創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 創価の教義

これまでに幾度となく指摘してきたが、会則変更以降の創価の教義は矛盾が酷過ぎる。まさに自語相違そのものだ。このまま曖昧な状態を続けるのは会員の人達に対して失礼ではないか。やはり矛盾の部分を訂正すべきだろう。

創価の取るべき道は、以下の二つの内どちらかだろう

「永遠の師匠」の指導が誤りとする

常に大御本尊を根本にしてきた教義が間違いであったと認める。それは、創価が今まで行ってきた過去の『永遠の師匠』の指導が間違っていたと認めることにもなる。
既に創価は
「御書には弘安2年の本尊が出世の本懐であるとか、この本尊を根本とせよとかの説示はない」
との見解を示しているのだから、更にもう一歩踏み込んで「今までの永遠の師匠の指導が間違っていました」と過去の指導を否定するべきだ。加えて、日寛師や宗門の書写本尊を用いることをやめ、独自の本尊を用意すれば良い。そのようにすれば矛盾は解消される。

会則変更を元に戻す

それとも「2014年の会則変更が間違っていました」と謝罪し撤回するか。従来通りの「大御本尊を受持の対象にする」ように戻す。同時に、大聖人の出世の本懐に関して、大御本尊を図顕したことを昔のように明記する。このようにすれば過去の指導・実践との矛盾は解消される。



創価がどちらを選択しても自由であるが、兎も角も矛盾のない状態にするべきだろう。会員の人達の為に




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


大石寺第26世である日寛師が書写した本尊のベースは戒壇本尊とされている。
法華取要抄文段の中で
「 広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり」
と書写本尊は枝流であり、戒壇本尊こそが根源であると言い切っている。

日寛師は、大石寺系で、戒壇本尊が根源であると言い出した原点の人である。その書写本尊を使用するのならば、その根源である戒壇本尊を「受持の対象にする」のが大前提であろう。

日蓮仏法は「受持即観心」の法理であるから、受持とは「信受する」「信じる対象とする」ということである。

ところが創価は2014年の会則変更で突然、戒壇本尊を「受持の対象としない」と言い出した。つまり「信受の対象にはしない」ということである。しかし、日寛師の書写本尊は今まで通り使い続けるという。

根源である戒壇本尊を信受の対象から外しておいて、その枝流である書写本尊だけを使用し続けるというのは、誰がどう見ても筋が通って無いだろう。明らかに日寛師の教学に反する行為である。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

現在、創価の一般会員が本尊として自宅に安置しているのは、日寛師書写の五界略式本尊である。

創価はこの御本尊に対して一部改竄を行った上でカラーコピーをしていると指摘されている。具体的には、左下の霞んだ文字の所を明瞭にして、左端の授与書を削除して、文字の線を太くしたり伸ばした、とのことである。どうやら現存する元の状態のまま複写するのが都合が悪かったようだ。

この五界略式本尊であるが、日寛師が書写したベースは戒壇本尊とされている。
法華取要抄文段の中で
「 広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり」
と書写本尊は枝流であり、戒壇本尊こそが根源であると言い切っている。

しかし現在の創価は、この根源である戒壇本尊を「受持の対象とはしない」としている。もはや日寛師書写の御本尊に執着する必要はないと思われる。ならば、創価で独自の本尊を用意したらどうだろうか。

私自身は、大聖人の真筆の御本尊を「寸分違わずに精密複写」するのが一番良いと考えているが、創価はそのような選択をしないようだ。

それならば、池田名誉会長が自ら筆を取り御本尊を書写すれば良いではないか。そして創価の会則では、会長に『本尊認定権』があるのだから、それを創価の本尊として認定すれば良いではないか。

あの鯛焼き支部長も「正しい相貌があれば『本門の本尊』になる」と力説しているのだから。『永遠の師匠』が書写した御本尊ならば、会員達も疑う事無く深く信じる事ができるだろう。つまり『(鯛焼き流)三大秘法』が成立するわけだ。

