創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 本仏論

対談『法華経の智慧』の中で、戸田会長が亡くなった年の元日に、最後の『新年の講義』をしたエピソードが語られている。寿量品の三妙合論(本因の妙・本果の妙・本国土の妙)がテーマだったらしい。体は相当衰弱していたが、その声は力強く訴えた。その中で、戸田会長が特に強調したのは『日蓮大聖人が本因の仏であられる事』だったという。真実の仏とは、娑婆世界という『現実の世界』以外にはいらっしゃらないという事である。

仏とは単なる架空の存在ではない。たしかに『架空の仏』は方便としては説かれてはいる。しかし『真実の仏』とは五濁悪世の中におられる。最も苦しんでいる衆生の中に分け入って、人々の苦しさ悲しさに同苦し、救っていく。それが仏である。傲慢な権力者からは弾圧され、増上慢の連中からは迫害され、救うべき衆生からも(無知・無理解から)憎まれ、悪口罵詈・杖木瓦石される。その大難の中にこそ仏はいらっしゃる。どこか安楽な別世界で、悟り澄ましているのが仏ではない。

大聖人こそ、まさしく末法における仏という見解である。

今の創価教学は宮田氏をアドバイザーに据え、様々な教義変更を模索してるようだが、まさかこの見解を変えるということは無いと思いたい。


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法華経は滅後、特に末法の衆生の為に重点が置かれている。それも何度も強調されている。釈尊滅後・特に末法の方が、在世よりも遥かに困難であると説かれているのだ。

闘諍堅固・白法隠没と呼ばれ、飢饉・疫病・地震・火災・不作・内乱・外乱が襲い掛かり、現実に、衆生が、最も苦しんでいる末法に於いて、現実に人間として生まれ衆生を救済する『菩薩仏』である。実際の行動は菩薩行である。

寿量品の「如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。」大聖人はこの経文を「此の経文は仏界所具の九界なり」(観心本尊抄)と仰せである。

日蓮大聖人が現実に末法の世に生まれて、法華経に説かれる通り、数々の難を受けながらも、現実に衆生を救われた。

現実に実態のある人間として、法難により数多くの怪我を負わされ、晩年には体調を壊し、重い腹の病気もかかりながらも、有りの侭の人間として振る舞われた。

現実の末法の世に仏が出現しないのならば、仏法は、法華経は何の為に説かれたのか。仏とは何なのだ。単なる概念に過ぎなくなるではないか。仏法で説く仏の存在そのものが虚妄になってしまう。



確かに「法」は絶対であり、重要なのは言うまでもない。しかし我々は大聖人の行動・実践を通じて日蓮仏法を学んでいるのだ。「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と仰せのように、御書は大聖人の『実践の日記』そのものなのだ。

いくら理論上で仏性が説かれていても、実際に末法に於いて、仏が現実に現れて実際の行動で法華経の偉大さを証明しなければ『絵に描いた餅』同然だろう。ここが身延系の思想とは違う点だ。やはり人と法が同一(人法一箇)でなければ真の仏法とは言えない。

釈尊は、『サンユッタ・ニカーヤ』で以下のように説いている
「ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
法は、一人の人間として体現されて、はじめて価値が発揮される。仏とは、観念的・抽象的なものではなく、生きたブッダの人格として具現されてこそ価値がある。

同じ鎌倉時代の道元。彼も法華経を重視したという。だが彼が現実の衆生を救う行動を起こしたのか。不軽菩薩や上行菩薩のように。民衆が苦悩にあえいでいる時に何もしなかったのだ。草庵に籠り著作に没頭しただけだ。法華経の心を何も実践していない。彼がいくら優れた感性を持っていたとしても何の価値も無い。



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諸法実相抄に「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」と仰せの通り、我々凡夫こそが無作三身(法身・報身・応身)をそなえた仏の実体である。

凡夫とは、もちろん別しては大聖人のことを指される。また総じては大聖人の教え通りに自行化他にわたって日蓮仏法を行ずる一切衆生がこの凡夫に当たる。

凡夫が本仏なのである。特別な能力が無い一般庶民が本仏なのである。ここが核心部分なのだ。だからこそ私は日蓮仏法を信奉しているのだ。

自分と大聖人の間に『隔絶』があってはならない。

いかなる宗教でも、神仏などの『絶対なる存在』が上であり、人間はその下に位置付けられてきた。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、実は凡夫の迹であり用(働き)である。まさに革命的な宣言である。

だからこそ、それを体系的に教義整理された日寛師が重要なのだ。

さて、このような文を書くと本覚思想と思う人もいるだろうが。本覚思想の歴史(起信論から天台本覚思想に至るまで)を様々に調べ検討したが、まずは「凡夫は本来仏なのだから何の修行もしなくて良い」という明らかに怠惰な思想ではダメである。


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日蓮本仏を否定する我説を延々と繰り返してる連中がいるが、御書を隅々まで丁寧に拝すると明らかである。

末法には「法華経もせんなし」

「上野殿御返事」(末法要法御書)に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但ただ南無妙法蓮華経なるべし」と仰せのように、釈迦の仏法が末法に通用しないのだから大聖人の仏法が必要なのである。末法に於いて、法華経を弘める大聖人が仏であるのは疑いようが無い。つまり、大聖人が『本仏』なのは言うまでもない。

主師親の三徳

大聖人は、『主師親の三徳』を備えた存在こそが仏であるとの認識であられた(一代五時鶏図、釈迦一代五時継図)。下山御消息にも「一身に三徳を備へ給へる仏」と書かれている。

