(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

創価は毎年の行事に必ず『財務』という寄付を募る。寄付を行う会員を『広布部員』と命名している。この財務こそ創価の巨大な力の源泉である。

表向きは「広布基金は真心なので自由です」といいながら、年後半になってくると財務を推進する打ち出しがある。広布部員の会合もある。役職を持つ活動家はこれを推進せねばならない。

「財務をやりきれば福運がつく」だの、「自分の境涯の限界まで財務を頑張りましょう」。貯蓄の余裕すらなくなっても。「足りないときに宇宙銀行から自在に引き出せる境涯になります」などという指導もあるようだ。しかし、その根拠はどこにあるのだろう。そんな曖昧なものをアテにして生活していけというのだろうか。


「御聖訓に学ぶ御供養の精神」という記事に次のように記載されている。
法華経の行者に供養する功徳は、妙法を弘める人の功徳に等しく、広宣流布が拡大すればするほど、計り知れないほどの多くの功徳が、供養をした人に集まってくるのです。
ここで、「法華経の題目を弘められている人」とは、今日においては、現実の上で大聖人の御遺命である広宣流布を進めている創価学会をおいて、ほかにはありません。
(聖教新聞 2018年11月6日)
御書から『ご供養の精神』を強調して、財務の正当性をアピールしている。しかし当時の檀徒達は大聖人に対して真心の供養をしたのである。教団に対する布施ではない。一方、財務はあくまで創価という組織に対する寄付である。「法華経の行者に対する供養」を「教団への寄付」に勝手にすり替えているのである。そこに日蓮仏法の裏付けなど微塵もない。



そもそも、この財務は戸田会長の時に開始された。財務に参加できる会員も限定されていた。信心強固として認められ金銭的に余裕のある人のみが財務部員になれた。いわば特別な扱いであったのだ。これが財務の原点であった。

そして、その方針は次の会長の代でも貫かれていた。

池田名誉会長はかつてこのような発言をしている
邪教などは、みんなうまい事を言って、金を巻き上げ、教祖のために、教団の勢力のために、それも本当に人々を救えるならば許せるけれども、全部が地獄に落ち、民衆が教祖にだまされ、そして教祖は立派な家ばかりつくり、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これが、邪宗教の姿です。創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。
(聖教新聞 1962年(昭和37年)6月16日)
この方針を貫いていれば、財務というイベントは残っていないはずだ。ところが、今や毎年恒例の行事になっているではないか。しかも会員全員が参加になっている。では、一体この発言は何だったのだ。


原点である法華経を拝すると

創価の財務は、法華経に説かれている内容を正しく継承しているのだろうか。原点である法華経の精神を確認したい。
 阿逸多、若し我が滅後に、是の経典を聞いて能く受持し、若しは自ら書き若しは人をして書かしむることあらんは、則ち為れ僧坊を起立し赤栴檀を以て諸の殿堂を作ること三十有二、高さ八多羅樹、高広厳好にして、百千の比丘其の中に於て止み、園林・浴池・経行・禅窟・衣服・飲食・牀褥・湯薬・一切の楽具其の中に充満せん。是の如き僧坊・堂閣若干百千万億にして其の数無量なる、此れを以て現前に我及び比丘僧に供養するなり。是の故に我説く、如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめ、経巻を供養することあらんは、復塔寺を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須いず。
このように法華経では、自行化他に励む人には、遺骨を納める塔(ストゥパ)を建てたり、僧坊を作ったり、僧団への供養をしたりする必要はないと明確に説かれている。その理由は、この行者が法華経を受持・読誦するならば、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからであると述べられている。法華経の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としない。

これが法華経の精神なのである。創価が、毎年の財務を「これに勝る大善はない」などと『信仰の柱』のように指導しているのが大きな誤りであることが明白である。

教団への布施に執着する様を見ていると、法華経の精神よりも小乗仏教の教団運営の姿勢を継承しているのではないだろうか。


真心が大事だと言うのならば

広布部員などと命名する必要すらない。組織をあげて大々的にやる必要などない。ボランティア的なスタイルで自主性に任せれば良いのだ。組織(教団)に対して寄付をしても良いと思う人だけが自発的にやればいい。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村