創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 信仰と組織

(随時、校正予定)
「あなたはどこの宗教ですか?」と聞かれ「日蓮仏法です」「そうなんですか。では、創価学会とか日蓮正宗ですか?」「いえ、どこか特定の組織には所属してません。」このような会話はどう思われるだろうか。

広宣流布はどこか特定の組織がやらなければ成り立たないのだろうか。一人一人が日蓮仏法を信奉し、日々の生活の根本とし、人にも語っていく、それで良いのではないだろうか。

創価学会など、特定の宗教組織に引き入れようとすることが広宣流布なのだろうか。入会させて本尊流布させれば事足りるとでも思ってるのだろうか。本尊をバラ撒き指導が行き届かないと不敬が起こる懸念もある。組織活動が純粋な信仰心とかけ離れた方向になる場合もある。組織はあくまで補助なのだ。信仰を深化させなければ何の意味も無い。当ブログでも何度も指摘したように組織主義の弊害である。

折伏の時に、無理に創価(や顕正会や宗門)に引き入れようとするから相手が怖がるのである。相手は宗教組織というものを警戒しているのだ。では組織など一切無しで純粋に日蓮仏法を語ればどうだろう。相手は警戒心なしに話を聞いてくれるだろう。その結果、受け入れるかどうかは別として、これこそが純粋な仏法対話といえるのではないか。

もはやネット時代になり大聖人の御書は誰でも閲覧できるようになった。身延や宗門のみが情報を持っている時代ではなくなった。信仰の根本は大聖人の御書である。創価や宗門や顕正会の指導など受けなくても純粋に信仰を貫いていけるのである。そのような屹立した信仰者が求められてるのだろう。

大きな組織で形ばかりの信者数が増えても何の意味も無い。十大部すら読んでいない(そもそも知らない)信者が多すぎる。今まで組織でいったい何を学んでいたのだろう。信心とは組織活動などではない。大聖人の御書を隅から隅まで大切に読まないとはどういうことなのだ。そんな人達が何を語れるのだろうか。「先生が」「御法主上人が」こんな話をしても仏法を語ってる事にはならない。御書を心肝に染め日蓮仏法の思想を大いに語るべきである。

創価や宗門や顕正会などの組織に所属していようがいまいが、大事なのは屹立した信仰者かどうかである。将来、創価や宗門や顕正会が衰退して見る影もなくなったとしても、日蓮仏法を純粋に信仰する人達が増えていれば何の心配もいらない。組織に属さないので表面上の統計データには出ないが。そのような人たちが時代の底流をなすのだ。


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理想の信仰組織とは何だろう?簡単に答えが出るものでは無いことは重々承知だが、あえて考察してみた。

大原則として、信仰の主体はあくまでも自分自身であり、自身の生活の充実であり、自身の家族や友人の幸福なのである。組織はその為の補助に過ぎない。

大聖人の御入滅後、歴史的な見地から考えて、宗門が必要な時代もあっただろう。創価が役に立った時代もあっただろう。だが、現在に於いては『組織信仰』に陥りやすい故に、巨大な信仰組織の打ち出しそのままに活動する事が幸福につながるかどうかは疑問が多い。

強力な中央集権型の組織が必要な時代は終わった。これからの時代に必要な組織は、『御法主上人猊下』や『永遠の師匠』のような絶対的なカリスマが率いるのでもない。総登山で全国からかき集める活動では無く、選挙でハッスルする活動でもない。新聞推進に躍起になる活動でもない。僧侶の御説法を聞いて有難い気持ちになる信仰でも無い。

当然ながら会費やお布施など無い。全てがボランティアで成立している組織である。一方、全てが自分の判断と責任で動くのだ。

個人のつながりが大事だと考える。例を挙げれば、ざっくばらんに日蓮仏法を語り合える場。疑問があれば何でも話し合える場。身近な地域同士のつながりも良い。遠隔地同士なら、ネット座談会で北海道と沖縄と本州を結ぶつながりでも良い。志が同じ人達が集う場が大事なのである。教学を深める為にテーマごとに意見交換会を設けるのも良いだろう。その内容を公開し理解を深める材料にするのも良いだろう。ただし論争の場では無い。せっかくの同志との交流を争いの場にするならば不毛な時間となろう。

