創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 創価の出版物

以前の記事で『私の人間学』の紹介をしたが、その中の三国志の章にて、諸葛孔明の北伐に関して、このように論評されている。

孔明は兵力、兵站の充実に努め、北伐への準備を進める。しかし、蜀の多くの重臣達は、現実の安定に甘んじ戦を嫌っていた。

(中略)

なぜ孔明が、この時期、多大な犠牲を覚悟の上で、魏との戦を決意したのか。それは、魏がますます力を増し、蜀を狙っていることを、既に見抜いていたからである。従って、自分の存命中に、先手を打っておかなければ、必ず魏は蜀を打ち滅ぼすに違いないと先を見通していたのである。いつの時代でも、責任深き指導者にしかわからない胸中の苦悩があるが、「出師の表」には、時代の先を知悉できるがゆえの孔明の悲痛なまでの背水の覚悟が行間に脈打っている。

(中略)

折しも蜀の国は、孔明の賢明な内政の実を得て安定に向かっていたが、その過程のなかで、重臣達の心はいつしか保守化し、次第にみずみずしい前進の息吹を失い、堕落と衰退の翳りが見え始めた時であった。

「出師の表」は、こうした蜀に巣くう安逸と惰性を打ち破り、創業の大理想に立ち返り、宮中府一体となって士風を一変し、国の危機を救わんとの孔明の強靭な一念から発した建白の書であった。

このように、
・孔明=善、心ある忠臣、深謀遠慮の将
・北伐=国を救う正義の戦
・それに反対する臣下達=悪、保身、堕落、衰退の象徴
という非常にわかりやすい構図に落とし込んで論評されている。

まるで、戦いをしない事は国の退潮につながり、戦に賛成しない重臣たちは保身の塊であり、安逸と惰性を貪る悪臣であると決めつけているのだ。

私は昔から池田思想を信奉していた為、この論評をそのまま鵜呑みにしていた。だが、最近になって三国志を深く検証するに従い、違和感を覚えるようになった。


類似した構図

この切り口を鑑みるに、創価の戦いを想起させる。創価も常に『正義の戦い』を強調してきた。「勝って勝って、勝ちまくれ!勝利、勝利の創価学会たれ!」と。

そして組織の打ち出し通りに戦わない人や、選挙支援活動や各種の購買ノルマに対して否定的な人、反対意見を挙げる人に対して「浅薄な連中が反対意見を唱えているが、池田先生や執行部のような責任ある指導者しかわからない構想がある。安易に批判すれば良いものではない」と同じように否定してきた。


北伐は本当に正しかったのか

そもそも大前提として、孔明の北伐自体を検証する必要がある。本当に北伐が正しかったのだろうか。

まず、西蜀という地域は元々、劉璋が治める州であった。その治世下では(他州に比べて)比較的に平和であった。それを劉備が軍事侵攻で奪い取ったのである。

『三国志演義』では、劉璋が、政治を投げ出し、民を顧みず安逸を貪るダメ君主のように描かれている。それを徳ある名君・劉備が悪政を立て直す為に止むを得ず侵略するという脚色がなされている。しかし『正史』では、劉璋は民想いの善良な君主であることが示唆されている。

劉備の統治下では、荊州出身の群臣や将軍達が重要なポジションを占めた。元々の西蜀の群臣達は従うしかなかった。

そもそも西蜀の民は戦争を望んでいなかった、西蜀の群臣たちも望んでいなかった。しかし劉備らの唱える『漢室再興』の美名の元に数々の大戦に従うしかなかった。反対すれば処刑されたり左遷されるだけである。なお劉備の皇帝即位に反対した者は(他のことにかこつけて)悉く処刑・左遷された。

諸葛孔明の時代になり、北伐に反対したものも同じく排除された。三国志演義によって、北伐=正義の戦に仕立てあげられているのだ。しかし、元々の西蜀の民から見れば、この北伐は今まで劉璋が統治していた時代に比べて、重い税負担、北伐の最前線への兵役、と苦難の連続である。

池田名誉会長には、この蜀の民の視点に立った発想が抜けていると言わざるを得ない。『正義の戦』の為ならば、それが国の将来を救う為なのだから、民の犠牲は止むを得ないという考えなのだろう。長年にわたって「聖戦の美名の元に民衆が犠牲になっては決してならない」「一人の民衆の為に」と指導してきた人とは思えない。

