『スッタニパータ』を精読している。釈尊の直説と信じている人も多い。

「まのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>」(彼岸に到る道の章)とは『即身成仏』のことを説いているのだろうか。

四諦・八正道・十二因縁に該当する箇所はあるようだ。しかし、業の厳粛な因果について、輪廻の因果律、空仮中の三諦に関しての明確な記述は、果たして説かれているのだろうか。

コーカーリヤの経(第3・大きな章・10)には地獄の恐ろしさについて説かれている。

何が革新的であるのか

しかし、これでは小乗仏教の教義程度にしか思えない。当時の哲学・宗教・思想に於いて革新的であったのか疑問である。例えば、バラモン教のウパニシャット哲学(業・輪廻の死生観や、ブラフマン(梵)とアートマン(我)による梵我一如)に比べて革新的であるか疑問である。

欲望や執着を消滅させることが強調されているが、『煩悩即菩提』こそ仏法の真髄である。大聖人は「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」と仰せである。

ヴェーダの扱いに関して

ヴェーダへの配慮も随所に散見される。
「ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。」(大いなる章・5マーガ・503)
「火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー〔讃歌〕はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである」(大いなる章・7セーラ・568)
「このことを如実に知って、正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。」(大いなる章・12二種の観察・733)
「ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。」(9マーガンディヤ・846)
これらの文言を、どのように解釈するか難しい点ではあるが。

二種の観察

『二種(二重)の観察』は観察法としては優れている。

師弟に関して

第5:悲願に至る道の章で「師(ブッダ)は答えた」と何度も記述されている。仏法に於いて師弟が重要なのは言うまでもない。だが創価が言うような『師弟不二』とは違う。

三世の生命

スッタニパータでは、法華経に説かれる『永遠に続く生命』『因果具時の生命の法則』は説かれていない。

果たして、これで死への恐怖を克服できるのか疑問である。来世のことが曖昧に感じないのだろうか。

単なる認識論では意味が無い

(「気楽に~」渡辺氏や、イプシロン氏など)スッタニパータを過度に重視する連中がいるが、彼らの主張は要するに『単なる心の持ち方』や『物事の認識の仕方』である。その程度の理解ならば、別に原始仏教に固執することは無いだろうに。例えば、孔子や老子でも、それなりに礼儀や道徳、心の持ち方に関して優れた見解を示しているのだから。

仏教は『三世を見通す明鏡』であるから唯一・最高峰なのである。現世のみに限定すれば孔子・老子でも他の哲学者でも充分な価値はある。



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