本尊は、大聖人御真筆の精密な複写が最も良いと判断する。

葬式は自らが主体的に行うべきである。家族葬が基本で良いのではないだろうか。儀式ではない、心である、身内の追善供養への心が大事なのである。日本人は形式にこだわり過ぎている。「僧侶や幹部が導師を勤めなければ成仏できない」という御書など無い。

ただし、これは現時点の宗門や創価の現状を見て憂い、このように考察した結論であって、将来的に宗門や創価が大変革を成し遂げて、信徒一人一人の為の組織へと変貌するならば、そこで活動するのも良いだろう。連携するのも良いだろう。その事も考慮して今後も信仰と組織の考察を進めていきたい。


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今、自分のやっている活動が本当に正しいのか。時には、立ち止まって考えてみることが大事だろう。組織主義に陥っていないか。『おすがり信仰』に成り下がっていないか。変な方向に走ってないか。相手の迷惑になっていないか。相手は嫌がっているのではないか。自分の活動がその地域に貢献しているか。等々。純粋な信仰心だけでは組織の打ち出しのまま盲従してしまうリスクが高い。常に自分を客観視し評価する習慣をつけるのが大切なのだろう。


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人間にとって純粋さというのは最も大事な要素だと思う。しかし、それが宗教団体に属していると、その感情を利用され、いつの間にか組織人間になり、組織に盲従するようになる。素直に純粋に信じることが何故危険なのだろうか。

婦人部が騙されやすい理由

特に婦人部などは純粋な人が多い、教学的には全然研鑽をしてない人が多いが故に、騙されやすいのだろうか。組織に妄信しやすいのだろうか。理性的に批判する能力というのが足りないが故にこうなるのだろうか。

宗教組織の実像

日蓮系の宗派に限らずに、あらゆる宗教団体で組織の中核をなしているのが、純粋な信徒である。組織に言われるがままに盲従する信徒達。これが宗教組織の実像であろう。洋の東西を問わず、宗教組織は、人間の純粋な信仰心に付け込み、組織に盲従にさせてきた幾多の歴史がある。

前提条件

仮に組織に盲従して、それが良い結果につながるとすれば、それには前提条件がある。その組織の行動が絶対的に正しく、その組織のリーダーが清廉潔白であるという条件が満たされなければならない。

日蓮正宗が『富士の清流』である時期はあったと考える。確実なのは日興上人が法主だった時代。トップが清廉潔白で人格的に優れた指導者であった時代、全面的に日興上人の指導に従っていれば間違いなかったであろう。

しかし、そのような大指導者が常に排出されることを前提としてはダメだろう。その後の大石寺系は俗物のような法主が次々に出てくるのである。そんな法主に「唯授一人の血脈相承」で神格化して絶対服従すると『おすがり信仰』になるのは明らかであろう。

屹立した信仰者とは

常に思索を続け、他の組織との比較を怠らない姿勢が欠けてるが故に、このような妄信に陥ってしまうのであろうか。

望ましいのは一人一人が確固たる仏法哲学を持ち、日々御書を研鑽し、思索を続け、その理念と現実の行動が一致しているかを常に検討し続けることだろう。純粋な信仰心と、常に客観視する視点、屹立した信仰者であるためには、この両方が必要なのだろう。


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創価の活動家や、法華講の活動家や、顕正会の活動家の人達に共通して言えることがある。長い間、その組織で活動を続けているほど強い結束力を持つコミュニティ的な存在が出来上がっているのである。それは非常に居心地のいいコミュニティなのだ。中には『地域そのもの』になっているケースもある。いつも一緒にファミレス等々で食事をしたり、組織イベントも含めて遊びに行ったり、中には家族ぐるみで付き合いがあったり、正月や季節行事とリンクしていたり。長年そのコミュニティの中で生きていると、そこから抜け出すのは難しく、他で生きていくことは考えられない。そのような人が大勢存在しているのである。

特に婦人部の方は、仕事を通じた社会とのつながりが薄いので、なおさら信仰組織でのコミュニティの影響を強く受けるのである。そのような人達に教義論争を持ちかけて論破したところで、負けたからといって組織を出ることはないだろう。論理よりもコミュニティの同調感情が優先されるのである。彼らの組織活動がもたらす結果や意義というものを客観的に批評する姿勢が欠けているのである。

例えば、創価の活動家の人達に、会則変更の矛盾点を幾ら追及しても、開き直って「今はそういう時代ではない」と答えるのだ。彼らは教義的な指摘から組織を出ることはしない。居心地の良いコミュニティがある限り決して出ることはないだろう。

