『生かされるまま生きる』のイプシロン氏は、こう言い放った。
まあ、未だに『宿業』だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、『業』なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
仏法で説かれる業を『似非仏教』だと吐き棄てているのである。これほど愚かな思い上がりは無い。

死=無に帰するのならば

以下は、彼の主張に沿って考察してみる。

死ねば全てが無に帰するならば、この世の努力など何の意味があるのだろうか。それは『社会的に成功する為』ただその一点が回答になる。それ以外は全て無駄になる。

イプシロン氏は、作家志望ではあるが、(社会的に成功した作品を)何一つ世に出せてはいない。世間的には何の評価も得られていない、何の成功も為していない。ならば、彼の今までの努力は死によって全て無に帰するのである。誰にも彼の功績など語り継がれる事もない。何も残らない(この世に於いて何の成功の実績も無いのだから、当然である)

ならば彼は、何の為に努力するのだろうか。彼のライフワークである読書など、今更、社会的な地位向上に何の役にも立たない。読書や哲学など何の価値があるのだろうか。積み上げてきた知識など何の役に立つというのだ。

それよりも、残りの人生、享楽と欲望のままに生きた方がよっぽどマシというものだ。その方がよっぽど充実した余生を過ごせるだろう。旨い物をたらふく食い、旨い酒を浴びるように呑み、娯楽に興じた方が遥かに楽しく豊かな人生と言える。

三世の業を否定すれば、勝者のみが正義となる

仏法で説く『善業・悪業』を否定すれば、この世に於いて、どんなに悪い事をしても成功した者だけが世間的に評価されるようになる。バレなければ、成功者として尊敬されるのだ。

逆に、(イプシロン氏など)どれだけ影で地道に努力しようと、社会的に成功してない人物は何の価値もないと見なされる。どれだけ人の為に尽くそうと努力しようが、それが表に出ない限り、社会的には何の評価も得られない。ただの要領の悪い哀れな人だ。そして死ねば無に帰するのだ。要するに価値のない人生だったということになる。

イプシロン氏は、社会的には無価値と見なされ一生を終え、死後も無価値として存在すらスルーされるような人生なのだ。彼はそれで満足なのだろうか。要するに、彼は『三世の善業・悪業』を否定することによって、『人生の敗北者』たる彼自身を痛烈に否定しているのである。何と悲しい事か。

世の中の大半の人々は

(死後の世界を信じない)無神論者で、世の中の殆どの人は、このような状況に置かれた時に、果たして奮起しようとするだろうか。虚無感に覆われて残りの日々をただ絶望するだけではないだろうか。中には投げやりになって、ギャンブルや犯罪や麻薬に手を染める人もいるだろう。『死後の裁き』が無い『死ねば、どうせ無になるのだ』と思い込んでいるのだから、そのような発想になるのも仕方が無い。悲しい事ではあるが。

死によって消滅しないものを信じるからこそ、人は前向きに生きる事ができるのだ。だからこそ確固たる信仰を持ち『死後も消滅しない』と確信を持つ人は強い。


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