創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 信仰と組織

創価は巨大な中央集権組織である。日本全国に広大なピラミッド型組織を作り上げている。だが果たして、純粋な信仰を貫きたい人にとって、今の創価のような、全国統一的な組織活動など必要なのだろうか。

選挙支援=全国統一活動の典型

特に顕著なのは選挙支援活動である。選挙の時期になると、全国一斉に選挙態勢になる。本部中央組織から活動の指針の打ち出しが下りてくる。こうして末端の隅々まで統一的な活動が求められる。末端の会員の行動は、友人・知人・家族親類などへ候補者のお願いに回るのである。その行動の結果を、逐一上へ報告をあげなければならない。地区から支部へ、支部から本部へ、本部からゾーンや県へ、総県へ、最終的に本部組織へ吸い上げられる。水も漏らさぬ管理体制である。

選挙終盤になると恒例の「今回は相当厳しい」という激が飛び、活動家達へ更に鞭が入る。そうすると今まで当たって無い友人・知人を何とか探し出し必死になってお願いに周る。最早やっていることは選挙事務所のスタッフそのものである。これのどこが信仰活動なのだろうか。『集票マシーン』と言われても仕方が無い。

個人の幸福に全く関係ない全国統一活動

そもそも信仰の目的は、私達一人一人が日蓮仏法を根本に日々の生活に反映することだ。それぞれ個々の課題なのだ。そこに選挙支援活動など全く関係がない。新聞推進や書籍推進などが主体になるべきではない。個人の幸福の為の信仰活動のはずなのに、なぜ一々に中央組織まで報告する必要があるのだろうか。

創価はこれらの組織活動を『幸福の軌道の公転の役割』だと指導している。地球が太陽の周りを公転するように、宇宙の正しい軌道に乗っている活動だという意味らしい。しかし、この説明には相当無理がある。正しい軌道である根拠は一体何処にあるのか。何の根拠もないのである。

こんなものを『自分自身の戦い』『信心の戦い』に位置付けていること自体が間違っているのだ。こんなものを主体にしてる事自体が『組織おすがり信仰』に直結してしまう事に気付いて欲しい。

組織活動をするなら各地域ごとに

本当に必要な組織活動は、身近にある地域単位で考慮すべきだろう。それぞれの地域で課題が違っているのだ。地域のメンバー同志が話し合って活動方針を決めれば良い。その課題を重点的に克服する。『上位下達』の打ち出しをこなすだけの現在の組織活動よりも、それぞれの地域の特色に合わせた活動形態に切り替えた方が遥かに良いだろう。

地域単位に組織分割すべき

もっと踏み込んでいえば、現代に於いて、信仰の世界に巨大な中央集権組織など必要ない。信仰組織に専属職員など必要ない。有志達がボランティアで運営すれば良い。肥大化した巨大組織をそれぞれの地域単位で分割して、やっていけば良い。これが本当の意味での地域密着組織の姿だろう。



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ジョージ・オーウェルの名作『動物農場』は世界的に有名である。旧ソ連共産党の腐敗を風刺した作品であることは周知の事実だが。今回、久しぶりに読み返してみた。すると、現代に於ける宗教組織にも通じるものがあると感じた。深く印象に残った箇所をピックアップしてみたい。