そのコミュニティの中で、役割を与えられて、それを頑張ることによって認められることが信仰の目的になっているのだ。その結果が広宣流布につながり、世界平和につながると信じているのである。

そのコミュニティの精神的な柱になっているのが『永遠の師匠』や『御法主上人猊下』や『浅井先生』という偶像である。

願わくば、日蓮仏法を信仰する同志として、組織依存の『おすがり信仰』から目覚めて、一人一人が屹立した信仰者として歩んで欲しい。


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宗教にとって御利益(功徳)があるかないかは非常に重要だろう。当然ながら日蓮仏法においても功徳の有無というのは重要視される。

創価の功徳体験

例えば、創価の体験発表で「私は病気がちだったのですが、この信心を初めて御本尊様に祈って活動を頑張っているうちに、いつしか体も丈夫になりました。こんなに功徳を頂きました!」このような体験談は良く聞く話である。

それを聞いた創価の会員の人達からすると「やっぱり私たちの信心は間違ってないんだ。私も頑張ろう。」と純粋に受け止める。

宗門側から見れば

しかし、宗門の人達から見れば全く別の解釈となる。これが創価の会則変更前ならば「その創価の会員は、心の中で、大石寺の大御本尊様を受持し信を取っていたから功徳が顕れたのだ」という解釈になる。或いは、創価の会則変更後ならば「それは魔の神通力である。ニセ本尊を拝んでるのだから、正しい信心の功徳では無い、一時的には良いように見えても、この人は臨終のときに阿鼻地獄の苦しみを味わうだろう。」と解釈するのだ。

解釈次第

このように功徳という概念は、組織や立場や境遇によって、解釈次第によってどうにでも変わって来るのである。

本人が満足してれば良い

実際には、その功徳体験をした本人にしかわからない。本人が功徳があると確信しているのならば、それが真実なのだろう。

大聖人は、題目による功徳は計り知れないと仰せである。創価でも宗門でも顕正会でも功徳の体験をしても何ら不思議はない。それを「ニセ本尊による魔の神通力だ」何だのと無理矢理に否定することもないだろう。


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私は創価の会員の人達も、宗門の人達も、顕正会の人達も、皆等しく同志達と思っている。
それぞれが大聖人を信じ、広宣流布を願っているのだ。
ところが、純粋な信仰心の上に組織主義なるものが覆っていて、大きな障壁となっているのである。

創価は、この信心をするために、機関誌の購読、財務の負担、各種チケットの負担、機関誌の配達、選挙の応援、選挙活動、集金活動、信濃町詣で、等々、こんなものが信仰に必須とされているのである。会員の純粋な信仰心が組織活動に向けられるように利用されてるとしか思えない。

宗門は、お寺にいって僧侶の有難い説法を聞く、寺を中心とした各地区での集会、各種供養代、総登山に頻繁に行く、御法主上人への絶対的信仰、こんなものが信仰に必要とされているのである。

顕正会は浅井先生への絶対忠誠、強引な終末論的な勧誘、街頭での演説、過酷なノルマ、顕正新聞のノルマ、「法戦」のノルマ。こんなものが信仰に必要とされているのだ。

どの組織を見ても、純粋な信仰を貫く上で、逆に阻害になるような要素しか無い。

これらの組織は、大聖人の御書の一節を用いて、自分達の正当性を主張し、組織活動に向けられるように解釈してるのだ。

そしてお互いが敵だと教え込まされるのだ。自分たちの組織こそが正義だと主張し、引き入れることが救済だと信じて疑わないのだ。同じ日蓮仏法を信奉する者達が分断されている現実。まさに悲劇である。これが組織というものが持っている本質なのだろうか。人間というものは組織に依存し、偶像を崇拝しないと安心できないのだろうか。

同じ日蓮仏法の信者同志、仲良くすることはできないのだろうか。一人一人が目覚めて、組織に依存した『おすがり信仰』から脱却し、自分自身の信仰を取り戻すことはできないのか。


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日蓮仏法を信奉する、日本でも有数の巨大な寺院組織である。

