もはや僧侶が必要な時代では無くなった。『職業僧侶』という点では、学会や顕正会等々の本部職員も同様である。「宗教でメシを食っている人達」こういう連中は必要ではなくなった。

僧侶が必要だった時代

昔は僧侶や寺院が必要であった。寺院にて中央集約的に管理して、教義を保つ役割が大きかった。また、書物の保管の役割もあった。一般の民家は地震や火事で焼失しやすいので、一般の檀徒に保管は任せることは出来ない。このような背景があったので、必要であった。

教義の保管・重要書類の保存という点で見れば、彼等には一定の評価はしている。

現代に於いては

翻って今の時代はどうか?と考えたとき、もはや僧侶や寺院の役割は終わった。むしろ弊害の方が大きい。「御僧侶様」「本部職員様」が上。一般信徒が下。という構図が起こりやすい。

洋の東西を問わず。例えばキリスト教の歴史を見れば、幾世紀も、教会の支配に隷属していた事実がある。魂まで教会の司教に依存していたのだ。神と自分の間に僧侶が入り込んでいた。これが不幸の根源である。日蓮仏法で言えば、自分と御本尊の間に、法主や組織や偶像(永遠の師匠等々)が入り込んでいるのである。これが『おすがり信仰』に陥りやすい遠因となる。

更に、現代の僧侶を見れば、平気で妻帯しているのである。大石寺の僧侶達を見ればわかるように、全ての僧侶の模範たる法主でさえも妻帯しているのである。大聖人・日興上人が文書で明確に禁止にしなかったからといって「妻帯しても何の問題はない」とは到底言えまい。宗祖・開祖の姿勢を見習うべきであろう。妻帯するならば、もはや在家と変わりがない。このような事実から鑑みるに、やはり僧侶の役割は終焉を迎えていると言わざるを得ない。

仏法の修行方法は時代と共に変化する

なをいかにとしてか此功徳をばうべきぞ、楽法梵志・雪山童子等のごとく皮をはぐべきか・身をなぐべきか臂をやくべきか等云云、章安大師云く「取捨宜しきを得て一向にすべからず」等これなり、正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん(日妙聖人御書)
と仰せのように仏法の修行方法は時代と共に変化する。紙が身近にある時代に自らの皮を剥ぐ必要がないように。ネット上に御書の全てが公開されている時代に於いて「御僧侶の導きがなければ正しい修行ができない」などということは有り得ない。

もはや今の時代は情報がオープンになっている。御書は何処でも手に入る、ネット上でも読むことが出来る。僧侶や寺院に頼ること無く、存分に御書を研鑽できるのである。信徒一人一人が御書を根本にして日々の生活を充実させることが可能なのである。

我々在家の一人一人が、かつての僧侶の役割を自覚を持って遂行すれば良いのである。



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