そうなれば、宗門側から「ニセ本尊だ!」「改竄カラーコピー本尊だ!」と批判されることは無くなる。不毛な争いも無くなるではないか。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

現在、創価の一般会員に下付されている御本尊は、栃木県・淨圓寺が所蔵していた日寛師が享保5年に書写した略式御本尊である。(一説には、日寛師が入信して日が浅い信徒の為の『入門用』に書写されたものと言われている)

この御本尊の一部を改竄してからカラー複写したものだと指摘されている。具体的には、左下の霞んだ文字の所を明瞭にして、左端の授与書を削除して、文字の線を太くしたり伸ばした、とのことである。仮に、それが本当であっても大幅な改竄では無いだろう。根本的に大きな変更を加えてはいない。ならば、そこまで大きな問題とは思わない。

しかし、気掛かりなのは、この略式本尊は十界の諸尊が全て勧請されていないどころか、何と五界の諸尊しか勧請されていないのである。

大聖人の顕された真筆の御本尊でも、特に初期の頃は十界全てが勧請されていない御本尊が結構ある。だから絶対の条件というわけではないだろう。

ただし、大聖人の晩年・特に弘安期以降は十界全てが勧請されている御本尊が多い。佐渡以降から相貌・座配を様々に模索された結論がこの時期にあると見るべきだろう。

また、御本尊のサイズにも拠るだろう。信徒に下付される際に折りたたむなど小さなサイズの御本尊は略式の相貌にされたのだろう。逆に持仏堂など(皆が集まって祈願する場所)に安置する御本尊は十界全てが勧請されている相貌になっている。

「十界の諸尊が全て勧請されている御本尊でなければ仏界が湧現できない」とまでは思わないが、やはり我々は凡夫である。日蓮大聖人や日興上人とは違う。大聖人の御境涯ならば『楊枝本尊』のように『南無妙法蓮華経・日蓮』だけの相貌があれば他に足りないものはなかっただろう。

しかし、我々は凡夫なのだから。欠けている御本尊では、荘厳なる虚空会の儀式をイメージすることが難しい。従って十界の諸尊が欠ける事なく勧請されている御本尊(広式)が望ましい。

御書にも「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」(日女御前御返事)と仰せのように、十界全てが揃っている広式が望ましい。

そして看過できないのは、宗門と決別する前までは十界の諸尊が全て勧請されている本尊(日顕法主・日達法主が書写)であったのに対して、なぜ日寛師の五界略式本尊を選んだのか、会員には何の説明もされていないことだ。

対談『法華経の智慧』の中で、戸田会長が亡くなった年の元日に、最後の『新年の講義』をしたエピソードが語られている。寿量品の三妙合論(本因の妙・本果の妙・本国土の妙)がテーマだったらしい。体は相当衰弱していたが、その声は力強く訴えた。その中で、戸田会長が特に強調したのは『日蓮大聖人が本因の仏であられる事』だったという。真実の仏とは、娑婆世界という『現実の世界』以外にはいらっしゃらないという事である。

仏とは単なる架空の存在ではない。たしかに『架空の仏』は方便としては説かれてはいる。しかし『真実の仏』とは五濁悪世の中におられる。最も苦しんでいる衆生の中に分け入って、人々の苦しさ悲しさに同苦し、救っていく。それが仏である。傲慢な権力者からは弾圧され、増上慢の連中からは迫害され、救うべき衆生からも(無知・無理解から)憎まれ、悪口罵詈・杖木瓦石される。その大難の中にこそ仏はいらっしゃる。どこか安楽な別世界で、悟り澄ましているのが仏ではない。

大聖人こそ、まさしく末法における仏という見解である。

今の創価教学は宮田氏をアドバイザーに据え、様々な教義変更を模索してるようだが、まさかこの見解を変えるということは無いと思いたい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

