創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

カテゴリ: 選挙

(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

先日、沖縄県知事選挙が実施された。数人の立候補者がいたが、自民・公明が推薦する佐喜真候補と、オール沖縄として推薦する玉城デニー候補との一騎打ちであった。この佐喜真候補とは日本会議のメンバーであったとされる。辺野古移設に関しては明確に反対せず、実質的に容認の立場であった。

公明党は前回の名護市長選挙に続いて、またもや自民推薦候補を推薦する戦略に出た。

沖縄のことは言うまでも無く沖縄県民が決めることだ。本土が押し付けるべきではない。その結果を尊重すべきだろう。

一歩踏み込んで考えてみたい。沖縄県民の多数が「米軍基地は必要ない」と結論を出したならば、それがない状態での防衛体制を構築すべきだろう。その場合、自衛隊の大幅増強・再配備も必要になって来るだろう。防衛費の負担も増えることになる。しかし、それをいつまでも誤魔化し続けるのは卑怯ではないか。自分の国を自分達で守るという事を真剣に考える時に来ている。

組織あげての大量動員

今回の沖縄県知事選挙では創価組織が大量の動員をかけたという。 
公明の支持母体である創価学会は県内に数千人規模とされる大勢の人員を投入。選挙期間中3度沖縄入りした小泉進次郎氏の街頭演説会のうち2回で支持者を大勢動員した。県外からも電話作戦で佐喜真氏への投票を促すなど総力戦を展開した。
(記事ソース)
前回の知事選では公明党は”自主投票”でしたが今回は新基地賛成の候補を全国動員で応援している。我が家にも関西から幹部がきて、”オール沖縄は共産党。デニーでは経済発展ができない”とデマ宣伝を繰り返している。
(記事ソース)

実質的には、辺野古に新基地建設を容認している佐喜真候補を推薦し、組織あげて大量動員して応援する。創価・公明党がやっていることは押し付け以外なにものでもない。

動員された会員は沖縄に乗り込み、佐喜真候補へのお願いに回ったり、候補者の演説が盛況のように見せる数合わせの為に聴衆に加わる。それが池田名誉会長への報恩感謝に直結するとばかりに頑張るのだ。彼等は沖縄県民がどれほど米軍基地に苦しめられてきたか、基地の無い状態を願っているのか、その気持ちなど考えもしない。組織の言う通り何も考えずに動くだけだ。そしてこんなものを法戦と称し日蓮仏法の実践法だと主張する創価組織のやり方には心底呆れる。

今回、玉城デニー候補の陣営で創価会員の三色旗が目立ったが、あの方々の気持ちもわかる。沖縄県民の心を踏みにじる行為を許せなかったのだろう。たとえ組織に睨まれようが移設反対の意志を示さねばならないという止むに止まれぬ行動だったのだろう。


(以降、時間をかけて記事を書き上げていく予定、まだまだ一部)



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かつて池田名誉会長は『新・人間革命』第13巻でこう訴えた。
彼の提案は、これまでに沖縄に何度も足を運び、その現場を見て、さまざまな人びとと対話を重ねる中で、練り上げてきたものだった。核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になってこそ本土復帰であるーーそれが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一(池田名誉会長)の信念であった。」

この視点に立って最も虐げられた沖縄の平和を第一に行動するのが創価の方針だったはずだ。沖縄には米軍基地があり、これまでに地域住民の方々は悩まされてきた。住宅密集地にあり、世界で最も危険な基地とされる普天間基地。事故に常に怯えながら暮らす日々。米軍兵士が起こした事故や犯罪・トラブルに苦しめられてきた。公明党の地元組織も沖縄の住民の立場を尊重して動いてきたはずだ。

沖縄の人々が切に願う基地の県外移設

沖縄の人は基地の県外・海外移設を求めている。これまで米軍基地があるが為に様々に苦しめられてきた。また、一度戦争が起これば殺戮の前線基地としての役割を果たす。かつてベトナム戦争では沖縄の基地からはB-52爆撃機が、連日のようにベトナムへ向けて飛び立っていた事実を忘れてはならないだろう。

もしも、沖縄の地元の人達が「日本の防衛の為には米軍基地が必要なのです。中国の第一列島線への防衛ラインとして米軍基地は不可欠なのです。その為には我々の犠牲は甘受しなければなりません。」と言うのならば当該記事など書く必要もない。しかし現実には沖縄住民の大半は県外移転を切望している。

