(仏法発祥の地)インドの仏法には元来、草木成仏という概念が無かったらしい。では「草木成仏は、釈尊の説法に依拠しているのか否か」を考察してみたい。

涅槃経に説かれる『一切衆生悉有仏性』の意味するところは、「あらゆる生き物には仏性があり、仏になる可能性を具えている」ということである。ここで、『一切衆生』というのは『生きとし生けるもの』を意味しており、その中には草木瓦礫は含まれないようである。草や木はインドでは、瓦礫や壁・土塊と同様に感覚がないものとされていた(鳩摩羅什は知がないと訳している)『知』もなく『感覚』もない草木に成仏は無理な事だとされてきた。

更に文法的に詳細に見ていきたい。サンスクリット語で『生きとし生けるもの』を意味するサットバ(sattva・सत्त्व)を鳩摩羅什は衆生と漢訳したが、玄奘は草木瓦礫などの非情と対立させて有情と訳した。これは草木に精神がないとするインドの考え方を反映した訳である。なお、非情に該当するサンスクリット語は見当たらないようである。

仏法が中国に伝わり、天台宗で『草木国土悉皆成仏』という思想が起こってきた。天台大師は法華経の法理を、一念三千として体系化した。この一念三千の法理こそ、有情・非情を含めて三千の諸法が一念に収まることを明らかにしたものである。摩訶止観にて「一色一香も中道に非ざること無し」と説いている。妙楽大師はそれを更に明確に表現された。止観輔行伝弘決で「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」と無情の色香等にも仏性がそなわっているという草木成仏の義を述べている。金剛錍論では「一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果ありて、縁了を具足せり」とあり、草木にも仏性があると、明確に述べている。止観輔行伝弘決には身、事理、土、真俗、因果等の十義に約して根拠を挙げている。

であるならば、大聖人の御図顕された御本尊、言うまでも無く『非情』である紙に認められた文字曼荼羅、草木成仏は何に依拠しているのだろうか。日々考察を続けている。勿論、草木成仏口決や木絵二像開眼之事などの関連御書は数えきれないほど繰り返し拝読した。

仏法発祥の地インドに於いて、草木成仏の概念が無かったとするならば、釈尊の説いた仏法には草木成仏が説かれなかった事になる。では草木成仏の法理は『天台宗の独自教義』として考えるべきなのだろうか。或いは、インドの仏法にも草木成仏の概念が存在している可能性を模索すべきだろうか。

ではインドに於いて仏像を崇拝の対象としていた事はどう解釈すべきだろうか。或いは、仏舎利(釈尊の遺骨)を崇拝していたのはどうだろうか。これらは、仏像や仏舎利に仏性があるのを信じていたのでは無かったのだろうか。

これは私にとって非常に難しいテーマであるので、結論を軽々に下すのではなく、今後も研鑽を進めて考察し続けていきたい。


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