植木訳を手掛かりに、法華経研鑽を進めているが、植木氏の解説を読めば読むほど、岩本訳の曖昧さが目立ってくる。文法上で不正確な訳が多い。そのような個所が数多く指摘されている。その中には意味合いが大きく違ってくるものもある。

例えば、信解品で「また、自身の栄耀栄華を息子が疎んじていることを知っていましたし、」と訳されているが、『息子が疎んじていること』などサンスクリット語の原文にはどこにも記載されていない。

或いは、「お前は、[この財産の]すべてを完全に知るべきである」と訳すべき文章が、岩本訳では、「おまえはこのすべてを受け取ってもらいたい」となっている。原文には『受け取る』などといった意味は無いし、この段階で「(財産を)受け取ってもらいたい」と、長者(資産家)が発言するのは早すぎる。この段階では、財産の全てについて知悉するように言っているだけで、長者(資産家)が財産を贈与するのは、この後の国王や、親戚縁者、町や村の人々を邸宅に招いた時のことである。また、この文章は日本語としてもおかしい。「おまえは」を主語にするのなら、述語は「受け取るべきだ」とするべきだし、「受け取ってもらいたい」を述語にするのなら、主語は「私は」とすべきで、目的語を「おまえに」とするべきである。

他にも薬草喩品で、
「横になる寝台や、坐る座席にあっても、私には、怠惰が存在することは決してないのだ」と訳すべき文章が、岩本訳では「ひとたび説教の座に坐れば、まことに余に怠惰の気持ちの生ずることはない」となっている。原本には『ひとたび』に相当する語は用いられていない。『説教の座』と訳された語も、原文では「横になる寝台や、坐る座席」となっている。岩本訳では、怠惰の気持ちが生じないのは、説教の座に坐った時だけというニュアンスになってしまう。原文は、寝台で横になっている時も、椅子に坐っている時も、すなわちどんな時にも怠惰であることは無いと言っているのであって、岩本訳は適切ではない。

これらは、ほんの一例であって、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、研鑽のテキストとして用いるのは疑問である。

サンスクリット語の文法を厳密に検証している植木氏の訳が一番信用できる。


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