動物達は奴隷のように働いた。しかし働きながら彼らは幸福だった。自分たちのやっている全ての事は自分たち自身と、後から生まれてくる子孫たちの為であって、決して、のらくらしながら他人の者を盗む人間ども一味の為では無いことが充分にわかっていたので、彼らは、どのような労苦も犠牲も惜しまなかった。
(打ち出しノルマをこなすのは本当に厳しい、だけど「福運を積む」為に、身を粉にして組織活動に勤しむ。これが『幸福の軌道』なのだと信じさせられている)
「わしがもっと働けばいいのだ」「ナポレオンはいつも正しい」というこの二つの合言葉が、彼にとっては、全ての難問題に対する充分な回答であるように思われたのだった。彼は雄鶏と打ち合わせて、朝30分ではなく45分早く起こして貰うことにした。そして余暇(といっても、今では大した余暇も無くなってしまったが)にはいつも一人で石切り場に行き、割れた石を一荷分集めて誰にも手伝って貰わないで風車建設用地まで引っ張って行くのだった。
(地元組織から活動家がどんどん減っている。新聞配達などの人員がいない。自分が更なる負担を引き受けるしかない。これが『自分の使命』なのだと言い聞かせる。)
スクィーラー(豚の宣伝係)は演説する時には、いつも頬からポロポロ涙を流しながら、ナポレオンの英知と心の優しさと、あらゆる所の全ての動物達、とりわけ、他の農場で、いまだに無知と隷属の状態に甘んじている不幸な動物達に寄せている深い愛情について語るのだった。見事に出来上がったり、幸運に見舞われたりする事は、何でも全てナポレオンのおかげにするのが通例となった。
(ありとあらゆる会合で、幹部達が『偶像』を、これでもかとばかり賛美する。「先生は全てお見通しなのです!」「先生!ありがとうございます!」と賛美する甲高い声のトーンが特徴的だ)
農場は、今や繁栄の一途を辿り、組織も改善された。その敷地も、ビルキントン氏から買い入れた牧草地二つ分だけ広くさえなっていた。風車も、とうとう首尾よく完成し、農場には、専用の脱穀機と干し草用のエレベーターが備え付けられた。色々な新しい建物が増築された。
(本部組織も大きくなって、立派な建物が次々と増築されていった)
どういうわけか、動物たち自身は、前と比べてちっとも豊かにならないのに―――といっても、勿論豚と犬とは別だが―――農場は前より豊かになっているようだった。それというのも、一つには、豚や犬の数が非常に多いせいかもしれなかった。なにも、これらの動物達が彼らなりの働きをしなかった、というのではない。スクィーラー(豚の宣伝係)が飽きもせずに説明したところによれば、「農場を監督し、組織することは、どこまでいってもキリのない仕事だった。こうした仕事の大部分は、無知な他の動物達には、とてもわかりっこないような種類のものである。例えば、我々豚達は毎日『とじ込み文書』『報告書』『議事録』『覚え書き』などというまるで謎のような難しいものと取り組んで、大変な労力を払わなければならないのである。」とスクィーラーはみんなに説明した。
(本部の偉い人達は、先生のお膝元で、一般会員達とは違う特別な役目を負っている。だから特別待遇でも良いのだ。一般会員は彼らに『おまかせ』する。)
しかし、そうは言っても、豚も犬も、自分達が働いて食物の一かけらさえ生産するわけでは無かった。しかも、彼らの数は大変多く、食欲はいつも旺盛だった。
(中央の宗教貴族達を養うのは大変である)
他の動物達はどうか、といえば、彼らの生活は、彼らの知る限りでは、昔と変わらなかった。たいていは腹が空いており、藁の上で眠り、池の水を飲み、畑で働いた。冬は寒さに苦しみ、夏はハエに悩まされた。

昔と比べて生活事情が良くなっているのか否か、はっきりと見極めようとしたが、思い出せなかった。現在の生活と比べてみる基準が全くなかったし、いつも決まって「全てが次第に良くなっている事をハッキリ示している」スクィーラーの数字の表の他には、根拠にする資料も何一つないのだった。動物達にとって、これは解けない難問だった。ともかく今はそんなことをじっくり考えているような暇は殆ど無かった。
(出てくる数字は大本営発表の数字だけ。客観評価できる資料は殆ど無し。次から次へと下りてくる打ち出し目標によって、一般会員には考える暇を与えない。こうやって本部執行部に対する疑問を起こさせない)


この小説は、現代に於いても通じる、不朽の名作といえるだろう。ジブリアニメで有名な宮崎駿監督は「現代は、あの農場よりはソフィスティケイトされているような気もするけど、基本構造は、全然変わっていない。豚じゃなくて別のものに入れ替わっているだけ」と非常に鋭い指摘をされている。現代に於ける宗教組織でも酷似した構図ではないだろうか。


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日蓮仏法を根本に自分の日常生活に反映させていく。
その影響は自分の周囲(家族・友人・地域・学校・仕事先・等々)にも及んでいく

日蓮という人が、どのように考え、行動し、門下を励ましたか。その御振る舞い。国家観や、理想の国家像「世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん」とは。治世産業への着眼点に至るまで。
それを日々の御書拝読にて確認して、自分の中に取り入れていく、自分の生活に実践として活かしていく。

・礼儀・礼節・人の振る舞い
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」. 

