(メモ段階)
日達法主の説法によると
戒壇本尊の大きさは、日量法主(第48世:1771~1851年:江戸時代)の『富士大石寺明細誌』によると
このサイズと、材質が楠の板であるので楠の平均重量から、戒壇本尊の重量が推計されている。どれだけ少なく見積もっても100キログラム以上になるということだ。200キロ前後という推計もある。
それほどの重量がある戒壇本尊を、身延の質素な施設のどこに安置できたというのだろうか。大聖人は、身延に入られてからは、ずっと粗末な草庵を拠点にされていた。
大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が建立されたとしている。だが、弘安二年当時、身延に頑丈で立派な堂など無かったのだ。そのような所に無理に安置すると、堂の床が抜けてしまうのではなかろうか。そんな危なっかしい事ができるはずもない。つまり、安置できる場所など無かった。
このように状況を整理してみると、上記の日達法主の説法には、かなり無理があるのではないだろうか。
周知の事実だが、大聖人御真筆の本尊には板本尊など無い。殆どが紙に書かれた御本尊であり、僅かに絹に書かれた御本尊が存在する。
大聖人御在世の間は、板本尊に彫刻するなど一切されていない。そのような記録は一切ない。日蓮仏法の信徒ならば、この事をよくよく考えるべきである。
にほんブログ村
日達法主の説法によると
「戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)
戒壇本尊の大きさは、日量法主(第48世:1771~1851年:江戸時代)の『富士大石寺明細誌』によると
「一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅 日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く、厚さ二寸二分、竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」とある。単位をcmに変換すると、厚さ二寸二分(約6.6~6.7cm)、縦四尺七寸五分(約143~144cm)、横二尺一寸五分(約65cm)となる。
(富士宗学要集5巻334ページより)
このサイズと、材質が楠の板であるので楠の平均重量から、戒壇本尊の重量が推計されている。どれだけ少なく見積もっても100キログラム以上になるということだ。200キロ前後という推計もある。
それほどの重量がある戒壇本尊を、身延の質素な施設のどこに安置できたというのだろうか。大聖人は、身延に入られてからは、ずっと粗末な草庵を拠点にされていた。
大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が建立されたとしている。だが、弘安二年当時、身延に頑丈で立派な堂など無かったのだ。そのような所に無理に安置すると、堂の床が抜けてしまうのではなかろうか。そんな危なっかしい事ができるはずもない。つまり、安置できる場所など無かった。
このように状況を整理してみると、上記の日達法主の説法には、かなり無理があるのではないだろうか。
周知の事実だが、大聖人御真筆の本尊には板本尊など無い。殆どが紙に書かれた御本尊であり、僅かに絹に書かれた御本尊が存在する。
大聖人御在世の間は、板本尊に彫刻するなど一切されていない。そのような記録は一切ない。日蓮仏法の信徒ならば、この事をよくよく考えるべきである。
にほんブログ村
コメント
コメント一覧 (2)
身延の御墓・草庵跡の見学に行かれたのですね。
>実感として、この草庵のスケールで大御本尊を御安置??と感じました。
鋭い御指摘です。あれほどの巨大で重量の大御本尊を安置できるとは到底思えません。
真実が明らかになることを望んでおります。日蓮仏法を信奉する全ての信徒の為に、後世の為に。