日本政府は辺野古へ移設して実質永久的な固定化を狙っている。公明も創価もこれに加担することは『核も、基地もない、平和で豊かな沖縄』という池田名誉会長の思想に反することになる。

実質的な移設容認

政府・与党の推薦候補は、今回の名護市長選では基地移設のことに一切触れない戦法に出た。『争点隠し』に徹した選挙戦だった。地元経済の拡充策を強調した。しかし、辺野古移転に反対していないということは、このまま工事を止めるつもりもないし、移設も止めれないということだろう。実質的に容認姿勢である。

従来の方針から転換

これまでは全国的には政府・自民に追従していても、沖縄創価・公明では地元の民意を汲み取り基地反対の姿勢を貫いてきたようである。しかし今回の名護市長選挙で状況が変わった。辺野古移設に容認姿勢と見られている候補を推薦したのだ。その候補を推薦しているという事実を考えなければならない。

全国組織的に推進

『蓮の落胤』氏のブログによれば、今回の名護市長選挙では何と、公明党が推薦している候補への事実上の投票依頼・支援活動推進が全国創価学会組織において通達されていたようである。ひとつの地方選挙に対して全国組織的に推進するなど信じられない。沖縄住民の純粋な民意によって決められるべき地方選挙なのに、地方の民意が全国組織によって影響される構図になってしまうのだ。

創価の「平和」は空虚な戯言

では一体、創価が言う平和とは何のことを指すのか。「沖縄は永久的に基地を我慢せよ」というのか。結局は沖縄の犠牲の上に成り立つ平和を言うのか。創価は綺麗ごとを並べ立てているが、実際やってることは『沖縄の犠牲ありき』の米軍戦力バランスの上に成り立つ軍事的均衡への賛同である。

いくら『沖縄に幸福と希望の楽土を築こう』と綺麗な言葉で飾っても、その沖縄の人達に基地を永久的に押し付けて、その弊害(米軍兵士の犯罪・事故・トラブル、それを裁く権利すらない立場、軍用機や軍用部品の落下事故リスク、等々)を地元地域の人達に押し付けて、その犠牲の上に『幸福と希望の楽土』が築けるとでもいうのだろうか。

加えて、中国の人権弾圧への傍観も考慮すれば、創価組織の言う平和など空虚な戯言としか思えないのである。

末端会員が加担してしまう構図

そして、この実態を見極められずに創価組織の並べ立てる美辞麗句を信じ込んでいる末端会員の人達。彼らは組織が応援する候補が勝つことが平和の実現に前進していることを盲目的に信じているのだ。その結果が沖縄の犠牲を永続化することであっても。自分達がそれに加担したことも気付いていない。しかし、彼らはそのような現実を見ようとしない。「この勝利で池田先生の平和の構想がまた一歩実現に近づいた」と信じているのだ。ここに『組織おすがり信仰』の根本的な問題がある。


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選挙の時期が来るたびに強く思う。

会員は「集票マシーン」と化す

創価が組織をあげて、日蓮仏法とは何ら関係のない選挙支援活動を『法戦』などと称して、功徳があるだの、冥の照覧だの、宿命転換が早くできるだの、池田先生への報恩だの、美辞麗句を並べ立てて、純粋で疑うことを知らない会員を『集票マシーン』としてこき使う構図を見ていると我慢が出来ない。

いつの間にか信仰の目的が選挙支援活動にすり替えられているのだ。『師弟不二』という魔法の言葉を刷り込まれ「池田先生の正義を証明する」為に選挙支援活動に奮闘し「大勝利を勝ち取らねばならない」と思い込まされる。相手から強く反対されるとそれを『難』と呼び宿命転換のチャンスだと教えられる。結果、ますます集票活動に没頭するようになる。

全てを奪われ何が残るのか

同志の方々がこのような愚かな活動をしてる姿を見ると心が痛む。御書を学ぶ時間を奪われ、家族を大事にする時間を奪われ、手弁当で候補者の為に走り回る。残りの人生も、一生涯に渡って選挙支援活動を続けるのだろうか。こんなことを繰り返して後には一体何が残るというのか。膨大な人生の時間を浪費し、友人を失うだけだろう(何度も執拗に依頼された友人も迷惑であろう)。こんなことをする為に日蓮仏法の信仰を始めたのでは無いだろうに。

