池田先生に近い、薄給で頑張ってる同志達だから」「先生がお元気なうちに大勝利でお答えしましょう!」こんな答えにもなってないような言葉で納得せよというのである。

疑問を忌憚なく話し合える場を

宗祖や、かつての池田名誉会長がそうであったように、座談会や様々な会合の場で、疑問や批判があれば遠慮せずに意見を言える懐の深い姿勢が大事なのだろう。選挙支援活動に関しても、疑問があれば気軽に何でも話し合える場が必要なのである。


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以前の記事で査問などの証拠が出てきていないと指摘したが、ついに公に世に出てきた。埼玉の(元)創価会員の篠澤協司氏のホームページ『創価学会埼玉県審査会及び創価学会監正審査会との文書往復の全記録』を参照されたい。ここに詳しい経緯と、創価組織から送付された書類、篠澤氏から提出した書類が全て載っている。

なお、篠澤氏はTwitterでハメル准将というハンドルネームで活動されている。こちらでも詳しい経緯が載っている。

経緯を簡単に辿ると、池田名誉会長の平和思想をベースに検討した結果、安保法案は間違っているとの結論に達したこと。安保法案に反対の意向を創価組織に明言したこと。以後、公明党の支援を一切しないことを明言したこと。その影響で、正役職の地区部長の役職を解任されたこと。某三人組と行動を連携したこと。ネット上で創価執行部を批判したこと。ついに副役職も解任されたこと。反乱分子(『反創価学会』)として扱われたこと。地元組織から何度も事情聴取されたこと。自主退会を暗に促されたがキッパリと拒否したこと。これらにより最終的には除名処分を受けたとのことである。

思考停止をやめた結果

最後の感想で篠澤氏はこう述懐している「ことの発端は、思考停止をやめただけです。正しい基準のもと、自分の頭で考え始めただけでした。」これは極めて重要だろう。かつては創価組織からの上意下達の打ち出しをこなすだけの『ものを考えない人』であった。そこから覚醒した。創価中央組織は目覚めた人が多くなれば困る。容易に会員をコントロールできなくなるからだ。故に、そのような人の発言・行動に圧力をかけ除こうとする。

独善的で閉鎖的な組織

創価組織は、いつも『対話が大事』『対話の団体』だと対話を強調しているが、組織の中で、異なる意見を言う人を片っ端から査問し排除するようでは「言ってる事とやってる事が違う」ではないか。これでは独善的で閉鎖的な組織運営だという他ない。

同志(同じ組織で同じ教義の者)の意見すら徹底排除するような組織が、どうやって外部の人達・考え方や信奉する宗教の違う人達と対話が出来るというのか。「一丈のほりを・こへぬもの 十丈・二十丈のほりを・こふべきか」と仰せの通りである。協調など出来るはずもない。これのどこが『開かれた組織』なのだろうか。

組織の打ち出しに疑問を持ち、反対意見を挙げる人を片っ端から反乱分子(『反創価学会』)とみなし排除していく。このような実態を見ると、かつてのキリスト教カトリックの異端審問を想起するのは私だけだろうか。

本来ならば、問題意識をもって、堂々と改善提案をする人達こそ大切にすべきではないのか。そのような人達を排除していけば、従順に従うだけのイエスマンしか残らないではないか。そんな画一的な組織に何の魅力があるのだろう。



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