結果的に、この北伐は失敗に終わり、数次に及ぶ北伐の結果、膨大な国費が消耗され、蜀の国力が大きく疲弊してしまったことは覆せない事実である。諸葛亮亡き後も、姜維が北伐路線を引き継ぐことになるが同じく成果は上がらず、ここに国力の大半を費やしてしまった為、やがて蜀の国は滅亡してしまう。これを裏付けるように、正史『三国志』の撰者・陳寿は「姜維は文武ともに優れていたが、多年に亘り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた。小国(蜀)に於いて民の生活を乱して良いのだろうか?」という厳しい批評を下している。

そもそも、蜀の国を守る為ならば、北伐の必要は無かった。嶮峻な山脈という天然の要害に守られており、防衛に徹すれば、いくら魏が強大であっても易々と攻略されるようなことは有り得ない。危険なのは蜀の東側、つまり荊州側からの侵攻であるが、それは呉との同盟を盤石にし続ければ問題は無い。つまり北伐ではなく呉との同盟維持に努め、漢中での防衛強化に注力すべきであった。




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池田名誉会長の著書『私の人間学』。エッセイ集とも随筆集というべき本である。三国志や武田信玄・トルストイの『戦争や平和』・ゲーテの『ファウスト』・平家物語などをテーマにして、指導者論や幸福論・生命論・文化論・師弟論などが幅広く述べられている。

昔から私の愛読書だった。

池田名誉会長の著作は読んでいて非常にわかりやすい。切れ味が非常に鋭い。善と悪をハッキリと区別しわかりやすい構図に落とし込む。つまり、一方を善と認定すれば他方を悪とする。ある失敗の結果に対して必ず教訓的な原因を明言している。

私は、バリ活の頃は池田思想を信奉していた。故にこの本の見解を100%取り入れていた。だが、最近読み直してみると別の観点からの考察もあるのではないかと思うようになった。

特に武田信玄の跡継ぎである武田勝頼に対する見解と、三国志の諸葛孔明の北伐への見解である。
(長くなりそうなので別記事にてまとめる予定)



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(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

創価は、過去の池田名誉会長との対談相手の存在を無かったことにしたり、人間革命の改訂で見逃せない改変を行い続けている。

(以前の記事でも指摘したが)
人間革命の改変
『都合の悪い』対談相手の扱い

オーウェルの『1984年』で、主人公のウィンストン・スミスの仕事は歴史の改変である。党にとって都合の悪い事態になった場合、数字を変えたり、初めから無かったことにして辻褄を合わせる。

旧ソ連に於いては、スターリンの政敵となった人は歴史から抹消された。トロツキー等々。全国の図書館に対して当該人物の記述を抹消するように指示が出されたという。こうして「トロツキーって誰だっけ?」と人々の記憶から消されていった。


池田名誉会長は歴史に関して、著書『人生の座標』でこう語っている。
正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるのです。歴史は、歪めたりしてはいけない。歴史を"つくって"しまっては小説になってしまう。悪いことを隠し、格好のよいことだけを残しては、歴史書ではなく虚飾書になってしまう。歴史は客観的に正確に書き、証拠・証人を大事にしなければならない。

後世の為にも、有りの侭の正しい歴史を残さねばならない。


袂を分かった原島嵩氏や福島源次郎氏や石田次男氏などの評価も、単なる『反逆者』としてレッテルを張るのではなく、丁寧に調査し見直す必要があると感じる。そうして総合的に評価し直す必要があるのではないだろうか。



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かつて池田名誉会長は『無冠の友』配達員へ激励のメッセージを贈った。

広宣流布のための「破邪顕正の活字文化」――「聖教新聞」を配っておられる“無冠の友”の皆さまこそ「最高の正義の人」である。
「聖教新聞」の配達には、それ自体、折伏に通ずる功徳が現れる。永遠の生命から見れば、絶対に「勝利者」となる。究極的な幸福境涯となることは間違いない。
「配達即折伏」「配達即広宣流布」「配達即友好活動」「配達即拡大」である。
どうか“無冠の友”の皆さまは、お体を大切にしていただきたい。寝不足にならないよう、聡明に工夫しながら、「絶対無事故」でお願い申し上げたい。
「無冠即無事故」「無冠即健康」「無冠即長寿」「無冠即福徳」であれと、私も妻も、毎日、真剣に祈っている。
(『池田大作全集』第92巻所収)

これを読んで『違和感』を抱いたのは、果たして私だけだろうか。池田名誉会長は『会員の配達ありき』が大前提の発想なのである。

過酷な配達環境

これを書いた名誉会長は、真冬の北海道や東北での配達がどれほど危険かわかってるのだろうか?

