以前に紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏の見解はこうである。
死んだ後というのは、われわれは無情になるのですから、基本なにも感じないというのが正しい推測でしょうね。 意識が無い、無情になった=「無」です

宿命というのも同じです。結局のところ、この世に生まれてきてから自分でつけた心の習慣によってとってしまう行為のことです。それをさも前世からあったように説く宗派はインチキ仏教なわけだ。しかも来世に持ち越すとかいうならもっとインチキなわけだ
このように彼は死後の生命を『無』と言い切り、何も感じないと言い、三世の生命も否定している。それを説く宗派を『インチキ』と断定している。

人間というのはどこまで都合の良い『我見解釈』をするのだろうか。偉大な仏法という絶対の法があっても、人間の勝手な解釈で捻じ曲げて用いると不幸な結果になってしまう。このイプシロン氏を見ているとつくづく思う。

幼少の頃の虐待体験

そんな彼自身、幼少の頃の父親に虐待された体験が今でもフラッシュバックし蘇る。思い出したくない過去なのに自らの意思でコントロールできずに随時湧き上がってしまう。彼を苦しめている幼少の頃の虐待経験、これぞ生命に刻み込まれた消えない一念である。仏法では『蔵識』ともいう。

父親に虐待された場所・部屋、その時の風景や父親の鬼のような形相、その時に感じた恐怖、苦痛、逃れたい渇望、次から次へと湧き上がってくる。仏法上から見れば、その場所は国土世間である。地獄の地獄の生命であろう。五陰世間の識で認識をして、色・受・想・行、次から次へと感じる。

現代人が陥りがちな思考

この現世においてすら、感情・一念のコントロールすら全く出来ないのに、死後の生命を否定し、無だと主張し、都合の良い解釈をする。現代人にありがちな軽薄な思考である。夢で父親からの虐待を見ることもあるだろう、そのもっと強い状態が死後の生命の姿である。夢の中で悪夢を自らの意思でコントロールできないように死後の世界も主体的に制御できない。

普段は意識をしていない、だが生命の奥底に刻み込まれて永遠に消えない。自らの意識で消し去る事ができない。仏法ではこの生命を説いている。人間の人生はこのような一念の積み重ねである。これは死後の生命も続くと説かれている。死後も『我』は存在し、苦しみ、楽しみ、感じる生命は厳として存在するのだ。すなわち、死後の生命は『空の状態』の存在である。


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