先の記事で紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏、「気軽に~」の渡辺氏、Libra氏、yurukatsu21 氏、等々。様々な本を読んで学んだ結果、初期仏教(原始仏教)に固執する人達が多い。彼らは初期仏教こそが釈尊の唯一の直説だと思い込んでいる。頻繁にスッタニパータの一節を投稿してアピールしている。

私は、初期仏教に関して学ぶ事を否定しているわけではない。だが、そこに固執するあまり視野が狭くなり思い込みが激しくなっているのが残念なのである。

教義の優劣をつけない曖昧な姿勢

そして彼らは「宗派の優劣を主張するな」「他経より優れているというのは排他的である」と優劣をつけることを悪とみなしている。教えの浅深など一切考慮しないのだ。ある意味、日本人的な「宗教なら何でもいいね」という風土そのものである。

宗教の優劣を評価しなければ、極端な例を挙げれば、一向一揆でも、イスラム原理主義でも「それぞれ魅力があっていいね」となってしまう。教義の優劣をつけない姿勢こそ堕落なのだ。

十二因縁や四劫を学んでも

さて、スッタニパータ中では説かれていないが、初期仏教の枠組みは阿含部とされ、ここに十二因縁が入っている。この十二因縁とは縁起で説かれる一貫なのだが、老死から始まる人間の苦悩の根源が説かれており、その突き詰めた根源こそが無明である。陥りがちなのは、流転と還滅を行うことにより、根本の苦悩が消滅し、輪廻転生も無くなる。と解釈してしまう傾向にある。彼らはこのような我流解釈によって「死後の世界は無に帰する」という虚無思想に取りつかれてしまうのだろう。
(ちなみにスッタニパータでは『二種の観察』が説かれている。)

四劫(成住壊空)を学んでも、彼らの我見解釈によって無常観や厭世観に取りつかれてしまう。

彼らは釈尊の説いた死後の地獄界等を単なる教訓程度にしか思っていない。厳粛な生命の因果律である『業』(善業・悪業)を信じず、「死後の世界は無に帰する」と思い込めば、虚無思想に捉われるのは当然だろう。

三世の生命を否定すれば

生命が、この現世のみであれば「何をやっても良い」「どんな卑劣な事をしても(露呈しなければ)成功した者が偉い」という発想になる。どれだけ裏で悪逆非道の限りを尽くしても成功すれば、それが表に露呈しなければ善人を装い続けることができて賞賛されるのが現実社会である。

逆に、どれだけ人類の為に、地球の為に尽くした人生であっても、それを隠蔽されて改竄されて悪者にされれば未来永劫その人は悪人、或いは無かった存在となってしまう。

彼らの浅薄な論理ではこのような人達を正当に評価する基準を持たない。つまり、このような人達は、結局は『成功者』を認めざるを得ないのだ。

日蓮仏法を信仰の根本に置かず『我見解釈』をする人達は、このように根無し草のようなフワフワとした思考になってしまう。