別記事にて、その違いを指摘させて貰ったが、法主の書写こそ、大御本尊(ここでは、大聖人の御真筆をそのまま模刻したと仮定しておく)と比べれば、勧請諸尊も、讃文も、字体も、大きさも、文字の間隔も、悉く違っているではないか。余りにも大きな改変だろう。

果たして、これが『正しい相貌』と言えるのだろうか。「御本尊の相貌は仏様の姿そのもの」ではなかったのか。それをここまで改変するとはどういう了見なのだろう。大聖人の許可なく勝手に相貌を改変しているのだ。このようなことが許されるのだろうか。これが『許容範囲』とでも言うつもりだろうか。「(御法主猊下には、特別な御内証が備わっているのだから)仏様の姿でも、部分的になら改変しても構わない」とでも答えるつもりだろうか。

ただ法主の座にあるというだけで、彼等の書写本尊を有難がる信者の思考が理解できない。

しかも、その法主書写本尊をコピーして一般信徒に配布して、それを御形木本尊として自宅の仏壇に祀っているのだ。つまりは大幅改変+コピー御本尊なのである。

信徒は、この御本尊に対して本心から「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と仰せのように、大聖人の魂が宿っていると思えるだろうか。

誤解なきように説明しておくが、私は大聖人が顕された御本尊に於いて、勧請された諸尊の座配や、脇書き、讃文、を尊重すべきと考える。それが誰の書写であったとしても。決して不敬すべきではない。



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