戒壇の場所に、「身延の大坊・久遠寺」、と直接言及されていないのが不思議だ。

勅宣ならびに(関東)御教書を申し下して、が必須条件なのだが、これは当時は幕府と朝廷との二重の支配構造があり、その両方の認可を受ける必要があったからだ。

この認可を貰った時に、身延の大坊を本門の戒壇とせよ、と直接的に言えばわかりやすいのに、そうはされなかった。

その代わりに、「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」という表現をされた。

これは大聖人の御心の理想と現実を表しているのではないだろうか。現実は身延の久遠寺であり、理想は景勝の地であろう。大聖人は伝教大師の比叡山延暦寺を理想とされた。



そもそも本抄を極秘の形で大田金吾に伝える必要はあったのだろうか。もっと大っぴらに三大秘法に関して日頃から口を酸っぱくするほど講義すれば良かったのではないか。隠すようなことだろうか。言えば門下達が混乱するから言わなかったのだろうか。それほど門下達の理解が浅かったのだろうか。



大聖人が三大秘法の内容を勿体ぶって言わなかったから、滅後に、弟子達が勝手な発言をしたのだ。「我こそが正しい法門を相承した」「三大秘法の法体はウチにしか継承されていない」等々。

法体が大石寺が主張している『弘安二年の戒壇本尊』ならば、秘すべき程のことだろうか。積極的にアナウンスを行ったとしても全く問題なかろう。むしろ言わなかったことで疑いの方が大きくなる。そう考えると、これが法体とは思えない。






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