日本人は無宗教に分類される人が多い。その割には、実はキリスト教徒よりも数多くの宗教的儀式に参加している。

整理してみたい
  • 正月は神社に初詣に行き、
  • 結婚式は教会で挙げ、
  • 葬式は仏教寺院で送る。
  • 人生の岐路や悩みがある時には呪術・占い系にすがる。『〇〇(地域名)の母』などと呼ばれる占い師のおばさんに見て貰うことがブームになっている。
  • 自分や近しい人が重い病気に罹患すると、急に神社に参詣して、病気平癒を祈る。
  • グルメとして精進料理を食べに仏教の寺に行き(食べるだけなら問題ないが)そこで僧侶の読経を聞いて本尊を拝んだりしている。
  • ダイエットやデトックス目的で、仏教の寺に行き、般若心経を読経して滝に打たれたりする修行体験をするコースも存在する。(参考記事
  • 近年ではパワースポットなる場所に巡礼することが流行になっている。
シチュエーションに合わせて気分に合わせて様々な宗教を取っ替え引っ替え用いているのだ。これだけコロコロと宗教を変える民族は他に類を見ないだろう。

これは「どの宗教でも、それぞれ優れた真理がある」「どの宗教でも御利益がある」という精神風土が元凶である。

教義の優劣を否定する連中の主張

法華経最勝を否定する連中に特に多いが、経典の優劣、宗教の優劣を考慮しない浅はかな連中がいる。

「どの宗教・どの宗派・どの経典もそれぞれ優れたものがある」「教義の優劣を主張するのは愚かだ」「絶対的な教えなどない」と言う連中は何と浅はかなのだろうか。

このような輩は以下のような愚かな発言をする。
「他の宗教に比べて自分たちの教えに正統性があるとするような宗教的主張を私は全く信じていません。どんな教えでも宗教であり、信仰であることには変わりなく、全てを公平に見ることが大切であると考えています。またそのような心こそが法華経安楽行品の精神だと考えています。」
このように法華経の精神を捻じ曲げて『我見解釈』する破仏法の輩がいる。

日本では昔から、このような考え方を持つ人が大多数を占めていた。このような姿勢が「宗教なら何でもいいね」という日本人の乏しい精神性を醸成していったのだ。恥ずべき事である。

「宗教なら何でもいいね」の末路

しかし、本当に「宗教なら何でもいいね」で済ましていいのだろうか。それで良い影響をもたらすのだろうか。

例えば、浄土宗はこの世を穢土と説き、死後の阿弥陀仏の来迎と極楽浄土への往生を目的とする。ゆえに現世では生きる気力を失い絶望し死後の極楽浄土を望んで自殺した信者も多かった。過去の歴史が物語っている。或いは一向宗のように、それが一向一揆のような、自らの命で敵を殺すことが救済につながるという教えになる。どれだけの信者が突撃して散っていったか数えきれない程である。

イスラム教原理主義者は、異教徒達をジハードで虐殺することが死後に神の元に行けると説かれる。だから自爆テロが後を絶えない。ジハードで戦死すれば殉教者として『最後の審判』ののち、必ず天国に迎えられると約束されていると固く信じているからだ。小さな子供や年頃の女性の服の中に爆弾を仕込み、異教徒めがけて自爆テロを起こす事件も多い。

「宗教なら何でもいいね」という連中は、このような宗教行為も「それぞれの独自性のある活動があって、個性があっていいね」と認めるのだろうか?

教えの浅深・優劣を明確に

どの教義を選ぶかによって、根本にするかによって、その人の人生・価値観は大きな影響を受ける。教義の内容の違いによって天と地ほどの影響の差が出てくる。現実の活動も大きく違ってくる。だからこそ、教えの浅深・優劣を明確にする事が何よりも重要であるのだ。


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