『御本尊七箇相承』は日興上人の言葉とされている。師匠である大聖人から御本尊について教わったことを後世に代々伝える為に、七箇相承という形で残されたということである。

では日興上人は御本尊七箇相承の通りに書写されたのだろうか。それは当然だろう。まさか御本人がこの形式を守らないはずがない。

ところが、気になる書写本尊が幾つか散見されるのだ。実際に見ていきたい。

南無妙法蓮華経の下に『日蓮聖人』

以下は、山梨正法寺に格蔵されている日興上人書写の正応年間、御本尊の座配である。
正法寺格蔵の日興曼荼羅の座配
(興風談所「日興上人御本尊集」より)

御本尊七箇相承には
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」
と記述されている。「『日蓮在御判』と嫡々代々と書きなさい」と大聖人が「深秘なり」と仰せなのだ。

ところが、この日興上人書写の御本尊では、南無妙法蓮華経の下に『日蓮聖人』となっているではないか。これはどうしたことだろうか。何とこの他にも日蓮聖人と書かれた御本尊が2体ある(讃岐本門寺に格蔵の正応3年10月18日、宮城上行寺に格蔵の正応5年10月13日)


「仏滅度後二千二百三十余年」の讃文が無い

以下は、新潟世尊寺に格蔵されている日興上人書写の正和三年二月十三日、御本尊の座配である。
新潟世尊寺
(興風談所「日興上人御本尊集」より)

御本尊七箇相承には
「師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
と記述されている。師(=大聖人のこと)曰く、もしもこの讃文を略すことがあれば「大僻見不相伝の至極なり」とまで厳しく訓戒されているのだ。

ところが、この日興上人書写の御本尊では、この「仏滅度後二千二百三十余年の間~」という讃文が略されているのだ。これは一体どういうことなのだろうか。あろうことか日興上人が「大僻見不相伝の至極」の行いをしているのである。

讃文に関しては、この他にも『仏滅度後』ではなく『仏滅後』や『如来滅後』と書いた本尊も散見される。


「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が無い

以下は、宮城上行寺に格蔵されている日興上人書写の弘安十年十月十三日、御本尊の座配である。
宮城上行寺
(興風談所「日興上人御本尊集」より)

御本尊七箇相承には
「上行無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、経中の明文等心に任す可きか」
と記述されている。

ところが、この日興上人書写の御本尊で、両肩の部分には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」という文章がどこにも存在しない。「経中の明文等心に任す可きか」の御指南に反しているではないか。


御本尊七箇相承は果たして

日興上人は、大聖人の教えを誰よりも厳格に貫かれた方である。もしも大聖人が御本尊書写に関して『御本尊七箇相承』のようなルールを作られていたのならば、それを一つも漏れずに全ての御本尊書写に於いて厳守されたはずである。

だが実際にはそうされていないことから、日興上人の時代には御本尊七箇相承のようなルールは存在しなかったと判断すべきだ。つまり日興上人の言葉でも何でもない後世に創作された相伝書であろう。