宗教貴族どもが喜ぶだけ

創価の会員の方々は一刻も早く気付いて欲しい。どれだけ必死に頑張っても結局は「信濃町界隈の宗教貴族どもを養っているだけ」である事に。しかし今の流れのままだと気付く日は一生来ないのだろうか。


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昭和31年の大阪の選挙戦に関して、長年、自分がずっと抱き続けていた『違和感』を文章化してみる。

資質に疑問がある候補者

この昭和31年の大阪の選挙戦とは、国政選挙の大阪選挙区での創価組織あげての選挙戦である。擁立したのが白木義一郎氏、元プロ野球選手で政治経験が全く無し政治の知識も無し。こんな人を国会議員にしようとした戦いなのである。(この時点で既に人選に疑問符がついてしまうのだが、人材がいないならば止めておけばよかったと思うのは私だけだろうか)

美化エピソードの筆頭

この『昭和31年』は創価の会員なら知らない人はいないほど有名で、大百蓮華や他機関誌に何度も特集されている人気のテーマである。池田参謀室長の伝説的な活躍。伝説的な指導。池田参謀室長の指導がいかに凄かったか、一念が凄かったか、気迫が凄かったか、等々を、当時の関係者達が『証言者』として次々に登場する形でエピソード形式で語られるのだ。創価の美化エピソードの中でも最もデコレーションされたものだろう。選挙が近くなると、このような記事を見て、会員の人達は「大勝利をもって先生にお答えしよう!」と奮起するのである。

池田名誉会長自身も、後年スピーチ等々でこの選挙戦を振り返り『“まさか”が実現 』(当時の一般紙の見出し)のフレーズを強調しているぐらい創価の歴史にとっても重要な位置づけなのだろう。

ただの集票行動

しかし、よく考えると、結局のところ、会員達は友人・知人達に選挙のお願いに行くのである。「あなたの選挙権を使って自分たちの候補に入れて欲しい」というお願いに行くのである。ならば、政治の話をもっともっとしなければならないだろう。お願いする本人も政治の勉強をもっとしなければならなかった。

しかし実際は、折伏や組織活動が主体であり、政治の勉強など微塵もしていないのである(折伏は尊い行為であるが別次元であろう)。総責任者の池田参謀室長が政治の勉強や話を全然していないのである。そりゃその下の人達もそうなるだろう。その弊害が出てくるのも当然であろう。

人間革命にも記述されているが、当時の障碍者グループがガソリンスタンドの前に整列をして各々が首から候補者のポスターを吊るして立ち、道行く人達に呼びかけたのである、これは明らかな公職選挙法違反である。幸いにも、この件は注意で済んだようだ。

だが、その弊害の最たるものが顕れる。昭和32年の『大阪事件』と呼ばれる事件である。選挙期間中に有権者を買収する公職選挙法違反をして逮捕された会員が出たのである。もしも政治の理念や民衆の権利などをしっかり勉強していく運動であったならば、このような事が起こるはずもない。そういう事をちゃんと教えなかったばかりに、会員達は勝利至上主義に走り「とにかく勝たねばならない」と気が流行る余りこういう行動を起こしてしまったのではないだろうか。

自由民権運動のように

この組織活動の指導の時間の代わりに「みんなで今の政治に何が必要か考えよう」じゃダメだったのか。今の政治に足りないものは何なのか。民衆の権利とは何なのか。政治を監視するとはどういうことなのか。こういう重要なテーマを時間をかけて勉強したり議論したりする内容じゃダメだったのか。諸外国や日本の市民の権利や選挙権の歴史的経緯の学習など。かつて板垣退助が起こした自由民権運動で一般市民達が旺盛に学んだように、会員も猛勉強し思索する活動をすべきだったのはないだろうか。

原点から間違っていた

『昭和31年』を模範とし、これを原理原則とするところに全ての原因があるのだ。ここから「法戦の原点である昭和31年」「勝たなければ正義は証明されない」「一念に億劫の辛労を尽す」「師弟不二」「不可能を可能にする戦い」というような有名なスローガンが生じるのだ。これが創価の会員の行動原理になっている。「選挙は功徳が出やすい」「選挙は宿命転換が早くできる」と指導され、選挙活動が信心の次元になっているのも、ここを原点とするからであろう。

