法華経は滅後、特に末法の衆生の為に重点が置かれている。それも何度も強調されている。釈尊滅後・特に末法の方が、在世よりも遥かに困難であると説かれているのだ。

闘諍堅固・白法隠没と呼ばれ、飢饉・疫病・地震・火災・不作・内乱・外乱が襲い掛かり、現実に、衆生が、最も苦しんでいる末法に於いて、現実に人間として生まれ衆生を救済する『菩薩仏』である。実際の行動は菩薩行である。

寿量品の「如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。」大聖人はこの経文を「此の経文は仏界所具の九界なり」(観心本尊抄)と仰せである。

日蓮大聖人が現実に末法の世に生まれて、法華経に説かれる通り、数々の難を受けながらも、現実に衆生を救われた。

現実に実態のある人間として、法難により数多くの怪我を負わされ、晩年には体調を壊し、重い腹の病気もかかりながらも、有りの侭の人間として振る舞われた。

現実の末法の世に仏が出現しないのならば、仏法は、法華経は何の為に説かれたのか。仏とは何なのだ。単なる概念に過ぎなくなるではないか。仏法で説く仏の存在そのものが虚妄になってしまう。



確かに「法」は絶対であり、重要なのは言うまでもない。しかし我々は大聖人の行動・実践を通じて日蓮仏法を学んでいるのだ。「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と仰せのように、御書は大聖人の『実践の日記』そのものなのだ。

いくら理論上で仏性が説かれていても、実際に末法に於いて、仏が現実に現れて実際の行動で法華経の偉大さを証明しなければ『絵に描いた餅』同然だろう。ここが身延系の思想とは違う点だ。やはり人と法が同一(人法一箇)でなければ真の仏法とは言えない。

釈尊は、『サンユッタ・ニカーヤ』で以下のように説いている
「ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
法は、一人の人間として体現されて、はじめて価値が発揮される。仏とは、観念的・抽象的なものではなく、生きたブッダの人格として具現されてこそ価値がある。

同じ鎌倉時代の道元。彼も法華経を重視したという。だが彼が現実の衆生を救う行動を起こしたのか。不軽菩薩や上行菩薩のように。民衆が苦悩にあえいでいる時に何もしなかったのだ。草庵に籠り著作に没頭しただけだ。法華経の心を何も実践していない。彼がいくら優れた感性を持っていたとしても何の価値も無い。



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