(メモ段階)

日達法主の説法によると
戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)







戒壇本尊の大きさは、日量法主(第48世:1771~1851年:江戸時代)の『富士大石寺明細誌』によると
「一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅 日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く、厚さ二寸二分、竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」
(富士宗学要集5巻334ページより)
とある。単位をcmに変換すると、厚さ二寸二分(約6.6~6.7cm)、縦四尺七寸五分(約143~144cm)、横二尺一寸五分(約65cm)となる。

このサイズと、材質が楠の板であるので楠の平均重量から、戒壇本尊の重量が推計されている。どれだけ少なく見積もっても100キログラム以上になるということだ。200キロ前後という推計もある。

それほどの重量がある戒壇本尊を、身延の質素な施設のどこに安置できたというのだろうか。大聖人は、身延に入られてからは、ずっと粗末な草庵を拠点にされていた。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が建立されたとしている。だが、弘安二年当時、身延に頑丈で立派な堂など無かったのだ。そのような所に無理に安置すると、堂の床が抜けてしまうのではなかろうか。そんな危なっかしい事ができるはずもない。つまり、安置できる場所など無かった。

このように状況を整理してみると、上記の日達法主の説法には、かなり無理があるのではないだろうか。



周知の事実だが、大聖人御真筆の本尊には板本尊など無い。殆どが紙に書かれた御本尊であり、僅かに絹に書かれた御本尊が存在する。

大聖人御在世の間は、板本尊に彫刻するなど一切されていない。そのような記録は一切ない。日蓮仏法の信徒ならば、この事をよくよく考えるべきである。





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