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大聖人の御遊学に関して考察を続けている。

まずは御遊学を経済的・社会的に支えていたのは何であったのだろうか。第一に考えられるのが清澄寺であろう。当時の清澄寺は北条家の庇護下にあり、経済的にも裕福であった。遊学の費用をバックアップする余裕もあっただろう。清澄寺としても、優れた学僧を排出し保持することは寺院の箔をつける意味でも重要であっただろう。

次に領家の尼という存在。御書を拝すると領家の尼に対する記述がみられる。様々な支援をしていたと推察できる。


・16歳から立宗宣言の32歳までの間、御遊学の期間が16年という長い間であるが、

鎌倉遊学後には『戒体即身成仏義』を著述されている。21歳の時点での著述とされている。この中で、法然の浄土宗・念仏は無間地獄であると明確に破折されている。だが、清澄寺が天台密教が主流であった為か、慈覚・智証の法華・真言『理同事勝』の教学を受け継ぎ、第四段の真言の密教戒を最高位として位置付けられている。

この後、比叡山を始め各所に御遊学されることにより、『理同事勝』は誤りであり、法華経が最勝であることを覚られたと思われる。なお、30歳で京都にて、『五輪九字明秘密義釈』を書写されているが、これは東密の内容であり、(いずれ来るであろう台密・東密に対する破折)比較検討用の御研鑽の為に書写されたと思われる。

畿内御遊学の間は、様々な階層(公家や他宗の僧侶など)の相手と交流を深めたと推察される。文での交流もあっただろう。しかし現存する資料は残っていない。だからといって大聖人の彼等との交流がなかったと断定するのはナンセンスである。

また、大聖人は非常に裁判に精通されていた。領家の尼に対する力添え。訴訟事務に関してのエキスパートであるはずの富木常忍に指示するほどの知識を持たれていた。京畿の御遊学中に御成敗式目・裁判資料などの御研鑽を深められたと考えられる。

大聖人は比叡山にて、学頭南光坊俊範に師事され12年間の修行をされた。この御遊学の中で、比叡山延暦寺を『理想の戒壇のモデル』であり『理想の修行の場』との認識を強く持たれたのだろう。

32歳の立宗宣言までには、法華経の為に不惜身命の覚悟を決められたと推察される。「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに」内面の精神の格闘は壮絶なものであっただろう。



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