創価の選挙活動家と話が噛み合わないのも当然なのだ。彼らは候補者が当選するまで選挙支援に一生懸命になり、あとは当選した同志にお任せするのである。その後は政治の監視など一切しないのだ。これも『昭和31年』の戦い通りである。”伝統”をそのまま受け継いでいるのだ。

この『昭和31年』を根本原理とし続ける限り、今後も創価の選挙活動家達は何も変わらないだろう。会員の人達は(国民主権と信教の自由が確立された現代に於いて)「政治と信仰の次元は全く異なる」ということに気付き目覚めて欲しいものだが、それは期待薄なのだろう。


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現在の創価の選挙活動を見るにつけ、公明党が自民党に追従してる情けない姿を見るにつけ、不祥事を起こす議員が続出してる姿を見るにつけ、創価は政治に進出すべきではなかったと思う。

御書にない「法戦」

もはや今の創価は選挙活動がメインであり、そこから信仰の功徳が得られ『宿命転換』につながると信じている活動家がいかに多い事か。創価では『法戦』という仰々しい用語があるぐらいだが、しかし御書の何処にもそんな言葉などない。大聖人の御指導とは何の関係もない造語なのである。

「お任せ」して監視せず

活動家の人達は、組織の打ち出しの通りに選挙活動を必死に頑張って、公明党の議員を当選させて、あとは「信心してる同志達だから」という理由で、一切をお任せし、その後の政治の監視など一切してないのである。これでは白紙委任状を与えたようなものではないか。国民の不利益になるような政治活動をしていても、その実態を全く知らないのである。

政界進出の出発点

創価の政界進出の歴史は、戸田会長の時代が出発点である。「政治を民衆の手に取り戻さなければ、真実の社会の繁栄は、永久になくなってしまう」という理由で『人類意識、真実の平和主義に立脚した政治家』を輩出する為に政界に進出した、という説明をしている。

本来の政治との関わり方とは

しかしながら、民衆の為の政治を実現する方法は他にもあったのではないだろうか。つまり、一人一人が常に政治について関心を持ち、身近な人達と語り協力し監視を続ける。こういう政治への参加の仕方でも良かったのでは無いだろうか。

現に、海外のSGI組織は政党など作らずに、各メンバーの自主投票というスタンスで政治と関わっている。『日本だけが特別に必要』というのがおかしいのである。

海外組織では選挙支援活動せず

国家主義的な傾向度合いでいえば、ロシアなんてもっと酷い。プーチンの独裁体制である。権力者への批判の自由など皆無だ。しかもロシアはずっと戦争をやっているのである。日本に日蓮仏法を基調にした政治家が必要というのであれば、ロシアにはもっと必要だろう。しかし現実はロシアSGIは選挙支援活動などやってないのである。

ロシアを例に挙げたが、他にも国民の権利そっちのけの独裁政権国家など挙げればキリがない。創価の論理で考えれば、これらの国全てに自分達の政治家を送り込まねばならないことになる。言うまでも無く創価は、日本以外は政党は一切作っていないし選挙支援活動も行っていない。

いい加減に『日本だけ特別に政党が必要』という固定観念を捨て去るべきだろう。

信仰の本義とは

信仰の組織なのに、組織総力をあげて選挙支援活動に打ち込む。どう考えてもこれが信仰の本義とは思えないのだ。そろそろ創価の活動家の方々は気付いて欲しいものである。

創価は選挙の時期になると、立正安国論がよく御書学習のテキストになる。この中の『四表の静謐』の部分を、選挙支援活動の拠り所にしてるようだが、これを根拠にするのは無理があるのではないだろうか。そもそも立正安国論は政治の次元の話ではなく、信仰・思想の一凶を断ち切り、正しい信仰・思想を用いる事が主軸なのである。大聖人の御精神がどこにあるのかをよくよく考察すべきだろう。


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創価は、昭和32年の『大阪事件』が法難だと主張してるが、果たしてそうなのだろうか。この『大阪事件』とは、昭和32年の大阪の参院補選で創価の会員が中尾候補の記名入りタバコ、百円札をばらまいた事件である。

