そもそも大聖人が日興上人を二箇相承に於いて『本門弘通の大導師』『身延山久遠寺の別当』に本当に任命されたとするならば、その旨を門下の僧侶・檀徒達全員に披露し、大聖人が日興上人を後継者に選定して任命した旨を宣言されてないと、おかしいではないか。

現代の日蓮正宗に於いても、法主の代替わりの時には、現法主・新法主が前法主から相承を受けて法主に登座したことを、内外に宣言し、座替式を行った上で、さらに代替奉告法要を行っている。

それと同じ道理で、二箇相承を門外不出の秘密文書にしてしまっては、門下達の見解の不一致による混乱を招いてしまい、かえって教団全体の統制がとれなくなってしまう。

このような相承書というものは、秘密にするのではなく、むしろ積極的に公開されていくべき筋合いの文書である。

更に『身延山付嘱書』にいたっては、身延山久遠寺の別当職を譲るという、財産譲渡をも含む内容であり、かつそれに背く在家出家を『非法の衆』とまでいわれているのであり、これが公表されなければ全く意味をなさぬばかりか、却って混乱を招くだけである。

従って二箇相承は本来ならば、大聖人が書いたとされる時点で、全面的に公開されていないとおかしい。そして公開した上で、日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が行われていなければ、おかしいのだ。

しかし大聖人・日興上人在世の時代に、この二箇相承が存在していたことを証明する記録はまったく残っていない。また、日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が身延山久遠寺でも、池上でも行われた形跡はないし、そのような記録は全く残っていない

これらの矛盾を整理していけば、二箇相承がいかに信憑性が低い文書なのかは明白である。



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