時々ニュースで子供の虐待の事件が報じられることがある。平和なこの日本でも、子供の虐待が潜在的に存在していることを実感させる。

虐待の具体例

例えば、小さな女の子が、両親によって日常的に虐待されているケースを考えてみたい。

児童相談所も軽視して見逃してしまう。近所の人も気付いてくれない。誰も助けてくれない。

次第に両親の虐待はエスカレートし、暴行の度合いも激しくなる。殴る蹴る、常に体にアザが残る。肉体的な暴力だけではなく言葉の暴力も加わる。「おまえなんて生きていてもしょうがない子なのよ!」と存在すら否定する。小さな女の子にとってどれほどのショックを受けただろうか。どれほど深い絶望に陥ったのだろうか。この子は自分が悪いと思い込みノートに反省文を書く「もっと良い子になるから、お願い許して」と・・・。

食事も制限され、一日一食、いや与えられない日すら出てくる。体重は激減し、見るからに痩せていく。やがて、もう食事もとれない程衰弱してしまう。そしてついに暴行に耐えられずに、ぐったりした姿になり倒れてしまう。そこで慌てて病院に緊急搬送するが、手遅れで助からず死んでしまう。

何の罪も無い天使のような子供が、このような残虐な目に遭う。

生命が今世限りならば

もしも生命が今世限りならば、一体この子の人生とは何だったのだ?

家庭での温かい触れ合いの記憶もなく、友達と楽しく遊んだ思い出も作れず、恋も、青春も謳歌できず、社会に出て自分の能力も活かせず、この世において何も為せず、ただ虐待されるだけの地獄のような日々。それに怯えるだけの日々を送る。両親からの度重なる暴行は極限までエスカレートし、ある日突然に人生を強制終了させられたのだ。

この子は、頑張って自力で現状を打開することは不可能だったのだ。(避けられぬ不幸・避けられぬ死)

これをイプシロン氏のような無神論者は、ただ単に「可哀想だが、運が悪かった」で済ますのだろうか。彼等は都合の悪いことは一切答えない。普段から偉そうに講釈を並べているが、彼等の主張などいざという時には何の価値もないのは明白である。

生きている間は地獄の日々ばかりで、そして、この子の死後は無になるとでも言うのだろうか。その一方で、裕福な家に生まれ、何不自由なく恵まれた環境で、愛情をたっぷりと注がれて育てられている子供がいる。その子との違いを「単なる運」で済ますのだろうか。それでは余りにも不公平すぎるだろう。

仏法の眼から見れば

仏法の眼から見れば、この女の子は、過去世に因となる悪業を犯した。それが今世に果となり現れた。この子の悪業は精算され、次に生まれたら、そのような酷い目に遭わされることが無く、幸せな子供時代を送ることが出来るようになる。そう捉えるのが一番公平ではないだろうか。

加えて、この虐待を続けた親は悪業を積み、次の生で必ず報いを受けなければならない。己の犯した罪を因として、次生で虐待される側となり大いに苦しむ果となる。そうでなければ生命は公平とは言えまい。



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