創価は御書を用いているが、部分的に、自分達に都合の良い解釈をしている所が散見される。特に酷い事例を具体的に挙げる。

聖教新聞。2018年6月5日付け。寸鉄にて。
「仏法は皆師より習ひ伝へ給へり」御書。偉大な広布の師のもとで進む誉れ

実は、これと全く同じ意味合いの文章が、2007年10月14日付けの寸鉄に記載されていたのである。

御聖訓『仏法は皆師より習い伝へり』。師匠の指導通りに戦い進む門下たれ。

この寸鉄の文章を読む限り、「大聖人は『仏法は皆、師匠から習い伝わっている』と仰せである。だからこそ創価の『偉大な師匠』の指導通りに戦い進みなさい。それが誉れである。」と解釈するのが普通だろう。

この文章は妙密上人御消息の一節を引用している。しかし、妙密上人御消息を丁寧に拝読してみれば、意味が全く逆であることがわかる。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
この前段で、諸宗の元祖達が法華経を根本第一として読んでいない為に、『法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す』と厳しく断じておられる。しかし諸宗の弟子達は「我が師は法華経の心を得給へり」と思い込んでいる。そして、これらの誤った諸宗の弘教した仏法(他人の弘めさせ給ふ仏法)は皆師匠より習ひ伝へ給わったものであると仰せなのである。

一方、大聖人は、仏の御心が御身に入ったからこそ法華経の教え通りに題目を唱え、人にも勧めておられ、曲がった心が無い。聖人というのは、師匠がなくても自ら悟った人をいうのである。仏典には「我が修行には師匠の助けがない」と説かれており、天台大師と伝教大師がこれに該当し、当然ながら、日蓮大聖人も聖人に該当する。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
このような大意である。

あろうことか、大聖人の御見解と正反対の解釈をしているのだ。御書の一節を引用して、自分達の組織に都合良く解釈して、自分たちの正当性を主張する為に利用している。余りにも酷いと言わざるを得ない。これが創価の『切文教学』なのである。

創価の会員の方々には、御書の部分的な『切文教学』を学ぶのでは無く、御書全体を丁寧に拝読することを切に願う。いい加減な解釈をすれば、大聖人の御意思と全く正反対の解釈をしてしまう危険性がある。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

大御本尊を『受持の対象』から外すというのは詭弁だが、それよりも酷いのは、大御本尊を『出世の本懐』の記述からコッソリと削除したことである。


対談・御書の世界より
池田名誉会長
大聖人が「聖人御難事」を認められ、出世の本懐を遂げられることを宣言されたのが、十月一日です。法戦の全魂の指揮を執られながら、一方で大御本尊御建立の準備をしていかれたと拝せられる。

斎藤教学部長
広宣流布の激闘のなかで大御本尊を建立された、ということですね。

池田名誉会長
広宣流布に戦う信心強き庶民群の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。三年前の建治二年(一二七六年)に表された「報恩抄」に仰せのように、南無妙法蓮華経は万年の未来まで流布して末法の人々を救っていける大法である。しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。

ここまで明確に、大御本尊が出世の本懐であることを明言しているのだ。


一つの宗派や宗教団体がどうなろうと、大聖人の時代が変わるワケがない。出世の本懐は不変である。

しかし創価は、宗門との関係が決裂したからといって、700年前の歴史的な解釈まで変更を加えたのだ。本尊は根本中の根本である。そこに平気で変更を加えたのである。

対外関係の変化によって根本の教義をコロコロと変更する。こんな組織の教義など信用できるだろうか。全くできないのは明白である。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

創価は、草創期の戸田会長の時代から大御本尊が信仰の根幹であった。
「われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。(中略)私の願いとするところは、この弘安2年の10月12日の大御本尊様を信ずるということです。」
(『戸田城聖全集』第四巻)
それは池田名誉会長の時代も変わらず受け継がれていった。

2005年発行(第五刷)の対談『御書の世界』の中で、池田名誉会長は、大聖人の出世の本懐が大御本尊であると明言している。対談相手の教学部長も同様の認識の発言をしている。そして、広宣流布実現への固い信心が無ければ『大御本尊の偉大なる功徳』が現れない事を強調している。この時点では創価組織も池田名誉会長も、間違いなく出世の本懐は大御本尊であることを公的に表明していたのだ。(参考までに『蓮の落胤』氏のブログに同様の指摘が挙げられている。)