事情聴取は当然

警察側としては、現実に買収による公職選挙法違反があったのだから、組織的な関与があったかどうかを調べるのは不自然な事ではない。当時の責任者であった池田参謀室長らを事情聴取するのは当然ではないだろうか。

不自然な創価の対応

むしろ不自然なのは、創価の対応の方である。創価は、逮捕された一般会員の50数名を即座に何の弁解の機会も与えずに除名処分にしているのである。この処分は酷くないだろうか。逮捕されたことが除名の理由ならば、池田参謀室長や小泉理事長も逮捕されたのだから、彼ら同様に除名されなければ公平とは言えないだろう。

可哀想な一般会員

この一般会員の人達は、政治の理念や民主主義の歴史などを教えて貰う機会など無く、ただただ候補者が勝つことが功徳につながると教えられた組織盲従の犠牲者だと思う。こんな選挙運動をやらされて本当に可哀想である。

「法難」とするのは無理がある

これを『法難』と主張するのには根本的に無理があるのでは無いだろうか。政治の次元の話を信仰の次元にすり替えているのである。


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バリ活の頃「選挙活動は功徳が現れやすい。」と、よく指導されたものだ。特に婦人部の方々はそう信じ込んでいる人が多い。「自分の功徳の為に選挙活動をやっている」という人が大半であろう。

私は、そんな風潮に対して昔から違和感を覚えていた。私の意見は「選挙活動はあくまでも政治活動であり、信仰とは一線を画したものであるべきだ」と思っていた。

政治を全く監視していない創価会員

「青年は心して政治を監視せよ」とは戸田会長の箴言であるが、学会員の政治活動は、選挙期間中だけ票をかき集めて、選挙が終われば政治を一切監視してないのだ。これでは白紙委任状を与えてるようなものである。選出された政治家が国民・住民にとって悪い政治を行う恐れもあるのだ。だからこそ普段からの各議員の政治に対する行動の監視が重要ではないだろうか。

信仰の次元として捉える

学会内部の活動家達とよく対話・議論をしたが、その点を指摘したら、当時の部長から「それはただの政治屋だよ。我々は信仰の次元で戦っているんだ。」という意味不明の答えが返ってきた。このように彼らは、選挙支援活動を信仰・功徳の次元で捉えているので、話が全く噛み合わないのである。

更に「この選挙戦を利用して、自分自身に勝っていくんだ!」という意味不明なアドバイスをされた。選挙の戦いを自分の戦いに置き換えて、福運を積み、成長の糧にしていこうという意味らしい。これが『創価脳』の思考なのである。しかし、本当に利用されているのは会員であり、利用しているのは創価組織なのは言うまでもない。

ここが根本的におかしいのだ。しかし創価バリ活は気付かない。悲しい事である。

盲目的に信じる活動家

今となっては、結果的に公明党を与党に維持する為だけの活動になっている。それが広宣流布の為・平和の為だと信じ切っているのである。


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また選挙の季節になってきた。残念ながら、創価は今や完全に選挙活動がメインになってしまった。末端の会員は選挙活動が自身の幸福の軌道に直結すると思い込んでいる。自分たちの代表である公明議員を当選させることが広宣流布に直結し日本の幸せにつながると固く信じているのだ。その為に各会合で池田名誉会長のスピーチや人間革命を拝読して「先生がお元気なうちに大勝利でお答えしよう!」などとハッパをかけられる。

東京以外の学会員でも、東京に友人・知人がいないメンバーも地区や支部単位で東京にとりあえず行って、タクシーやコンビニや昼食に入った外食屋の店員さんに候補のお願いをしたりするのだ。そして地元に戻ってから、それを地元の会合で勇んで報告したりしているのだ。それを万雷の拍手で応える。傍から見れば異常な光景である。

ちょっと待って欲しい。冷静に考えて欲しいものだ。なぜ選挙活動が信仰に直結すると思い込むのか。宗祖の御書の何処にも、選挙活動が信心であるなどと書かれてはいない。信仰は信仰であり、選挙とは次元が違うのである。創価でも海外の組織はメンバーが自主投票しているではないか。それが当然なのである。

いい加減に選挙活動屋から脱却して、信仰とは自身の生活を充実させる事が本義だと目覚めて欲しいものだ。全身全霊の選挙活動をして公明を勝たせても、幸せになるのは議員と本部職員連中だけなのだから。


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