・報恩という観点
仏教を学ぶ中で、忠義や孝養、そして師弟に対する報恩が大事だと感じる。

・依正不二の原理から
環境への配慮・自然環境との共存

・他者への配慮、病人への配慮

煩悩即菩提
・食欲のコントロール、物欲のコントロール

目的のために他者を陥れるなかれ
他者を殺すなかれ、
窃盗するなかれ、
食べ物を粗末にすることなかれ
エゴを戒める

これらは仏法以外でも様々な教え(宗教・道徳)で説かれているが、三世の因果律でなければ説得力を持たない。現世で、現世でなければ来世以降で、必ず自分に戻ってくるのだ。来世での因果を考慮しなければ真の抑制効果にはならない。「其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし」(開目抄)

この素晴らしい仏法哲学を周囲の人にも自然に語り、薦める。

これが日蓮仏法の信仰の主目的である。
組織はその為の補助の役割なのだ。ところが現実は組織の打ち出しを絶対視し、最優先し、その遂行に日々を費やして人生を浪費してしまう。そのしわ寄せが家族に向かい、負担をかけてしまうケースも多々ある。本末転倒も甚だしい。これでは『組織おすがり信仰』である。
ましてや、同じ日蓮仏法を信奉する人達が、組織が違うからといって互いに非難し合う姿はどれほど愚かな事か。『組織の論理』に凝り固まって本質が見えなくなっているのである。大聖人が御覧になれば、どれほど悲しまれるか。


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ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の一節に、このようなくだりがある。

信仰に悩める貴婦人は尋ねる
人間の幸福とは?来世とは?何によって証明し、何によって確信すればいいのでしょうか。

経験豊富な修道院の長老は諭す
「この場合、何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」
「どうやって?何によってですか?」
「実行的な愛を積む事によってです。自分の身近な人達をあくすることなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛を勝ち得るにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信が持てるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地まで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信じられるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験を経た確かなことです」

トルストイの二老人の記事にも書いたが、これが信仰の主目的なのだろう。

本来、信仰の組織というのは、これを補助する為に存在するのである。ところが現実は組織活動がメインになってしまっている。組織の打ち出しを欠かさずこなすことが『幸福の軌道』につながると教えられているし、思い込んでいるのである。


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創価が全て間違いと断じるつもりも無い、全て正しいと妄信もしない。戦後の焼け野原からの復興の時代に於いて創価の果たした役割もあっただろう。一方、宗門が全て正しいとも思わない、すべてが間違いと断じる事もしない。鎌倉・室町・江戸・それ以後の時代に於いて日蓮仏法を守り受け継いだ役割があった。それぞれの組織が理想に基づき活動をしている。仏法で説かれる『如来如実知見』ありのまま、一つ一つを正確に実態把握すべきである。

個人として、日蓮仏法を信奉する組織とどう関わるか。私の考えは、必要に応じて、創価の人とも交流すれば良いし、宗門の人とも交流すれば良い、顕正会の人とも交流すれば良い。ただし組織主義に取り込まれてはならない。教学の対話をするのは良いが、不毛な本尊論争や教義論争をすべきではない。無理そうなら交流を止めれば良いだけの話である。組織に飲み込まれそうになるなら、距離を取るか交流を止めれば良いだけである。某三人組の人達と交流をしても良いだろう。ただし組織の為の活動に入り込むのはお勧めしない。海外の日蓮仏法を信仰するメンバーとの交流も良いだろう。ただし言葉(特に仏法用語)が通じるか難しい点もあるが。

大事なのは、自分自身の生活の向上であり、自分の周囲の人達を幸福にしていく事である。その為に日蓮仏法があるのだ。あくまで人間の交流が大切なのである。

現在の創価は組織主義・組織維持の為の活動が主体である。主体が選挙活動・聖教や機関誌啓蒙・民音などの維持・本尊流布も成果ノルマ主義である。宗門も総登山に相も変わらず躍起になり、寺の僧侶に信仰の核心部分をお任せして、ご供養・おすがり信仰になっている。顕正会は終末思想で煽り無謀な勧誘活動を続けている。これらの組織の打ち出しを無条件で信じることは、結果として、視野狭窄になり『組織人間』となり『おすがり信仰』となる事が避けられないだろう。

組織はあくまでも補助である。組織は時代の必要性と共に変化をする。現在に於いて、いずれの組織も専門職員や専門僧侶というものは必要が無いだろう。宗教でメシを食っている『専門僧侶』がいると保身が強くなり組織信仰に陥る危険性が増すからだ。今後は有志によるボランティアで維持すれば良い。