何といっても活動の目玉は支部総登山である。支部の住職を筆頭に所属する法華講が参加する支部総出の団体登山ツアーである。「本門戒壇の大御本尊様と御法主上人猊下がいらっしゃる最も清浄な場所」らしい。登山することは、過去からの罪障を消し徳を積んで幸せになれる修行だと主張する。そして唯授一人血脈相承の御法主上人から有難いお話を聞けるのである。
宗門側は、南条殿御返事の「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」という御書の文言を根拠に総登山の重要性を主張しているが、大聖人御在世の場所は身延の事であり、南条などの有力な檀徒は直接大聖人に合って指導を受ける立場であった為に身延に行く意味があったのである(また、来臨という言葉を門下に対して使われるのも違和感があるが)。
一般の法華講員は総登山に何度も参加して頑張らねばならない為に負担が大きい。「当支部は誓願達成まで、あと〇〇%です」とノルマが厳しいのである。

巨大な僧侶組織を維持するだけで負担が大きい。登山費用に、各種御供養(塔婆代や、永代回向料、過去帳冥加料、納骨冥加料)に、日蓮仏法の信仰を深める為に、こんなものが必要とされているのである。ただ僧侶を養ってるだけの制度である。

登山に、御供養に、僧侶の御説法、こんなものが果たして広宣流布に必須なのであろうか?こんな環境だと『僧侶が上、信徒が下』に陥りやすいのは当然だろう。


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創価学会は、公称会員数827万世帯という日本最大級の宗教組織であるが。その運営は末端会員の重い負担の元に維持されている。
・機関誌である聖教新聞や公明新聞などの多部購読、
・新聞の配達員の負担、
・民音・美術館・書籍の担当者への負担、
・頻繁にある選挙活動による集票マシーン化、
・本部組織が集中する信濃町・大誓堂詣で、
・広布基金の負担、しかも総額も何に使ったのかも非公表。
・関連墓苑の購入負担
・各地に会館が建設される。牙城会や、守る会、王城会、白蓮グループなどがボランティアで担当する
・本部組織と外郭関連団体は肥大化し、その維持だけでも莫大な運営コストがかかるようになった。
それらは末端の会員からの重い負担によって成立しているのである。

選挙になれば手弁当で移動費も自腹。都議選の時期は全国から東京目指して結集するのである。それが功徳につながると信じているのである。

果たして広宣流布に、ここまで巨大な組織は必要なのだろうか?巨大な組織が無いと広宣流布はできないのだろうか。専用職員などいないボランティア運営の組織ではダメなのだろうか?肥大化した組織を再構築してスリム化すべきではないだろうか。

この組織体制、末端会員の重い負担の上に成り立つ巨大な組織、この先もずっと続ける気だろうか?本部職員という『現代の僧侶』、会員の浄財で飯を食べている連中を養い続けなければならないのだろうか?末端の活動家の中には年金暮らしの方も多いだろうに。なけなしの年金を切り崩して、組織維持の為に使われなければならないのか?


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信仰の目的はあくまでも自分の生活の充実であり、家族や友人の幸福である。その為に御書を根本に祈りを根本に日々の生活を充実しようと努力する。仏法対話も一人一人と一生をかけて続けるものであろう。どこかの組織に放り込めば広宣流布完了というものでは決してない。

組織というのは、あくまでも補助である。組織も時代によって変化する。必要に応じて変化する。戦後直後の戸田会長の時代は、東京の幹部が九州の人を折伏すれば、九州の人でも東京の会合に毎回通っていた。当時は指導の手段も乏しかった為に中心である東京中心の活動にするしか無かったのだろう。それが会員数の増加、連絡手段の発達に伴い段々と変化し、地方・地域単位となっていった。御書も出版物も普及が進んだから地域単位で指導ができるようになったのであろう。

今はネットで日本中・世界中の人と交流が持てる時代になった。御書や各種資料もネット上で閲覧できる環境になった。もはや固定的な枠組みに縛られる必要はない。時には組織の枠を飛び越えて自由に交流すれば良い。学会や宗門の人の区別なく交流するのも良いだろう。
将来的にはVR機能を利用したバーチャル座談会というのがあってもいい。例えば、沖縄と四国と東京と北海道の同志達で、遠隔地で物理的に直接会って対話が難しい場合など、ネット座談会ならすぐに集えて有意義な対話ができるだろう。

大事なのは、組織維持の為の活動、「会合の為の会合」をやるのではなく、一人一人の生活を良くする為に、人と会い対話を重ね糧にしていく事であろう。


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