随分と前から法華経の安楽行品に関して思索を続けている。この安楽行品の解釈、或いはこの品自体に関しての疑問がどうしても解決しないのである。様々な角度から検証しているが、考えがまとまらず自分の中で消化しきれていない。

安楽行品の概要

安楽行品の内容は、この章の冒頭で、文殊師利菩薩が釈尊に対して「世尊滅後の悪世に於いて、菩薩達はこの法門をどのようにして説き明かすべきでしょうか」との問いを発する。それに対しての釈尊の回答が、『四つの在り方(四法)』いわゆる身・口・意・誓願の『四安楽行』と呼ばれる修行法である。当品はこの四安楽行を中心に説かれている。

身安楽行の「適切な交際範囲」とは

第一の法(『身安楽行』)が説かれている内容で、これには『行処』という菩薩が善い行いをする為にどのように振る舞うべきかという具体的な訓戒が説かれている部分と、もう一つは『親近処』という菩薩にとっての適切な交際範囲が説かれている。

この親近処について、対象として(社会で蔑まれている)旃陀羅、豚肉を売るもの、鶏肉を売るもの、猟師、屠殺者、役者と舞踊家、棒術家、力士達に近づくべきではない、親しくなるべきではない、と説かれている。このように、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して避けるように警告しているのだ。

ここで「近づいて親しくなってはいけない」というのは「一切相手にするな」ということではなく、自分から個人的に近づいてはならない、という意味合いのようだ。教えを説くなとは言っておらず、誰でも法を求めてやってくる人には、分け隔てなく教えを説きなさい。というのが法華経の精神である。

そうであっても、法華経の経典に、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して記述することには強い違和感を覚える。経典にこのような記述があれば、誰も近づこうとしないだろう。避けるようになるのが自然だろう。

法華経は一切衆生に仏性を認めており、本来そこには人種や職業やカーストによる差別などないはずだ。社会に於いて一番下層で蔑まれている人でも、ブッダになれると説かれている。しかしながら、上記の旃陀羅や個別の職業に関する記述がある事によって、法華経の平等の精神を誤解させてしまう可能性があるのではないか。

法華経とは関係なく独立したものか?

この安楽行品に関して、仏教学者の植木氏は著書の中で、
この安楽行品は、いろいろ検討してみると、法華経とは関係なく独立して作られたものと考えるしかない。一般社会から非難されないように、修行の戒律をまとめたもの、という性格が強い。安楽行品には、律の規則と同様、世間的を気にする教団の論理が見え見えなのです。」
という見解を示している。当時、この品を編纂した人達は修行僧達で、彼らが所属していた教団の戒律要素を次々に入れたという見解なのだ。そもそもこの品自体が法華経成立とは別に作られたものだと結論付けている。

その根拠の一つとして、この前品である勧持品からの流れの違和感にも触れている。前後のつながりがおかしいとの指摘だ。

勧持品から安楽行品のつながり

ここで法華経のストーリーを確認してみると、勧持品では、出家者達が最も厳しい娑婆世界を避けた上で「釈尊滅後に、娑婆世界以外で布教します」と誓願する。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して一段の覚悟を促す。その視線に気付いた菩薩達は獅子吼で応えて、最後の偈において不惜身命の覚悟で滅後の布教を誓う。彼らは、ありとあらゆる(三類の)増上慢の輩たち(国王・大臣・婆羅門・居士・及び余の比丘衆)からの種々の迫害(数数見擯出、罵詈毀辱、刀杖を加うる)を予期しており覚悟を決めている。このように菩薩達の決意が最高潮に達した所で勧持品は終了する。

ところが、その次の安楽行品になると「釈尊滅後の悪世に於いてこの法門をどのように説き明かすべきか」という問いに対して、釈尊の回答が四安楽行なのである。その中の身安楽行では自ら交際範囲を制限するように警告している。どうも前品に比べて一気にトーンダウンしたように感じてしまう。

更に、第二の法(口安楽行)では、打撃を受けることもなく、非難の言葉を受けることもない、追放される(擯出)こともない、つまり迫害されることが無いことが説かれている。加えて、第四の法(誓願安楽行)を具えた菩薩は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・国王・王子・大臣・人民・婆羅門・居士たちによって、称賛され、尊重され、尊敬され、供養されるとある。これらの箇所には勧持品とは全く逆のことが説かれているのだ。

このように見てみると、確かに勧持品と安楽行品とのつながりには違和感を覚える。

勧持品から従地涌出品の方が

ストーリーの流れを考えれば、勧持品の次は従地涌出品に進んだ方が自然に思える。勧持品の中で、釈尊滅後の娑婆世界に於ける布教がどれほど困難であるか最大限に強調された。それを担う本命中の本命(上行菩薩が率いる)地涌の菩薩がいよいよ登場する。

安楽行品の価値は

ただし、『四安楽行』自体は極めて真っ当な内容であり、仏法者として重要な姿勢が説かれている。これらが間違っているとは思わない。法華経の精神に反するものではない。更に『髻中明珠の喩え』の段では法華経最勝が説かれている記述がある。これは極めて重要な箇所である。従って、当該品が全て「法華経とは関係なく独立して作られた」ものとは思えない。

私が違和感を覚えているのは、上記の通り「適切な交際範囲」での個別職業と特定カースト層の記述部分と、当該品が配置されている順番である。順番に関しては、この安楽行品は勧持品の前に置くべきだった。

正宗分で重要な品なのに

仮に、観世音菩薩普門品・妙音菩薩品・普賢菩薩勧発品・妙荘厳王本事品・陀羅尼品・薬王菩薩本事品の6品が、後世の挿入であったとしても。これらの品は流通分と位置付けられており、中核部分ではない。

しかし、この安楽行品は、法華経のストーリーに於いて本筋中の本筋の品である。それが「法華経とは関係なく独立して作られたもの」だとしたら、根底から揺らいでしまうではないか。上記の流通分6品とは重みが違うのだ。

大聖人が、種種御振舞御書などで、諸天善神へ諌暁された重要な依拠となる品である。当該品の中で「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」「天の諸の童子、以つて給仕を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と諸天が法華経の行者を守護することを誓っているのである。

この経典の裏付けが無くなってしまうのだ。

「摂受」を説いている品

大聖人はこの安楽行品を『摂受』を説いている品と位置付けられた。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし」(開目抄)と仰せの通りである。同じく開目抄で「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし」との見解を示されている。また、摩訶止観や弘決を引用され、仏説には二種類あり、一切の経論は摂受・折伏の二つを出ることはないとの見解を示されている。これらの御文から、大聖人は当該品に対する違和感は無かったと推察される。

大聖人は、当該品を摂受を代表する品であると重要視された。それを思うと「法華経とは関係なく独立して作られたもの」という見解を簡単に受け入れるわけにはいかない。結論を軽々に下すのではなく、今後も慎重に考察を進めていきたい。



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