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トルストイの作品に『二老人』という寓話がある。大文豪は、晩年、シンプルな民話や寓話に特に力を注いだ。簡素な表現形式を用いることによって、神と人間の本質を追及した内容が一般大衆にでも理解できるように配慮したのだろう。私も学生時代に読んで深く考えさせられた。

簡単にあらすじを述べると、

ロシアの農村の、エフィームという真面目で厳格な老人と、エリセイという気のいい快活な老人の二人が長年の宿願であった聖地エルサレムに巡礼の旅に出る話である。ロシアからエルサレムまでの徒歩の旅であるから、老人にしては大変な長旅である。

故郷を出発してから数週間が経ち、二人は旅の道中で通りかかった小ロシア国の村に立ち寄り食料などの用品を調達するなどしていた。出発しようとしたときエリセイは喉が渇いたので、水を農家の家に立ち寄って貰おうとする、エフィームは一足先にエルサレムを目指して旅立った。後で追いつく予定であった。

エリセイは水を貰いに農家の家に行き声をかけたがどうも様子がおかしい。よく見ると家の中で痩せた男や老婆や子供がぐったりと倒れている。この村は凶作の為に食料が満足に入手できずに飢えでいまにも死にそうな状態の人が大勢だったのだ。農作業の道具なども生きる為に全て売り払ってしまったという。

エリセイは持っていた食料を家の人達に与え、水も近くの井戸から汲んできてやった。家の人達は少し元気になり、とりあえず一段落したので、再び旅に出ようとしたのだが「もしワシが行ってしまったら、この人たちはまた途方に暮れてしまうだろう」と思い暫く滞在することにした。そして、農作業の道具や食料品や生活用品を自腹で購入してやったり、様々な手助けをしたやった。早くエフィームに追いつかねばならないという焦りはあったが、目の前の苦しんでいる人達を放置できなかった。「ああ、明日は草場も田んぼも請け戻してやろう、馬も買い、子供達に牝牛も買ってやろう。それをしねえでは、海を越えてキリストさまを探しに行っても、自分の心の中でそれを見失ってしまうことになる。まずなによりもこの人たちを助けてやることだ」そう決心して、更にしばらくの間この家の為に尽くしてやるのだった。

そうして、やっと目途がたって再び巡礼の旅に戻った時には所持金は4分の一以下になってしまっていた。この額では海を越えてエルサレムまでは行くことができない。止むを得ずエリセイは巡礼を諦めて故郷に戻ることにした。

一方のエフィームはエリセイをずっと待っていたが来なかったので、先に進むことにした。もしかしたらエリセイが進んでるのかもしれないし、どこかで合流できる可能性も考えて。

やっとこさエルサレムに到着し、さっそく復活大聖堂での聖餐式に出席しようと洞窟に入っていったが、そこは同じような巡礼者達で溢れかえっており、大群衆の行列に巻き込まれて目的のキリストの棺までは辿り着けそうになかった。仕方なく遥か前方を見つめて立ったままお祈りをしていたが、お棺の上の御明が厳かに燃えている礼拝堂の方をじっと見ていたら、なんとエリセイが見えたのだ。一番目に付く一番有難い場所に立って、まるで祭壇の傍にいる司祭のように両手を広げ、その禿げ頭が光り輝いていたのだ。

エフィームは六週間逗留して、あらゆる聖地を遍歴し終えて帰途についた。帰路の途中でエリセイと別れたあの村へ立ち寄った。村は見違えるように変わっていた。以前は食うや食わずの暮らしをしていたのに、今では皆がちゃんと食べていけていた。エリセイに助けられた家の主人が事情を語ってくれた「もしあの人が来て下さらなかったら、わしらは罪の深い体のまま死んでしまったに違いねえだ。わしらはすっかり気を落として、死にかけたまま、神様や人を恨んでいただ。ところがあのお人が、わしらの足を立たせて下さった。そして、あのお人のおかげでわしらは、神様を知り、善い人さまを信じるようになったのです。」

やがて、エフィームもようやく故郷の村に戻ってきた。そして久しぶりにエリセイと再会することになる。エリセイは自分の養蜂場で休憩していた。白樺の木の下に立って両手を広げて空を見上げていた。その禿げ頭は、エルサレムの礼拝堂で主の棺の傍に立っていた時と同じように辺りに照り輝いているように見えた。その光景を見てエフィームは聖地巡礼の感想をエリセイに伝えた「自分は、足じゃ行ってきたが、魂じゃどうだか怪しいもんだ」

