結論からいうと、二箇相承は偽書という他ない。

二箇相承は、日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)と身延山付嘱書(池上相承書)の二つの文書からなる。日興門流は、これが大聖人から日興上人への唯授一人血脈相承の根拠だと主張している。


日蓮正宗の御書に載っている文書

早速、内容を見ていきたい。以下は日蓮正宗の資料としての二箇相承である。

日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

弘安五年(壬午)九月 日            日蓮花押
                       血脈の次第 日蓮日興
ここには「九月 日」と書かれており日付が記載されていない。

身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。

弘安五年(壬午)十月十三日          武州池上
                       日蓮花押


左京日教師の写本

ここから、左京阿闍梨日教師の写本について検討していきたい。京都・住本寺系(後の要法寺系)の高僧で、後に大石寺第九世日有師に帰伏した。元々の僧名は本是院日叶であったが、後に左京阿闍梨日教と改名した。

二箇相承の全文を載せた最古の文献は、日教師による著作の『類聚翰集私』である。この中で日教師が書写した二つの文書が入っている

身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十余年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出出家共の輩は非法の衆たるべきなり

弘安五年九月十三日            日蓮在御判
                     血脈次第 日蓮日興
甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す

この文書の日付は9月13日と記載されている。ところが『元祖化導記』によれば大聖人が身延沢を出立されたのは9月8日とある。(この旅の目的は常陸の湯で病気の療養の為だとされている)。9月13日の時点では既に旅の途中にあり、甲斐の国波木井郷にはおられなかったのだ。



日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日興一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ事の戒法とは是れなり、中んづく我が門弟等此の状を守るべきなり、

弘安五年十月十三日            日蓮在御判


日辰師の写本

僧名は広蔵院日辰。天文法華の乱で焼失した住本寺と上行院を合併して要法寺を再興し、13代貫首になった。要法寺は言うまでも無く大石寺系とは違う他山である。この日辰師は釈迦仏像の造立を許容し、法華経一部読誦を助行の一環として扱った。大石寺の教義からみれば謗法に該当する。

現在の日蓮正宗が所持している二箇相承書は、日辰師が重須(北山)本門寺に出向いて書写したものである(正確には弟子の日燿に臨写させたもの)。他山の僧籍で更に謗法を唱えている僧侶が書写したものを採用しているのである。

堀日亨師が編纂した『富士宗学要集』の中に「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず書写して、今本寺(大石寺)に在り」と記載されている。また、堀日亨師は『富士日興上人詳伝』の中で、この臨写本によって「原本の雰囲気を、いささかなりとも偲ぶに足りる」(趣意)と評している。同じく興詳伝の中で「(二箇相承書の正筆の)紛失より二十二年前、日辰上人原寸の通り自ら臨写せるが版行せられたるもの」と述べている。日辰本は、それほど信憑性が高いという評価がなされているのだ。

以下がその日辰師の書写文書である


日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日        日蓮在御判
                    血脈の次第 日蓮日興


身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日           武州池上
                    日蓮在御判

この日辰師の書写文書だが、日教師書写の文書と比べて大きな違いが一点みられる。それは日付以下の文章が完全に正反対に書かれているのである。入れ替わっているのだ。これは一体どういうことだろうか。どちらの書写文書も大元の原本は大聖人真筆の二箇相承書のはずだ。それがなぜ互いの文書の日付と場所が入れ替わるような内容になってしまったのだろうか。

他にも若干の文章の表現の違いが見られる。「『付属す』と『相承す』の違い」等々


身遠山

上記の日辰写本は、元は純漢文で書かれた文書である。それを読み下し文として記載されている。その漢文体の写本に一点おかしな記述がある。

(漢文)
可為身遠山
久遠寺別当也

(読み下し分)
身延山久遠寺の別当たるべきなり

なんと身延山久遠寺を『身遠山』久遠寺と書いているのだ。「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず書写し」たはずの書写文書におかしな記述があるではないか。

この身延山久遠寺は、日蓮大聖人が直接命名された山号寺号である。地引御書にも十間四面の立派な大坊のことが書かれている。また 富木常忍などの門下達もこの為に御供養に尽力したようだ。まさに師弟一丸となっての建設事業であった。「一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」と大称賛されておられる。それほど思い入れの強い寺院の名前を、(仮に真蹟があるとすれば)大聖人が真筆を認められた時に『身遠山』などと間違えることなど有り得ないではないか。必ず身延山久遠寺と書かれているはずである。

つまり日辰師が書写したのは大聖人の真筆とは到底認められない。となれば、日辰師は本当は何を元に書写したのだろうか。




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