配達作業で一番厳しい環境が、冬の北陸・東北・北海道の朝の配達だろう。創価バリ活ブロガーの記事(しばれた朝 記録的冷え込み 嵐の後の悪路面 最悪のコンディション 雪深い中の配達)を見れば一目瞭然である。これほど過酷な環境なのだ。真冬の大雪の日に、自分でやってみればいい。真冬の極寒の朝。悪天候の日。視野が悪い状況。雪が積もった道。自転車なら転倒リスクが高い。大怪我をするかもしれない。屋内との寒暖差も激しいので血圧サージ(血圧急上昇)が心配だ。

こんな環境下の『無冠の友』に対しても、『「絶対無事故」でお願い』だの、よくもまぁ言えたものだ。

配達員の奮起

配達員は『永遠の師匠』からの激励のメッセージで奮起するのだろう。極寒の早朝でも、荒れ狂う天候の日でも、「池田先生のお手紙を伝えるのだ!」と頑張って配達に勤しむのだろう。その結果、怪我をしたり、事故が起こったらどうするのだろうか。

本当に会員の体が大切ならば

本当に会員の健康を大切に思うなら、『お体を大切にして』欲しいのなら、即座にネット版に完全移行するか、或いはプロの業者に配達委託するかの提案をするだろう。それすらせずに、会員を都合よく使う事しか念頭にないのだろうか?


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聖教新聞の内容についての批評はこの際、置いておくとする。
この記事では「本当に会員の人達のことを第一と考えてるか」どうかを考察してみたい。
いつまで『無冠の友』配達員に頼るのだろうか。

過酷な配達環境

配達作業で一番厳しい環境が、冬の北陸・東北・北海道の朝の配達だろう。創価バリ活ブロガーの記事(しばれた朝 記録的冷え込み 嵐の後の悪路面 最悪のコンディション 雪深い中の配達)を見れば一目瞭然である。これほど過酷な環境なのだ。

配達担当の会員は『プロ』ではない。いつ事故が起こってもおかしくない。大雪・氷点下の気温・凍てつく寒さ。視界不良。路面悪路状況。自転車・バイクは転倒の危険が常にある。大怪我につながる。屋内と外気温との寒暖差が激しく、50代以上の方は特に、血圧急上昇による脳や心臓血管への影響が心配だ。車で行く場合、ガソリン代金等々は自腹である。配達で得る僅かな報酬もガソリン代で飛んでしまう。下手すればマイナスの場合もある。事故に遭遇する危険性もある、逆に自らが事故を起こすリスクもある。

梅雨の時期、台風が接近中の日。雨による視界不良。若者なら良いが、50代以降は心配である。現実に50代より上の配達員は大勢いる。

突然の緊急治療を要する体調不良や事故が起こったらどうするのだろうか。

会員の負担ありきの配達体制

配達員の負担を無くす根本的な解決策はあるのだ。既にネット版があるのだから、それに全面的に切り替えれば良いだけである。やろうと思えば即座に出来ることだ。本当に会員第一であれば即座にやっているだろう。それが出来ないのならば、せめて配達はプロの業者に委託すべきだろう。それすらせずに長年会員に配達の負担を強いている。これのどこが会員の一人一人を大事にしている組織なのだろうか。大いに疑問である。

『無冠の友に感謝』『先生のお手紙を地区の皆さんに配達する』『妙の照覧』だの。綺麗な言葉で会員を都合よく酷使する創価組織。『無冠の友』の純粋な信仰心から来る献身を利用してると言う他ない。人間主義を掲げ、生命の尊厳を訴える教団の機関誌が、その会員の犠牲の上に成り立っている構造なのである。

配達は労働ではなく奉仕作業扱い

詳しく言えば、配達員は「労使関係」ではない。配達業務は労働ではなく奉仕作業扱いなのである。労災に加入しているのではない。法律上でも配達作業は労働とはみなされない、『宗教的奉仕作業』とみなされる。労働基準法や最低賃金法等の労働者保護の法律は一切適用されず、仮に、不慮の事故に遭遇しても公的な労災補償などは一切ない。逆に、もしも配達中に視界不良や悪路面の為に自分が事故を起こせば、当然ながら本人が加害者としての責務を負うことになる。(販売店が加入している民間のボランティア保険のようなものが該当するようだが、いずれにせよ手厚い労災保険には遠く及ばない)