会則でも以下のように明記されていた。
「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする。」(2002年改正)
創価サイドの主張からすれば、この時点で宗門と決別をしてるので、大石寺は、既に『大謗法の地』になっているはずである。しかし2005年時点では『受持の対象』であることを維持していたのだ。

突然の会則変更

それから9年後の2014年に、突然に会則変更を行った。その中で大御本尊に関する根幹の変更があったのだ。それに関して原田会長はこのように説明した
「したがって、会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」
更に、大聖人の出世の本懐から大御本尊の存在を削除している。

この2014年の突然の会則変更で、それまでの創価教学の根幹ともいうべき大御本尊を『受持の対象としない』とし、大聖人の出世の本懐から大御本尊を削除するとは、驚愕である。

「受持の対象」を維持し続ける

しかし、よくよく考えてみると、宗門に破門されたのは1991年である。創価の主張だと、その時点で『大謗法の地』になっているのだから、その時点で出世の本懐と大御本尊への受持を外さねば筋が通らない。だが、この時点では受持の対象から外すどころか「大御本尊を宗門から取り戻す!」と息巻いていたのだ。

池田名誉会長のスピーチでも明言されている。
『もとより、大聖人の仏法に、聖職者と信徒の差別などない。あらゆる人々が、皆、大御本尊のもとに平等である。もしも、現在の宗門のように民衆の殿堂を私物化し、"差別の殿堂"にしてしまうのならば、それは大聖人の御心に背くことになる。ゆえに私は、この時、正本堂の意義を明快に語っておいた。 どこまでも「人間のための宗教」である。そして「民衆のための殿堂」である』 『「一閻浮提広宣流布」に進んでいるのは学会である。ゆえに、学会の「信心」こそが「一閻浮提総与の大御本尊」に深く通じ、大功徳を頂戴してきた。その「信心」あるかぎり、だれ人も大御本尊と私どもの間を"切る"ことなど、できるはずがない。 電波は宇宙を駆ける。月とも交信できる現代である。いわんや信心の「一念」は「法界に遍し」で全宇宙に通じていく。正本堂は、すぐそこにある。 ともあれ、ある人が言っていた。大御本尊の光が世界に広がることを妨げる者は、大聖人を破門する者ではないか、と。その報いは必然であろう』 『わが創価学会、SGIの同志の皆さまこそ、永遠に大御本尊をお守りしゆく「使命の仏使」であられる。その皆さまに、大御本尊の加護は絶対と確信していただきたい。信心とは、道理のうえに立った「確信」であり、その確信が一生成仏の因となる』
(平成3年12月8日 第四十九回本部幹部会)

一貫性がない創価の説明

このように整理してみると、創価の主張に一貫性が全く無いのがわかる。受持の対象から外したのが『大謗法の地』にあるのが理由なら、何故に1991年から2014年まで『受持の対象』を維持し続けていたのか。そして何故に2014年に突然、変更をしたのか。この矛盾を会員に丁寧に説明しなければ筋が通らないだろう。

(ちなみに正本堂の解体は1998年である。仮に、この時点をもって初めて『大謗法の地』になった認識だとしても矛盾は変わらない。)

(原田会長の説明では、大石寺が『大謗法の地』と化した主要因に、創価を破門した事が挙げられている為、やはり1991年時点とするのが妥当だろう。)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

今の創価が信奉しているのは、実質的に、もはや大聖人の仏法よりも、ラッピングされデコレーションされた池田哲学の方ではないだろうか。人間革命に描かれる池田大作は、常に庶民側に立って末端会員の為に奔走する理想の信仰者なのである。

創価の会員が本尊としているのは曼荼羅御本尊なのか、それとも偶像化された池田大作なのか。創価の会員に聞けば「曼荼羅本尊に決まっている」と答えるだろうが、実際には、人間革命で偶像化・理想化された池田・戸田・牧口の『永遠の師匠』という偶像が本尊になっているのではないだろうか。いつの間にか本尊の中身がすり替わっていないだろうか。

