法華経の嘱累品は、菩薩達に相対的に付嘱されている為に、『総付嘱』と呼ばれている。
この嘱累品の考察をずっと続けているが、私にとって解釈が非常に難しい品である。幾つかの疑問点・重要な個所を挙げてみる。

なお、サンスクリット語原典のテキストには、植木訳を用いる。岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは適切ではない。

釈尊が頭をなでる行為

鳩摩羅什訳には
爾時釈迦牟尼仏。従法座起。現大神力。以右手摩。無量菩薩摩訶薩頂。

爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて
とあり、釈尊が無量の菩薩達の頭をなでている記述がある。これを三回繰り返すのである。これを『三摩の付嘱』と呼び、天台宗、日蓮仏法では重要な意味を持たせている。

ところが、サンスクリット語原典には、
(釈迦牟尼)如来は、その法座から立ち上がって、それらのすべての菩薩達を一まとまりに集合させ、神通の顕現によって完成された右の掌で、[それらの菩薩達の]右手をとって
とあり、「(一つの)右の掌で無数の菩薩達の右手をとった」と記述されている。ここに「頭を撫でる」という表現はない。

この違いは何なのだろうか。何故、鳩摩羅什は頭を撫でるという翻訳をしたのだろうか。

何を付嘱されたのか

サンスクリット語原典にはこう記述されている。
「良家の息子(善男子)達よ、幾百・千・コーティ・ナユタもの数えきれない劫をかけて達成したこの上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を、私は、あなたたちの手に託し、付嘱し、委ね、委嘱しよう。
良家の息子達よ、[その覚りが]広く普及し、流布するように、そのようにあなたたちはなすべきである」
この上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)が対象として記述されている。
では、これは法華経そのものを付嘱したという解釈でよいのだろうか。
(なお、ここで良家の息子(善男子)達よ、と呼び掛けているが、目上の人(如来)が菩薩に対して、このような呼び方をする事は許される。従って、対象は菩薩達である)

一方、神力品では次のように明記されている。
シャーキャムニ(釈迦牟尼)という名前の正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来がおられる。その[如来]は今、広大なる菩薩のための教えで、すべてのブッダが把握している”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”(妙法蓮華)という名前の法門である経の極致を、偉大な人である菩薩のために説き示しておられるのだ。
あなたたちは、その[法門]を高潔な心をもって喜んで受け入れるがよい。
付嘱の内容は間違いなく『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』(妙法蓮華経)であることが判断できる。

ところが嘱累品では、神力品のように明記されていない。故に、解釈が難しい。

仮に、嘱累品でも妙法蓮華経が付嘱されたとすれば

つまり、神力品と嘱累品は全く同じ法門が付嘱された事になる。

ここで法華経のストーリーを確認してみたい。法師品以降は、釈尊滅後の弘通がメインテーマとなってくる。従地涌出品で、迹化の菩薩や他方の菩薩達は、釈尊滅後の娑婆世界での布教を誓願するのだが、それを釈尊は「止みね善男子」「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止して、
「所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
と地涌の菩薩達を呼び出す。そして神力品で(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達に法華経の付嘱を行う。いわば本命中の本命にバトンタッチを行ったのだ。ここまでのストーリー展開は無理がなく納得が出来る。

ところが、この後で、同じ法門を、迹化の菩薩や他方の菩薩達に付嘱する理由がわからない。今までの流れは一体なんだったのだ。という疑問が湧いてくる。

神力品での付嘱で虚空会の儀式は終わり、散会すれば良かったのではないだろうか。

何も託さないというのも

ただし、何も託さないというのも可哀想だろう。これまでのストーリー展開を振り返れば、釈尊は滅後の布教の覚悟を促している。勧持品では、出家者達が「娑婆世界以外を布教します」と最も厳しい娑婆世界を避けた上での弘通を誓う。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して更なる覚悟を促している。そのような経緯があって、菩薩達はついに決意し、従地涌出品の冒頭で娑婆世界での布教を誓願するのだった。

ここまでの覚悟を促したのだから、何らかの役割を託すのが妥当ではある。彼らには、(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達のサポートとしての役割を与えれば、一番スッキリとした展開になったと思われる。

巧みなる方便

別の観点として、巧みなる方便という記述から考察してみたい
良家の息子たちよ、私は大施主である。良家の息子たちよ、あなたたちも、嫉妬することなくまさに私から学ぶべきである。[あなたたちは]この如来の知見と卓越した巧みなる方便に達して、[この如来の知見と卓越した巧みなる方便を求めて]やってきた良家の息子(善男子)たちや、良家の娘(善女人)たちにこの法門を聞かせるべきである。
これを読むと、「嘱累品で付嘱された法門は、巧みなる方便によって弘通しなさい」という解釈も出来る。

しかし、そもそも方便品に於いて「今まで衆生を教化する為に、様々な方便を用いて化導してきたが、如来が本当に説きたかったのは『一仏乗』なのだ」と釈尊は明かされた。当然ながら、これ以降は方便を用いる必要が無いはずである。それなのに、嘱累品で、菩薩達に対して「再び方便を積極的に用いて布教をしていきなさい」というのは強い違和感がある。

ただし、現実に法華経を布教をする上で、様々な譬え(比喩)を用いるのは有り得ることだろう。そのような意味で『巧みなる方便』という記述を解釈することも出来る。つまり嘱累品の付嘱では、布教の具体的な実践方法まで踏み込んで表現されていた事になる。

総括すると

このように嘱累品は解釈が非常に難しい。現時点ではこのような見解を持っているが、見落としている部分があるのかも知れない。結論を軽々に下すのではなく、今後も考察を続けていきたい。


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