エフィームは嘆息した。彼は、この世では神が全ての人に、死の刹那まで、愛と善行とをもってその年貢を果たすように命ぜられたのであることを、悟ったのだった。

つまり、神が説いたことは、目の前の困っている人を見捨てずに尽くしてやること。これが『神性』そのものだとトルストイは説いたのだ。ゆえに、その心は神に通じ、エリセイの魂はエルサレムの礼拝堂の棺の一番キリストに近い位置にいたのだ。一方のエフィームは厳格に聖地巡礼を行ったが、魂までは満足させることは出来なかった。

大聖人は「法華経を持ち奉処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」と仰せである。

信仰者の本質とは身近な人々に尽くすことである。どこか特定の場所に参詣しなければ幸せになれないというものでは決して無い。ましてや選挙支援活動の票集めが幸せにつながるなど有り得ない。今の創価がやっている活動内容(全てとは言わないが)はエフィームの聖地巡礼のようになってないだろうか。組織から指示される活動方針を規律正しくこなすだけになってないだろうか。願わくばエリセイのように、会員一人一人が身近な人の為に尽くして欲しい。それが屹立した信仰者ではないだろうか。


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「創価学会は、仏意仏勅の広宣流布の団体です。ゆえに、その中での私たちの活動は、全て広宣流布につながっているのです。私たちが信心に励み、学会活動に挑む中で直面する苦難には、全てに意味があるのです。」

「全員が組織に付き切って、学会のリーダーに育っていってください」仏意仏勅の学会の組織なくして広宣流布はない。組織から離れれば、自行化他の信仰の正道を踏み外すことになる。

「『有解無信』、つまり、教えを理解していても、心では信じていないという生き方もあります。それでは、どんなに教学に精通し、どれほど才能に恵まれていたとしても、一生成仏することはできません。」「どうか、何があろうが、『信』の一字を、深く、深く、胸に刻んで、広宣流布の大道を歩み通し、断じて幸せになってください。『信』によって結ばれた、地涌の固いスクラムは、いかなる力も、決して破ることはできません。」

「信心の筋金が入った人間とは、どういう人間をいうのでしょうか」との青年の質問に対し『永遠の師匠』が、「それは、一生涯、学会についてくる人間のことです。また、広宣流布に生きる先輩についていく人間のことです。たとえ、誰から怒鳴られようが、あるいは、蹴飛ばされようが、学会から引き離されようが、どんなことがあっても、学会につききっていくことのできる人間が、信心の筋金の入った人だ。」

よく創価がこのような指導をするが、これらの指導を全て組み合わせれば、組織の打ち出しを『無疑曰信』で受け止める組織人間を創り出す事にならないだろうか。

選挙活動に疑問を持つ人がいても、「普段は政治の監視もしてないのに選挙の時だけ動くのが、どうして広宣流布につながるのですか?」という疑問があっても、上記のような指導をミックスさせ、このような指導を受ければ、「選挙活動にも意味があるんだ。何があっても、どれだけ苦難があっても頑張ろう!」と発心するだろう。

仮に、これらの指導が正しいとすれば、前提条件がある。それは「創価の活動が全て正しい」場合のみである。世の中にそんな組織があるのだろうか。この世に存在するとは思えない。

ならば、活動家の一人一人が疑問を持ち、「この活動は本当に必要なのか?正しいのか?」という点を納得するまで時間をかけて徹底的に議論・対話を繰り返す事が重要ではないだろうか。今の創価に欠けているのはその点である。


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創価には信仰心が純粋で人柄が良い会員が多い。組織の言うことを疑いも無く全て正しいと信じている。自らの組織の教義変更も省みずに『日顕宗』を批判してるのである。法華講にも純粋な方が多いのである。だから『ニセ本尊』を攻撃することが正しい破折だと信じているのである。顕正会も純粋なる方が多いが故に浅井氏の終末論に感応してしまう。それぞれが他組織を攻撃し自分の組織に引き込むことが広宣流布の正しい道だと信じているのである。

私が残念だと思うのは、一人一人は純粋で素晴らしい人達なのに組織が違うが故にこうも分断される現実である。これらは元々は大石寺系で同じ教義解釈なのだ。皆が大聖人を信奉し広宣流布を心から望んでいるのである。

