以前の記事にも書いたが、昔からユゴーが大好きだった。あの力強く荒々しい言葉が大好きだった。他の作家にはない剛毅で直截的な表現が気に入っていた。

ユゴーは、多くの小説だけではなく多くの詩集も残している。その中で、万物について語っている箇所がある。彼の万物感、仏法で言うところの諸法実相であろう。

知るがいい、万物は自分の掟や、目的や、たどるべき道を心得ていることを、
星から虫けらに至るまで、広大無辺な宇宙は、お互いの言葉に耳を傾けていることを、
宇宙の万物はそれぞれ自分の心を持っていることを。
そして人間の耳には、そうした万物の生き方が手に取るように掴めるのだ。

なにしろ、事物と生物とは盛んに言葉を交わし合っているのだから。
万物が話をする、吹きすぎる風も、水面を進むアルキュオンも、
草の芽も、花も、種も、土も、水もが、
お前は今まで考えていたのか、宇宙がこういうものでは無いのだと?

いや、万物は声をあげ、香りを放っているのだ。
万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。
ある考えが込められているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには。
神は創ったざわめきに、すべて「言葉」を交えたのだ。

万物はうめく、お前のように、万物はうたう、私のように。
万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、
木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!

万物は魂に満ちているのだ。

だが、どのようにして?ああ!これこそ前代未聞の神秘。

ユゴーの考えによれば、万物は鉱物にいたるまで、それぞれ固有の魂を宿し持っている。

万物はその崇高さに応じて梯子のような階段を形作る。こうした万物の梯子は、闇の底から出て途切れることなく人間にまで、そして更には神の元にまで昇っていく。という垂直的な世界観を持っていた。

この世で最初の過ちが犯された時、その過ちは重さになり、それをきっかけに万物は落下を始めた。悪とはすなわち重さなのである。万物はその重さ、つまり悪の度合いに応じて空間の中に位置づけられ、闇に身をにひたした鉱物から出て、光に包まれた天上の神にまで昇っていく『存在の梯子』を形成するのである。
霊気は空気になり、空気は風になった
天使は精霊になり、精霊は人間になった
魂は落ちていった、宇宙の悪の数を増しながら
禽獣の中へ、樹木の中へ、さらにくだって
あの醜くて目の見えない、考える小石の中へまでも
このように、天使・精霊・人間・禽獣・樹木・小石へと悪の度合いを増しながら変化していく

ユゴーの万物感・宇宙観には、このようなグノーシス主義的な反宇宙的二元論が垣間見える。

そして生命は、上へ上へ、光の方へ昇っていくという真理が謳われている
いや、この生命はひるまず、見事に昇り続けて
目に見えぬ世界へ、そして重さを持たぬ世界へ入っていき
卑しい肉体をもったお前の目には見えなくなり、青空を満たすのだ
あの生命は、誰も到達したことのない空を横切って、あの世界へ入っていく
星をちりばめた梯子を、崇高な姿を見せながら昇り
物質という鎖につながれた悪魔達から、翼を持った魂の所まで行きつくのだ
そしてその生命は、卑しい存在の暗い額を崇高な存在の足の指に触れさせ
精霊である星を大天使である太陽に結び付け
広大無辺な空間を経巡りしながら
星座の群と青空の群をつなぎあわせる
そして、上に下に、周辺に中央に、被造物を満たして
ついには奥深い天空の高み、神の中に消えうせる!

しかし、大詩人の宇宙創造の概念は極めて難解で一言では説明できない。創造時に重さを持たなかったという意味は、いわゆる原罪のことを示唆しているのだろうか。梯子の上層ほど光の量が多くなり物質の量が減っていくことの意味とは、神に近づくことだろうか。安直な解釈はせずに何度も詠唱し考察を続けていきたい。



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