大御本尊を『受持の対象』から外すというのは詭弁だが、それよりも酷いのは、大御本尊を『出世の本懐』の記述からコッソリと削除したことである。


対談・御書の世界より
池田名誉会長
大聖人が「聖人御難事」を認められ、出世の本懐を遂げられることを宣言されたのが、十月一日です。法戦の全魂の指揮を執られながら、一方で大御本尊御建立の準備をしていかれたと拝せられる。

斎藤教学部長
広宣流布の激闘のなかで大御本尊を建立された、ということですね。

池田名誉会長
広宣流布に戦う信心強き庶民群の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。三年前の建治二年(一二七六年)に表された「報恩抄」に仰せのように、南無妙法蓮華経は万年の未来まで流布して末法の人々を救っていける大法である。しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。

ここまで明確に、大御本尊が出世の本懐であることを明言しているのだ。


一つの宗派や宗教団体がどうなろうと、大聖人の時代が変わるワケがない。出世の本懐は不変である。

しかし創価は、宗門との関係が決裂したからといって、700年前の歴史的な解釈まで変更を加えたのだ。本尊は根本中の根本である。そこに平気で変更を加えたのである。

対外関係の変化によって根本の教義をコロコロと変更する。こんな組織の教義など信用できるだろうか。全くできないのは明白である。



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