宗門の歴代法主の書写本尊を見つめている。特に最近の日如法主・日顕法主・日達法主あたりの書写本尊を。字体も大人しく躍動感がない。特に日如法主の字は細い、弱々しい感じを受ける。勧請された諸尊の座配だけを真似ても本物の域には到達していない。

そもそも唯授一人の血脈とは何なのだ。何の経験もない稚児法主。稚児法主の書写本尊でも同じ扱いになるというのか。理解不能である。

この書写本尊に「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と仰せのように、大聖人の魂が宿っているとは到底思えない。

大聖人の真筆の本尊を見ると明らかに違う。日蓮という文字を見ればわかる。どれだけ躍動感のある文字か。大聖人の魂はここにしか宿っていない。

勿論、創価の略式本尊にも宿っているとは思えない。ベースは日寛師の書写だが。その日寛師であっても、大聖人とは違う。





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