偶像化された池田大作を本尊とする点においては、某三人組系の方々や、宿坊の連中も本質的には同じなのである。違いは現執行部を是とするか非とするかの認識である。

しかし、果たして、それは悪影響をもたらすのだろうか。

一般会員は、理想化された『永遠の師匠』を信心のお手本にして「池田先生のようになりたい」「池田先生のように会員を大切にしよう」「池田先生のように職場で頑張り、地域のお手本になれるように頑張ろう」「いまの状況で池田先生ならどう動くか」皆はそう考えて行動するのである。そうすることによって人格が練磨され、生命が浄化されているとすれば、悪影響どころか逆に良い影響をもたらしているといえるだろう。

一般世間でも偶像を本尊とする人は多い。例えば、アイドルの熱心なヲタが数多く存在する。彼らはアイドルという偶像を本尊としているのである。この人たちは、アイドルから元気を貰うことによって日々の生活の活力となっている。日々の生活を頑張って、そうしてアイドルに貢ぎ続けるのである。ホストに嵌ってる人も同様の傾向であろう。

或いは歴史上の偉人に憧れて生き方の手本とする人もいる。これも実像ではなく(偉人伝などの情報に基づく)偶像であろう。或いは世界的なスポーツ選手や芸術家に憧れて熱狂的なファンになる人もいる。メディアから得られる情報は限定されているので詳しい実像はわからない。その対象はやはり偶像なのである。

結局のところ、偶像を本尊とする事が悪影響をもたらすのではなく、その本尊の浅深・高低によって影響が変わって来る。というのが正確な所なのだろう。

しかし、現実の創価の活動内容が、選挙の応援、多部購読・新聞推進・新聞配達、重い財務負担、書籍負担、イベント負担、このような内容が大半では理想と現実の乖離があり過ぎる。せっかく高い理想の『永遠の師匠』像を掲げているのに残念である。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

創価学会は2014年に会則の変更を行った、宗門の大御本尊を『受持の対象にしない』と明言した。加えて、宗門の分身散体の教義を否定した。

かつて、戸田会長は
「これは(民衆の苦悩を救うために、日蓮大聖人様が建立し遺(のこ)されたのは)、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れていますから、絶対だめなのです。」(昭和30年8月24日『戸田城聖全集』第4巻343頁)
と明確に宣言した。

その大御本尊を『受持の対象としない』という。それでは一体、会員が日々拝んでいる御本尊は何なのだ。日寛師が大御本尊を元に分身散体として書写したものではないか。その根本の御本尊を『受持しない』とはどういう事なのだ。戸田会長の話から考えれば「法脈が切れている」ではないか。『永遠の師匠』の指導と矛盾してるではないか。創価学会はこの点を会員に丁寧に説明すべきである。

宗門の教義は大御本尊に信を取る分身散体の教義である。創価は、一般会員に日寛師書写本尊を複写配布して安置している。あるいは大誓堂安置の本尊は日昇師書写の御本尊を板御本尊に模刻したものである。大御本尊を受持しないと明言したのであるから、これらの教義に反してるのだが、創価指導部はこの自語相違を丁寧に説明しなければならない。

創価の主張が余りにも矛盾が過ぎるのである。自語相違が過ぎるのだ。分身散体の教義を否定しながら、自分達はその分身散体の原理を用いて書写された(日寛師や日昇師)本尊を使っているのだ。その大本の大御本尊を受持の対象にしないと言い放っている。こんな子供騙しの論理が通用するワケがない。

大御本尊を受持の対象から外し、分身散体の教義を否定するのであれば、創価は(宗門の書写御本尊を使用せずに)自分達の独自の本尊を用意しなければならないだろう。そうしなければ自語相違が一向に解決しないままである。

信仰者にとって本尊は核心部分である。その部分に変更があったのに、一般の会員の方々は何も分かっておらず、選挙支援活動や新聞推進に一生懸命になっている。こんな姿を見るのが悲しいのだ。一人一人が御本尊について熟慮しなければならない。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