この現状を見れば、大聖人がどれほど悲しまれておられる事だろう。

考察すればするほど、宗教組織というもの、『組織信仰』の弊害を感じざるを得ない。

原点である大聖人の時代に遡って考察をしてみると、大聖人の御入滅後を見てみると、後継の弟子達の法門解釈の違いにより分断された。あるものは天台沙門と言い、本迹一致と主張し、本尊は釈迦だと言ったり、解釈がそれぞれバラバラになってしまった。後継者の事や、(大御本尊の件も含め)御本尊配布の事や、御自身の仏法上の位置付けなどを大聖人がハッキリと明示されなかったから(時代背景に於いて明示できなかった理由があるのだろう。当時は政治と宗教が分離されてなかった背景もあったのだろう、御成敗式目に則った裁判も宗教的権威の影響が大だった等々)という理由もあるが、だからといって、こうもバラバラに分断されるとは悲しい限りである。

大聖人は、釈尊の仏法が末法に於いて混乱してる姿を誰よりも嘆いておられた。釈尊の正法である法華経を正しく掲げない宗教界を嘆いておられた。当時の(唯一の正法であるはずの)天台宗でさえ、叡山でも慧心流と檀那流に大別され、更に細かい流派が作られていた。剰え「摩訶止観は法華経より勝っている」(止観勝法華説)とまで言い出す輩も出てきた。そもそも真言密教化している。その現実を熟知されていた。であるならば、御自分の滅後に、同じように弟子達が法門の解釈で混乱する事を考えなかったのだろうか。

大聖人は法門に対して厳格であられた。「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし」と勝手な解釈を厳しく戒められている。弟子達がそれぞれ自由な解釈をしても許される、というものでは決して無い。


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(思索メモ段階)
創価や宗門や顕正会の組織活動の現状を見ていると、どれも組織依存の『おすがり信仰』になりやすい傾向がある。だからこそ私は何度も記事にしてきたのだが。

しかし、それぞれの組織で確固たる信仰心を築き上げた人がいる。「グループ活動が楽しい」「池田先生の弟子として創価の活動に邁進して何の悔いもない」「次に生まれても池田先生の元に馳せ参じたい」ここまで言い切る人がいるのである。創価の組織で、このような体験ができ、生き生きとしてるのなら、きっと幸福なのだろう。そのような人は、今いる組織で誇りを持って信心を全うすれば良いと思う。それを否定する事は無いだろう。

組織に盲従する『おすがり信仰』になるのは人間として悲しいが、屹立した信仰心を打ち立てれるのなら、どの組織でも構わないと思うようになった。あくまで大切なのは人間であり、組織は補助に過ぎないのだから。

長年の活動で築き上げた人間関係、思想というものは簡単に捨てたり変更できるものでは無いのだろう。創価は創価思想で、宗門は宗門の思想で絶対に譲れないものがあるのだろう。ならば無理に否定しても逆効果になるのかもしれない。

ただし、各組織の矛盾点。活動内容や教義で明らかにおかしいと思われる所は指摘せざるを得ない。これは変わらないし、信徒の人達は自分の組織を客観視すべきだろう。仏道修行には『純粋な信仰心』と『客観視できる視野』この二つが必要なのだと感じる。


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かつて創価と宗門は国立戒壇を唱えてきた。戸田会長の時代から『王仏冥合』『国立戒壇』を主張し、それは池田会長の時代になっても同様であった。ところが国会の池田会長の招致問題が起こってから一転して否定の見解に変更した。宗門も同様に見解を変更した。顕正会だけが未だに国立戒壇を主張し続けているのである。この点に限れば、状況が変われば主張をコロコロ変える創価よりも、むしろ顕正会の方が一貫していて筋が通ってるように見える。

いずれも日蓮仏法を根本とするのは同様である。だが、現実社会の中で実践の活動が違ってくる。それぞれが別々の解釈をして、別々の実践行動をして、それが『正義』の行動だと主張をしているのだ。どれが正しい、どれが間違っている、と簡単に判断できるのだろうか。

今や創価の活動のメインは選挙活動である。立正安国論の現代的な解釈と実践行動が選挙活動だと主張しているのである。それが日本の平和につながる『正義の活動』だと指導される。都議選となれば全国の活動家が東京目指して結集して『集票マシーン』となり全身全霊の活動をする。

信徒の視点から見てみると、この組織活動に没頭した人達は何処に連れていかれるのだろうか。何が得られるのだろうか。何が残るのだろうか。一人一人が自分の組織のやっている実践行動が適切かどうか深く思索すべきだろう。


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