以前に取り上げた『生かされるまま生きる』のイプシロン氏だが

日蓮仏法への純真な信を失い、どんどん狂った方向へ堕ちていってしまっている。最近は以下のような日蓮批判を執拗に繰り返している。
法華経こそ最第一の経典である。仏教は「平等」こそ真理と説いてはいるが、法華経が最も優れていると説いてよいなどといった「法華の慢」だけは許されるとかなんとかいって、他を見下す「見解」をしてる時点で、日蓮の見解など信用が置けないということだ。

日蓮仏法は三世永遠の因果の法則を完全に説き明かしたとか、昔は愚かにも信じていたが、今では迷妄であったと恥ずかしいかぎりだ。

日蓮の行動と彼のしたためた本尊の相貌云々を調べれば調べるほど、日蓮の支離滅裂さ、攻撃的であり、武力を肯定し、民衆仏法などと決して呼べず、平和主義でも何でもないことが見えてくるのだ。もはや、わたしなど、勤行・唱題もしてませんけどね。曼陀羅も必要ないと月々日々に思うようになっているくらいだ。

ゆえに、今更、支離滅裂な日蓮の曼陀羅本尊など、わたしには必要ないと結論したわけだ。
彼は、仏法による三世の法則を信じていない。或いはキリスト神による死後の世界を信じていない。初期仏教の『空の概念』を、単なる観察に利用しているだけである。もはや、これは立派な無神論者であろう。
やれ御本仏だの、前世だの来世だの宇宙生命論だの、宇宙意識だの。馬鹿なんじゃないかと。 生命なんか存在しません。あるのは生命現象だけ。ただの事象。だから魂もないんですよ。あるのは情報とエネルギーと物質が併存する「場」だけなの。その場のことを魂と呼ぶのは人の勝手ですがね。でも本当のところは、場に一時的に生命現象が現れてるだけのこと。

自分自身を信仰の対象に

挙句の果てに、とうとうこんな事まで言い出した。
「信じることもまた執着。自分の信仰すら棄て去れ」(スッタニパータ)
自分の信仰を持つのではなく、自分を信仰の対象にする。
つまり、自分を信じることが仏教の極意なわけだ。
スッタニパータの一文を、自分勝手に切分解釈して、とうとう、自分の信仰を持つのではなく『自分自身を信仰の対象』にするとまで言い出したのだ。揺れ動き移ろい易い己心を本尊とするとは。『我見解釈』もここまでくると恐ろしくなる。

日蓮大聖人は「『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とは、六波羅蜜経の文なり」と
厳しく戒めておられる。

もはや彼の主張は、ドストエフスキー著『悪霊』に登場するキリーロフと酷似しているではないか。キリーロフは無神論の究極の行きつく先、いわゆる『人神論』を展開した。「苦痛と恐怖に打ち克つ者が、自ら神になる 。そして、あの神はいなくなる」と。そう宣言したキリーロフの、その悲惨な結末は誰もが知る所だが。

彼はニーチェ哲学に心酔してるらしいが、晩年のニーチェのように発狂するような事にならねば良いが。

イプシロン氏を狂わせたもの

日蓮仏法を信仰の根本にしていた頃のイプシロン氏は純粋であり魅力があった。数年前に、創価活動家の『ちよ氏』や『ラン氏』らと同盟題目を上げて仲良く交流していた頃の『純粋な彼』は何処に行ったのだろうか。池田名誉会長の『青春対話』を目をキラキラさせながら愛読していた彼は何処に行ったのだろうか。

一体、何がイプシロン氏をここまで狂った思考に陥らせたのだろうか。蓮華は泥の中でも美しい花を咲かせるが、彼は現実のドロドロとした事に耐えられずに花を咲かせる前に萎れてしまったのだろうか。傷つきやすい心がポキっと折れてしまったのだろうか。




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