開目抄や撰時抄や真言諸宗違目や一谷入道御書を読めば、大聖人が『主師親の三徳』を備えた存在であられることがわかる。御自分のことをハッキリと書いておられる。もしも仏は釈尊のみで、御自身は仏では無いと思っておられたならば、何の為に御自身に『主師親の三徳』があることを強調されたのだろうか。明らかに不必要な強調ではないだろうか。開目抄で冒頭から「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と『主師親の三徳』の重要性を強調されて、後段の章で「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と言い切っておられるが、これも全く不必要な強調になってしまうだろう。佐渡の命懸けの状況下で、(度重なる法難の為に)疑いが生じている門下達に対して確信を与える目的の御書なのに、そんな意味のない強調をされるはずが無い。

南無日蓮聖人

また撰時抄では「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計(ばか)りにてやあらんずらん」と、大聖人御自身を帰依(南無)の対象として位置付けている事を明言されている。

日蓮を以て正と為すなり

法華取要抄には「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く(中略)在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり」と仰せられている。つまり、法華経は末法の大聖人の為に説かれた、と仰せなのである。末法に於いて法華経を弘める人は仏であるのは言うまでも無い。

御自身と不軽菩薩との一致・符号を強調

大聖人は佐渡流罪以後、御自身と不軽菩薩との一致・符号を強調しておられる。それは、末法の教主・本仏として南無妙法蓮華経の大法を弘める御自覚があったからに他ならない。「彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(顕仏未来記)

釈尊の仏法は月、大聖人の仏法は太陽

諌暁八幡抄で「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり」と仰せである。これは、釈尊の仏法を月に、大聖人の仏法を太陽に譬えられ、月に勝ると仰せなのである。釈尊の仏法が法華経謗法の者を救済できないのに対して、末法の仏法は不軽菩薩と同様に逆縁の功徳によって正法を誹謗する『一乗の強敵』をも救うことが出来る仏法であることを宣言されている。また、釈尊の法華経が在世八年の間しか衆生を利益する力を持ち得なかったのに対して、大聖人の仏法は末法万年の衆生を照らす仏法であることを示されている。

法主聖人

また、滝泉寺申状では「法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り君の為民の為神の為仏の為災難を対治せらる可きの由・勘え申す」と御自身のことを『法主聖人』と明言されている。本来、仏法上『法主』という言葉は、中阿含経第49大空経に「世尊を法の本と為し、世尊を法主と為す。法は世尊に由る」と記され、同じく雑阿含経第1に「世尊を法主と為し、導と為し、覆と為す」と記されている通り、世尊・教主を指す言葉である。つまり、御自身が末法の教主として自覚されていた事を明確に示唆している。

上行菩薩の存在そのものが仏

「日蓮聖人は上行菩薩の再誕であって、末法の本仏では無い」と主張する者が多いが、そもそも上行菩薩の存在そのものが仏なのである。これは別記事にも書いた通り。当時の時代背景による制約も知らずに、大聖人が仏法上の自らのことを明言することが難しいという背景も考慮せずに、思い込みが激しい者が何と多いことか。

本仏否定派の信仰心は

「日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」等々と、未だにこんな不毛な主張を延々と繰り返す連中がいる。そんな解釈をすればするほど無駄な時間を費やしているに過ぎない。このような人達の多くが日蓮仏法を信仰の対象から外しているのは偶然だろうか。つまりは信仰心でも何でもなく単に知的好奇心を満たす為に主張しているに過ぎないのである。


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日蓮本仏否定派の根拠はこうである。
・大聖人や日興上人に直接本仏と明記された真筆文章が無い。
・弘安2年の大御本尊が、大聖人の出世の本懐である証拠が無い。非常に疑わしい。
大石寺第9世法主・日有師の代になって急に出だした。
・百六箇抄、産湯相承書、本因妙抄は偽書である可能性が高い。
 従って、「久遠元初」「久遠元初自受用報身如来」という教学的概念が否定される。
 (ただし開目抄で『無始の仏界・無始の九界』の明言がある。
   「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」と無始・無終の明言がある)
 (観心本尊抄に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」
  法華真言勝劣事に「三身相即の無始の古仏」とある)

では、なぜ日有師の代以降に御本仏、大御本尊、唯授一人の血脈相承ということが強調されだしたのか?それは当時の大石寺が非常に困窮しており、興門流は、蓮蔵坊紛争等々によって次々に分裂し弱体化し、代々の稚児法主による指導力の低下。このような状態から、大石寺の正当性を主張し「法主の絶対的権威」の元に興門流をリードしていく狙いがあったからである。
日蓮本仏否定派の主張をまとめると、このような主張である。


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そもそも上行菩薩とは、菩薩でありながら仏なのである。法華経の従地涌出品で地涌の菩薩が登場したとき、身は金色で三十二相を備えており無量の光明あり、と書かれている。これらは仏に備わる特徴である。また、仏である釈尊よりも荘厳だと説かれている。また、天台大師は法華文句で地涌の菩薩を指して「皆是れ古仏なり」と述べている。

法華経ではその後、神力品で釈尊滅後の法華経の流布を付属し託されている。すなわち教主のバトンタッチである。末法に法華経を弘める地涌の菩薩、そのリーダーである上行菩薩こそ仏そのものである。

大聖人もそのような認識をされておられるのが読み取れる「此の大菩薩は彼等にはにるべくもなき・ふりたりげにまします定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを」(開目抄)

御書(否定派は日蓮遺文と呼ぶ)に直接の記述があるとか無いとか、不毛な本仏否定論を繰り返してるのを見ると悲しくなってくる。


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