有名な仏教学者の中村博士は「仏教で説かれる『成仏』とは人格の完成である」と主張したが、それは仏教の一面のみで限定した見方であろう。

人格の練磨・完成が目的ならば、別に仏教だけが特別というわけでもない。古今東西の道徳教育でも充分達成できるだろう。人格を磨く事は何処だって出来る。家のお手伝いだろうが、アルバイトだろうが、ボランティア活動だろうが、人の為に役に立つ事をすれば人格は磨かれる。

しかし、これでは、仏教は『数多くの人格教育の一つ』に過ぎなくなってしまうではないか。わざわざ難解な仏教の教義を学んだ結果が、単なる道徳教育と同じ結果、と言ってるのである。

釈尊の時代から、単なる人格の練磨ごときに、わざわざ出家する必要があったのだろうか。人生をかけて出家して、それで得るものが単なる練磨された人格なのだ。

そんなはずは無いだろう。仏法を適当に『我見解釈』するのは止めて欲しいものだ。

中村氏は肝心な点を見逃してると言わざるを得ない。

中村氏の仏法見解を読めば、平等思想だの人格の練磨だの綺麗な言葉が並んでるが、それは仏法の一面に過ぎない。『三世の生命』と『因果具時の法則』と『相即円融三諦』こそ仏法の本義なのだ。これをスルーする中村見解など取るに足らない。そして、その弟子の植木氏の見解も同様である。所詮は大乗非仏説、つまり「釈尊の直説ではない」と思い込んでる連中の仏法への理解など、この程度に過ぎない。

植木氏は、法華経の平等思想を強調しているが、他の宗教との優位性はどうなのだろうか。キリスト教でも神の元の平等は説かれる。彼等の著作を読む限りでは法華経は「その他の平等を説く宗教」と同じレベルでしかないのだ。

人格がどうのこうの言ってる程度で、生と死の問題をどうやって解決できるのだろうか。末期癌など不治の病に侵され、死が間近に迫った人に何の効果があるのだろうか。何の役にも立たないだろう。だからこそ日蓮大聖人は即身成仏を説かれたのだ。「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せのように、死後の生命こそ仏法の最重要課題なのである。この観点なくして仏法研鑽は意味が無い。

中村氏や植木氏の見解など『自分の死後の生命』の解決に何の役にも立たない。



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