或いは代配の場合はどうなのだろうか。民間の保険にすら加入対象とは思えないのだが。

仮に、事故や体調異変が起こっても『自己責任』で創価組織は一切責任を取らない。(確かに、直接の雇用契約を結んでるわけでもない。法律上は責任を取る必要はない)。

手厚い待遇の社員・本部職員

一方、聖教新聞の社員や本部職員は当然ながら労使関係である。勤務中や移動中に何か事故があっても労災が適用されるのは言うまでもない。

創価と言う組織が、本当に大切にしているのはどういう人達なのか。一般会員の方々はよくよく考えて欲しい。本当に会員の一人一人が大事ならば、配達員と直接雇用契約を結ぶハズである。

新人間革命終了後の体制は

ネットの噂では「現在連載中の新・人間革命が終了すれば日刊体制も変わるのではないか」という憶測が飛び交ってるが、果たしてどうなのだろうか。仮にそうなっても『無冠の友』配達員の負担で成り立ってる現状は変わらない。(負担の度合いは幾分かマシになるだろうが)


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創価は過去の出版物を頻繁に改変する傾向にあるが、この『活動家のバイブル』ともいうべき人間革命も御多分に漏れず改訂(2014年に改訂された。改訂後は第二版)が加えられている。それを隅から隅まで調べるのは非常に骨が折れる作業であるし、なにより、まずは新改訂版を全巻揃えなければ始まらないので、なかなかハードルが高い作業である。

しかし、現在の所、その地道でハードルの高い新旧比較作業を行ってくれている有志を発見したので紹介したい。一人目は既に紹介したブログ「学会3世の憂うつ」の青蓮氏。もう一人はツイッター上で改変箇所をつぶやいている『さかーきー氏(sakakihirosshi )』である。彼らの地道ながら素晴らしい比較作業による成果を幾つか紹介したい。

「人間革命新旧版対照覚書 7巻 東北の寺院の挿話の削除は26頁に及ぶ。日尊(京都要法寺開基)が日興上人から破門された挿話の他、妙福寺、久川玄章(のち正信会他、久保川法章)の地蔵などの謗法払いの挿話も削除。後の久保川の軌跡を鑑みるに、さもありなんとは思う。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 9巻 小樽問答はまるまる改竄されているといっていいくらいだが、正宗の妙照寺を訪ねた妙龍寺の日蓮宗僧侶が旧版では村木景山(鈴木景山)なのに二版では出口啓進(田淵啓進)になっているのが気になる。理由不明。改訂担当者でないとわからないのだろうが、理由が知りたい。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 10巻 会社を無断で抜け出し平日の会合(!)に参加していた女子部員を山本伸一参謀室長(池田先生のこと)が叱責したエピソードが削除されてる。代田不二也(田代富士男、のち公明党参議院議員、砂利船汚職事件で辞職)は青年との表記で話を進めるため、筋運びに無理が。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 7巻 小岩支部長交代のエピソード 戸田城聖の挨拶のうち、「私と石田次男(小説石川幸男)の二人で支部旗を握って常泉寺にたっていればよい。小岩は今日からそのつもりでいなさい」という部分を削除している。東北の寺院、日尊が日興上人から破門されたエピソードも削除。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 10巻 岡山地区部長、岡田一哲(のち参議院議員山田徹一)の父が、身延派日蓮宗の僧籍を得たのち、基調社なる団体を結成、布教し、本尊までも自ら書写して信者に与えるというとんでもないところまでいってしまった。を「とんでもないところまで~」との評価の部分を削除。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 9巻 小樽問答の日蓮宗側 弁士の一人は元顕本法華宗の僧。旧版の顕本法華宗の教義の説明を二版は削除。血脈相承を否定し、経巻相承・直授日蓮(法華経・御書から直接教えを乞う)を立てる。血脈相承を否定し、大聖人直結・御書根本をいう現在の学会とどう違うとなるから?」リンク先

これらの指摘からわかるように、一般会員が気付かないうちに、創価は過去の出版物をドンドン削除・改変をしているのである。人間革命に書かれていることが『真実の歴史』ならば、何故こんなに数多くの削除・改変がなされるのだろうか大いに疑問である。都合が悪くなったら平気でこういう事をする組織なのである。恥ずかしいとは思わないのだろうか。


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我が家も人間革命、新・人間革命を全巻揃えているが、昔はバイブルのように貪るように読んでいた。かつて「人間革命は現代の御書である」と言った副会長がいたが、書かれている内容は果たして全て真実なのであろうか?

