宗門の一般信徒に下付されるのはコピー御本尊である。時の法主が、このコピー御本尊に対して開眼供養することによって草木成仏が起こると主張している。この儀式をしないと魔に入られて『魔の本尊』になってしまうという。では宗門の僧侶や法華講員が主張している開眼供養・開眼の法義とは、一体どのような儀式なのだろうか。正直に言ってサッパリ想像がつかない。

「仏の心法を入れる」とは、具体的に何をするのだ。法主が、コピー御本尊に向かって、手から念力でも発するのだろうか。その瞬間にピカっと光って草木成仏が起こるというのだろうか。何故に時の法主しか出来ないという設定なのか。法主を引き継いだ瞬間に奥義を会得するのだろうか。宗門の歴史上では『稚児法主』という幼い子供法主が数名存在したが、この幼い子供が法主になった瞬間に開眼供養の奥義を会得したとでもいうのか。法主の『御内証』には、そのような神秘的な能力が備わっているというのだろうか。

しかし、ちょっと待って欲しい、大聖人は「利根と通力とにはよるべからず」と仰せである。法主しか出来ない超能力的な「法主による開眼供養」などに頼るのは明らかに違背していないだろうか。

そもそも御書には、「御本尊への開眼供養の具体的なやり方」の記述が一切ない。大御本尊に関する記述も一切ない。『唯受一人血脈』だの『法体の血脈』だの一切ない。

後世になって大石寺系が独自資料を作って、それを基に創作しているに過ぎない。それらは文献学的にも科学的にも全く証明されていない。

開眼供養は大聖人のみ

大聖人は、木絵二像開眼之事の中で「法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し」と仰せである。この『法華を心得たる人』とは大聖人に他ならない。大聖人が自ら顕された御本尊(つまり真筆)こそ「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と仰せのように、開眼供養をなされたものだ。

大聖人が、御本尊の開眼供養を他人に行わせた、という御書の記述も歴史上の記録も一切ない。

法主が特別な存在へと神格化

宗門の人に尋ねたい。一体「御本尊に対する開眼供養の具体的なやり方・その資格を有する条件」が御書の何処に書いてあるのか教えて欲しいものだ。答えれるはずがない。

信徒側からすれば、法主抜きでは、開眼供養した本尊『正しい御本尊』が下付されないのだから『正しい信仰』が成立しなくなる。

そして、ここに特権が生じる。法主だけが特別な存在になってしまうのだ。無謬性を与えてしまう。

信徒達は、このような伝説を無条件に信じるから『おすがり信仰』に陥りやすくなる。『僧侶が上、信徒が下』になりやすいのだ。

創価のバリ活の人達が、創価組織そのものと、偶像化された『永遠の師匠』を妄信するのと同じ構図である。



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