池田名誉会長は多くの出版物を出している。その中で、文学を語る対談や、文学関連の出版物も多い。これは何の為に出したのだろうか。中立的な立場で考察してみる。

アンチ創価の人は、世界の著名人との対談は「箔をつける為だ」と言うだろう。それも一理あるだろう。では文学を語る対談や本は何のために出したのだろうか。聞いてみたいものだ。「単なる名誉会長の趣味」とでも答えるのだろうか。

ちなみに文学関連の対談や本の内容には、創価の話題が殆ど出てこないのが多い。創価の宣伝が主目的ではないことは確かだ。

世界の文学を読み込むことは、深く思索することにつながる。長編の文学を読み込むと、文脈の中で論理的に思考するようになる。物事を多角的に捉える癖がつく。そのような人間は『ワンフレーズ号令』で乗せられることは難しい。会員を従順に統治する目的なら『ものを考えさせない』方が楽である。会員一人一人の思考水準を引き上げてしまうと本部の打ち出しに従順に動く人間は少なくなるのに。わざわざ「青年は心に読書と思索の暇を作れ」と強調しているのである。

池田名誉会長なりの理想の構想があったのだろうか。ホールケイン『永遠の都』のように。

実際の所は、殆どの活動家は文学名著とは縁が薄いようである。特に婦人部は読んでる人は皆無だろう(『人間革命』と『香峯子抄』は必読のようだが)

私は高等部から学生部の頃、池田名誉会長を心から慕ってた頃、文学を語る本をバイブルのように熟読していた。その中でトルストイやユゴー・ロマンロラン・ゲーテ等々が語られていた。『若き日の日記』にも本の紹介が多々あった。「良書を読め」と指導されたので、私も多くの世界の名著を読み込んだ。周りの学会員にそのようなタイプは皆無だったが。

男子部に上がってから、私は『理屈臭い面倒な人間』と評価されるようになった。原理・原則と実践活動が矛盾していると感じた箇所を放置できなかった。途中から選挙支援活動に関する違和感を主張したり、納得のいかないことを徹底的に論議したりしたからだ。(とはいっても、ある程度の人間関係が出来ていたので、組織と揉めて遠ざかった事はなかったが)

創価の一般会員は従業員でも何でもない。会員の視点から見て、間違っていると思う箇所を指摘するのは当然の事なのだ。『純粋であるべき信仰の世界』で納得ができないまま組織活動をする事がおかしいのである。矛盾点をハッキリと提示して、それに的確な回答が得られない場合は、該当する組織活動をしないのは当然であろう。

しかし、一般的に、常に読書や思索を巡らせているタイプは組織に居づらくなるだろう。創価組織のワンフレーズ号令に簡単に乗せられない。『(画一的な)周囲のトーン』についていけずに組織から浮いた存在になる。やがて非活になって遠ざかっていく。現在の活動家にはそのようなタイプは殆ど残っていないだろう。

もしも、創価の活動家の大半の方々が、世界の古今東西の名著を読み込み、確かな史観を培っていたならば、創価は今のような姿にはなっていなかったのかもしれない。

弟子というものは結局教わらなかったも同然で、つまりはめいめい自己流でやってゆくものなんだ。(ファウストより)

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