ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の一節に、このようなくだりがある。

信仰に悩める貴婦人は尋ねる
人間の幸福とは?来世とは?何によって証明し、何によって確信すればいいのでしょうか。

経験豊富な修道院の長老は諭す
「この場合、何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」
「どうやって?何によってですか?」
「実行的な愛を積む事によってです。自分の身近な人達をあくすることなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛を勝ち得るにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信が持てるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地まで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信じられるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験を経た確かなことです」

トルストイの二老人の記事にも書いたが、これが信仰の主目的なのだろう。

本来、信仰の組織というのは、これを補助する為に存在するのである。ところが現実は組織活動がメインになってしまっている。組織の打ち出しを欠かさずこなすことが『幸福の軌道』につながると教えられているし、思い込んでいるのである。


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