現在、創価の一般会員に下付されている御本尊は、栃木県・淨圓寺が所蔵していた日寛師が享保5年に書写した略式御本尊である。(一説には、日寛師が入信して日が浅い信徒の為の『入門用』に書写されたものと言われている)

この御本尊の一部を改竄してからカラー複写したものだと指摘されている。具体的には、左下の霞んだ文字の所を明瞭にして、左端の授与書を削除して、文字の線を太くしたり伸ばした、とのことである。仮に、それが本当であっても大幅な改竄では無いだろう。根本的に大きな変更を加えてはいない。ならば、そこまで大きな問題とは思わない。

しかし、気掛かりなのは、この略式本尊は十界の諸尊が全て勧請されていないどころか、何と五界の諸尊しか勧請されていないのである。

大聖人の顕された真筆の御本尊でも、特に初期の頃は十界全てが勧請されていない御本尊が結構ある。だから絶対の条件というわけではないだろう。

ただし、大聖人の晩年・特に弘安期以降は十界全てが勧請されている御本尊が多い。佐渡以降から相貌・座配を様々に模索された結論がこの時期にあると見るべきだろう。

また、御本尊のサイズにも拠るだろう。信徒に下付される際に折りたたむなど小さなサイズの御本尊は略式の相貌にされたのだろう。逆に持仏堂など(皆が集まって祈願する場所)に安置する御本尊は十界全てが勧請されている相貌になっている。

「十界の諸尊が全て勧請されている御本尊でなければ仏界が湧現できない」とまでは思わないが、やはり我々は凡夫である。日蓮大聖人や日興上人とは違う。大聖人の御境涯ならば『楊枝本尊』のように『南無妙法蓮華経・日蓮』だけの相貌があれば他に足りないものはなかっただろう。

しかし、我々は凡夫なのだから。欠けている御本尊では、荘厳なる虚空会の儀式をイメージすることが難しい。従って十界の諸尊が欠ける事なく勧請されている御本尊(広式)が望ましい。

御書にも「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」(日女御前御返事)と仰せのように、十界全てが揃っている広式が望ましい。

そして看過できないのは、宗門と決別する前までは十界の諸尊が全て勧請されている本尊(日顕法主・日達法主が書写)であったのに対して、なぜ日寛師の五界略式本尊を選んだのか、会員には何の説明もされていないことだ。