山本伸一の入信に至る経緯が事実とは違うという指摘がある点。初めて参加した会合に戸田会長がいて感銘を受けて即興で詩を披露して、自ら入信を決意したと記述されている点。実際には初めて参加した会合には戸田会長は出席しておらず、当時の教学部長(小平芳平氏)から折伏を受けたらしい。しかも頑固で入信に至るまで時間がかかったらしい。

昭和31年の国政選挙の件で、山本伸一が取り調べを受けた時、自ら大阪の警察に行って出頭したと記述されてる点。 実際には東京の自宅にいる所に警察がやってきたようだ。

幹部の退転の理由も果たして書かれている通りなのだろうか?例えば石川幸男の退転の経緯も真相はどうだったのだろうか。『観念的な信心で現場を軽視する』的な記述をされていたが真実は果たしてどうだったのだろうか。

私も昔は書かれている事が全て真実であると疑わなかった。今の創価の活動家も同じく全てが真実と信じて日々拝読しているのである。これが創作部分も混じっていると気付けばショックを受ける会員も多くいるだろう。フィクションなら「この小説はフィクションです」と明記して欲しかった。

重要なのは、組織の打ち出し内容を正当化させる為に、小説の一節を会合や指導で引用されている点である。もはや御書よりも人間革命の方が比重が大きくなっている。しかし、フィクションの小説の理想を、活動の根本原理とするには無理があるのではないだろうか。


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機関誌である聖教新聞。創価組織では、購読が入会の時の条件である。聖教新聞の推進こそが広宣流布であると位置付けられている。

「無冠の友」配達員の負担

『無冠の友』と呼ばれる末端の会員の配達員によって毎朝届けられている。定期的に『永遠の師匠』からの激励メッセージで『無冠の友』を称えるのは良いが、冬の雪道や、天候の悪い日、特に地方でバイクや車での配達が必須な地域などは事故の不安が常につきまとう。配達員の負担を考えれば全面的にネット化するか、配達を完全に外部委託に移行するかすべきなのに、未だに改善されていない。

ネットに完全移行できない事情

ネットに完全に移行できない理由は、おそらくは印刷をやめるわけにはいかない為であろう。印刷の業務委託だけでも莫大な費用が発生する。それと広告の問題もあるだろう。しかし『無冠の友』を第一に考えるならば、一刻も早くネット完全移行か外部完全委託に切り替えるべきであろう。大事故が起こってからでは遅いのである。

多部購読の実態

この機関誌である聖教新聞を会員が購読するのは普通なのだが、一家で2部あるいは3部以上購読してる世帯が非常に多いのだ。組織が『マイ聖教運動』と銘打って多部購読を推進しているのである。このようにして会員の重い負担の上に成り立っているのだ。

常識で考えてみたい。一般紙で2部以上購読している家庭など存在するだろうか。有り得ないだろう。だが、これが信仰の世界になると成立してしまうのである。

「世界広布」の実態は不明

一面には、世界のSGIメンバーが活躍してるような記事が連日飾っており、それを読んだ会員は「世界広布が着実に進んでるのだ」と感動するものである。私もかつては同じく海外広布のイメージを漠然と喜んでいたものだ。

しかし実の所は、同じ国・同じ地域を定期的に伝えてるのでは無いために、その地域が本当に発展してるかどうか不明なのである。創価は会員数の実数を公表してないので判断は難しい。むしろ衰退しているという指摘もあるほどだ。


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池田名誉会長と教学部代表による法華経をテーマにした対談集である。昔から私の愛読書であり、全巻を何度も読み直した。難解な法華経の入門書としては良く出来ている。創価学会員なら、しっかりと全巻通読すべきであろう。創価会員以外でも、宗派に関わらず読んで欲しい良書である。

なお、創価の歴史や池田名誉会長を賞賛し、宗門を批判してる内容は触れないでおく。読み飛ばしても問題ない。

宗門や他宗でも、このような平易な言葉で法華経を語る機会をどんどん広げて行って欲しい。様々な対談を期待したい。法華経が我々の日常から遠いものでは無く、日常そのものであると感じるようになることが重要である。

法華経が、一庶民である我々の為に説かれたもの、という視点が大事なのだ。我々の為の経典なのだ。あの難解な法華経の話は全て我々の己心の話なのだ。「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり。」(総勘文抄)との仰せの通りである。この視点から展開される対談や講義こそ、見る価値のある内容だろう。

教学的には、御義口伝、大石寺の日寛教学がベースである。

ちなみに、私が持っているのは2000年前後の出版である。最近の創価は、過去に出版された書籍を片っ端から改変しているが、まさかこれも現行版は改変されているのだろうか。そうでないことを切に願う。


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